111話 アマゾン奥地
到達点
中将は操舵室の窓越しに、荒れた海をじっと見つめていた。
分厚いガラスには絶え間なく水滴が叩きつけられ、視界を歪ませては流れ落ちていく。
前田中将は双眼鏡を持ち、再び外へ視線を向けた。
波は低くうねり、重く沈んだ色を保ったまま、艦の進路を塞ぐことなく広がっている。
「我らの旅路は、時の外を進んでいるようだな」
誰に聞かせるでもない、ほとんど独り言に近い呟きだった。
その声は操舵室の機械音に紛れ、すぐに消えた。
横に立つ副官は、その様子を一瞬だけ見てから、柔らかく笑った。
「ですが、少将。この日本のエンジンと船がある限り、風に負けることはございません。」
遠山の言葉は、決して大きな声ではなかった。
それでも、確信を帯びた調子で操舵室に響く。
前田中将はゆっくりと頷き、机の上に置かれた地図を静かに開いた。
「信じているさ。日本人の作った機械の力を。」
指先が地図の線をなぞる。
そこに引かれた航路は、荒海を越えて確かに南へと延びていた。
燃料の消費は計算どおりであった。
機関区から上がる報告には狂いがなく、復水器で精製された水は生活用水として回され、乗員たちの体調にも大きな乱れは見られない。
寒冷と強風に晒されながらも、艦隊の秩序は崩れていなかった。
航海は過酷であったが、各部署は淡々と役目を果たし、それぞれが自分の持ち場を理解して動いていた。
やがて、南極の氷が視界に入った。
水平線の向こうに、青白い塊が浮かび上がる。
氷山は静かに漂い、動かぬ壁のように海に横たわっている。
艦隊はその間を縫うように、慎重に進んだ。
氷の影が船体を覆い、海の色が一段と冷たく沈む。
「温度、氷点下十三度。風速二十五メートル。」
観測員の報告が、届く。
前田中将は双眼鏡を下ろし、裸眼で氷の壁の向こうを見つめた。
白と青が重なり合うその景色は、音を吸い込むように静かだった。
「ここが世界の果てか、いや、我らの地図が続く限り、果てなど無い。」
その言葉は、氷に向けて放たれたというより、自らの内を確かめるような調子であった。
氷山の影を抜けると、海の色がわずかに変わった。
灰色だった水面は、次第に群青を帯び、やがて深い藍へと移ろっていく。
冷たい風の中に、ほんのわずかだが、湿り気を含んだ暖かさが混じり始めていた。
一週間後、航海士が報告を上げた。
航法表を確認し、慎重に言葉を選びながら告げる。
「南緯四十五度を越えました。これより北上を開始します。」
その瞬間、艦内に小さなどよめきが走った。
誰も声を荒げることはない。
だが、長く続いた寒冷の海を抜けたという事実が、確かに乗員たちの胸に伝わっていた。
空には鳥の群れが現れ始め、海面には時折、魚影が揺らめく。
空気はやや重くなり、潮の香りに混じって、湿った土の匂いが鼻をかすめた。
「これが、熱帯へ向かう風か。」
甲板に立った中将が、低く呟く。
彼の頬を撫でる風は、かすかに生温く、これまでの鋭さを失っていた。
船の壁には結露が浮かび、乗員たちは無言で上着を脱ぎ始める。
誰かが深く息を吸い、空気の変化を確かめるように胸を膨らませた。
空の色が、少しずつ変わっていく。
灰から青へ、青から黄金へ。
太陽の光は強さを取り戻し、海はその光を跳ね返すように、静かに輝いていた。
航海は順調に進みつつも、油断はできなかった。
海は比較的穏やかで、風も安定している。だが、それは表面上のことにすぎない。
エンジンの熱管理、燃料の均等分配、航路の確認。
どれか一つでも乱れれば、艦隊全体に影響が及ぶ。
