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明賢の物語(日本建国物語)正式版  作者: 大和草


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112/128

112話 熱帯夜

夜が近づく。

 昼の名残をわずかに留めていた空は、ゆっくりと色を沈め、やがて深い紫へと変わっていった。


 樹海の向こうでは、いつの間にか無数の虫が鳴き始めている。

 ひとつひとつの音は小さいが、それらが重なり合い、絶え間のない波のように広がっていた。


 湿気が肌にまとわりつく。

 服の内側にまで入り込み、息をするたびに肺の奥に熱を運んでくる。

 遠くで、低くくぐもった雷鳴が響いた。


 艦の上では照明がともされ、薄い光がゆらゆらと川面を照らしている。

 褐色の水は光を鈍く反射し、岸の闇と船影の境界をぼかしていた。


「この川の奥に、ゴムの森があるというが」


 誰かが、独り言のようにつぶやいた。

 返事を期待した声ではない。

 ただ、重い空気に押し出されるように漏れた言葉だった。


 前田中将はその声に応じず、しばらく川の先を見つめたまま、やがて、ゆっくりと首を振った。


 「焦るな。今日からここが我らの前線だ。」


 短い言葉だったが、それは艦内に静かに行き渡った。


 艦の甲板には仮設の観測台と通信設備が設置され、作業員たちが手早く、しかし慎重に機材を調整していく。

 周囲の水流、風向き、気温が順に記録され、数字が紙の上に積み重なっていった。


 船は静かに揺れている。

 完全に停止していても、川の流れと微かなうねりが船体を揺らす。

 エンジンの熱はまだ甲板に残り、足の裏からじわりと伝わってきた。


 夜、船員たちは交代で甲板に立ち、周囲の音に耳を澄ませていた。

 目で見るよりも、音のほうがはるかに多くを語っていたからだ。


 木々のざわめき。

 聞いたことのない動物の声。

 近いもの、遠いもの、高さも方向も定まらない。


 暗闇の奥から、何かが川を渡るような水音がした。

 短く、しかし確かな音だった。


「誰か、いるのか?」


 警備兵が、ほとんど息だけで呟く。

 銃を握る手に、わずかに力が入った。


 しかし、闇の向こうに見えるのは何もない。

 あるのはただ、濃密な湿気と、名も知らぬ生き物たちの気配だけだった。


 アマゾン、世界でもっとも深い森。

 この日、日本艦隊はその門の前に、静かに錨を下ろしていた。


 夜が明けると、川面は一面の白い霧に覆われていた。

 対岸は見えず、水と空と森の境目が溶け合っている。


 陽光が差し込むたびに、霧の粒が細かくきらめき、光の筋がゆっくりと流れていった。

 森の奥からは、鳥の声が幾重にも重なって響いてくる。


 艦の甲板では、朝靄の中を上陸用舟艇が次々と降ろされていた。

 ロープがきしみ、金属が触れ合う音が静かな朝に響く。


 今日から、本格的なアマゾン調査が始まる。

 目標はただ一つ。

 パラゴムノキの発見と、その種子の採取である。


 前田中将は帽子のつばを軽く上げ、霧の向こうを見渡してから、調査隊長の田嶋に目を向けた。


 「焦るな。森は人を飲む。半日歩いても進めぬことがある。戻る道を必ず記録せよ。方位を見失えば、生きて帰れん。」


 一言一言を区切るように告げる。

 田嶋は表情を引き締め、力強くうなずいた。

 「心得ております。」


 上陸した調査隊は数十名。

 工兵、植物学者、測量士、そして護衛の兵士たち。


 森に入った瞬間、全員の頬に熱気がまとわりついた。

 空気は重く、息をするたびに体力が削られていくのが分かる。


 葉の裏からは水滴が落ち、肩や首筋を濡らす。

 足元の土はぬかるみ、一歩踏み出すたびに靴が沈んだ。