機関室では温度計が常に監視され、燃料タンクの残量は何度も確認された。
航海士たちは六分儀と羅針盤を手に、空と海を見比べながら位置を割り出す作業を続けている。
数字を読み上げる声、鉛筆が紙を走る音。
それらが静かに、しかし絶え間なく続いていた。
夜、星空の下。
昼間の熱気がまだ船体に残り、甲板にはぬるい空気が漂っている。
前田中将は静かに航海日誌を開いた。
紙の感触を確かめるように指を置き、ボールペンをゆっくりと走らせる。
『我ら、南大陸を巡り、北へ向かう。空の星が輝きを増し、海の色が変わりつつある。ここから先は、熱と生命の地。我らはアマゾンを目指す。人の未踏の森、そのゴムノキを探るために。』
書き終えると、中将は一度ペンを止め、星空へと視線を向けた。
夜空には数えきれぬほどの星が瞬き、それらが静かに航路を見下ろしている。
波は穏やかになり、夜風は冷たさを失って、ぬるく肌を撫でた。
艦隊は速度を保ったまま、長い航海の果てへ向けて、ゆっくりと北上を続けていく。
やがて水平線の向こうに、濃い緑の雲のような影が現れ始めた。
最初はただの色の違いに見えたそれが、次第に輪郭を持ち、確かな存在として浮かび上がる。
アマゾンの大地の兆し。
それを、彼らは初めて目にした。
南米大陸の東岸が見えたのは、出航から七ヶ月目の夕刻だった。
陽炎のように揺れる地平線の向こうに、黒々とした樹海が広がっている。
どこまでも続く暗い緑は、山とも森ともつかぬ塊となって横たわっていた。
空気は重く、湿っている。
鼻をつく甘い香りが混じり、これまでの海の匂いとは明らかに異なっていた。
海面には流木や草の切れ端が浮かび、それらがゆっくりと船の脇を流れていく。
すでにアマゾン川の流れが、大洋へと注ぎ込んでいるのが分かる。
「これがアマゾンか」
前田中将は甲板から望遠鏡を覗き込み、低く呟いた。
川の口は巨大な扇のように広がり、どこが本流なのか、見分けがつかない。
水は濁り、色を失っている。
流れは緩やかだが、確かな力を感じさせた。
淡水特有の匂いが、潮風に混じってはっきりと伝わってくる。
艦隊はゆっくりと、アマゾン川の河口へと進入した。
操舵手も、機関士も、全員が汗にまみれている。
服は肌に張りつき、呼吸をするたびに湿った空気が肺に入り込む。
「温度三十五度、湿度九十。機関室、冷却に注意を!」
報告の声が艦内に響く。
蒸気のような熱気がこもり、冷却水はすぐに温まってしまう。
主機担当の黒木が、額の汗を拭いながら叫んだ。
「こんな湿気じゃ、エンジンオイルが泣いてやがる!」
それでも艦は前へ進む。
左右には、壁のように立ち並ぶ木々。
幹から伸びた根が水面に絡みつき、鳥や猿の鳴き声が、断続的にこだました。
時折、水面を何かが跳ねる。
魚か、あるいはそれ以外の何かか。
やがて、艦首の見張りが叫んだ。
「水深、急に浅くなります!」
測深索が垂らされ、数値が次々と読み上げられる。
示された深さは、数メートルしかない。
艦長は即座に判断し、命じた。
「停船!これ以上は無理だな。ここから先は舟艇で行こう。」
前田中将はその判断にうなずき、命令を下す。
「上陸用舟艇と小型ボートを出せ。工兵と偵察班を先に。陸に拠点は作ることが出来ない。艦そのものを前線基地とする。」
補給艦の甲板では、上陸用舟艇が次々とクレーンで吊り下げられ、ゆっくりと水面へ降ろされていく。
小さなボートには、燃料缶、食料、水、無線機器が積み込まれていた。
エンジンが低く唸り、舟艇は褐色の川面へと、静かに降りていく。