 「まるで湯気の中を歩いてるみたいだな」


 若い兵が息を吐きながら言う。

 植物学者の堀口は、手帳を開いたまま歩き、視線を巡らせて答えた。


 「これが熱帯というものだ。見ろ、この葉の形。おそらく近縁種だ。」


 木々の間には、太く長い根が地表に張り巡らされている。

 地面そのものが隆起し、まるで呼吸しているかのようだった。


 時折、木の幹に刃物を当て、切りつけて白い樹液を確かめる。


 「これは違うな。ゴムの匂いが薄い。」


 しばらく確認してから、誰かが言う。

 別の者がうなずき、周囲を見渡した。


 「次の林を見よう。」


 調査隊は再び歩き出し、湿った森の奥へと、静かに姿を消していった。


 昼過ぎ、陽がほぼ真上に昇り、影が足元に短く縮むころだった。

 森の奥で、堀口の声が張りつめた空気を切り裂いた。


「見ろ、これだ! 樹皮が灰褐色、葉は三枚一組、間違いない、パラゴムノキだ!」


 一瞬、周囲が静まり返る。

 兵士たちは動きを止め、息を詰めてその方向を見た。

 次の瞬間、誰かが一歩踏み出し、さらにもう一人が続く。


 一本、二本ではなかった。

 視線を奥へ送るほどに、同じ特徴を持つ木々が次々と現れる。

 林の奥へ、さらにその奥へと、何十本もの木が静かに立ち並んでいた。


 高く伸びた枝葉の隙間から、強い陽光が断片的に差し込む。

 その光を受けて、幹の切り口からにじんだ白い樹液が、小さな粒となってきらりと光っていた。


 隊長はゆっくりと近づき、一本の木の前で足を止めた。

 手を伸ばし、慎重に指先で樹液をすくい取る。


 ねっとりとした粘りが、皮膚に絡みつく。

 指を近づけると、鼻腔を満たす独特のゴムの匂いがはっきりと伝わってきた。


 「これで、日本の工業が息を吹き返す。」


 低く、噛みしめるような呟きだった。

 中将は顔を上げ、すぐに採取員たちへ視線を向ける。


 「種子を一つ残らず拾え。熟していないものも全てだ。船に戻り次第、乾燥庫を作って保管する。」


 声には迷いがなかった。

 兵士たちは短く返答し、それぞれの持ち場へ散っていく。

 足元の落ち葉をかき分け、地面に落ちた種子を丁寧に拾い上げていった。


 午後になると、布袋や木箱に詰められた種子が、次々と舟艇で艦船へ運ばれ始めた。

 川面を進む舟艇は、種の重みで低く沈み、水を押し分けながらゆっくりと進む。


 艦内では、工兵たちが急ぎ足で動いていた。

 専用の保管倉庫が設けられ、冷却器が休みなく回される。


 湿気に弱い種子を守るため、船内の温度と空気の流れは細かく管理された。

 空気がよどめば、全てが無駄になる。


 「この森の湿度をそのまま閉じ込めたら全滅だ。乾かせ、急げ!」


 怒号に近い声が飛ぶ。

 作業員たちは汗を流し、息を荒らしながら、次々と木箱を担ぎ、所定の場所へと運び込んでいった。


 夕方、作業が一段落すると、艦内には疲労と同時に、確かな達成感が漂い始めていた。


 その夜、艦上では簡素な祝宴が開かれた。

 保存食の米と干し肉が配られ、艦の製氷機で冷やした果実水が兵士たちの手に渡る。


 甲板に座り込んだ兵士の一人が、闇に沈む森の輪郭を見つめながら、ぽつりと言った。


 「こんな森の奥に、日本を変える木が眠っていたとはな。」


 その言葉に、誰もすぐには応えなかった。

 遠くで虫の声が響き、川の流れだけが一定の音を刻んでいる。


 やがて前田中将が、静かに口を開いた。


 「森は昔から、神が作った倉庫だ。人が正しく使えば、誰も傷つかぬ。」


 その声は低く、穏やかだった。

 兵士たちは黙って杯を傾け、闇の向こうに広がる森へと、再び視線を向けた。

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