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明賢の物語(日本建国物語)正式版  作者: 大和草


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108話 日本領汎名

鹿児島への報告


 数週間後、長い航路を経てスペインの商館使者が鹿児島へ帰着した。

港に着く頃には帆も汚れ、船体には南洋の湿気が染みついていたが、使者の態度は落ち着いていた。彼は上陸するとすぐ外交施設へ向かい、用意されていた応接室で日本側の外交官に報告を行った。


「現地の譲渡は準備万端にございます。教会はすでに撤収を開始し、聖具と記録の整理も進んでおります。総督フランシスコ・デ・ベラスケスは、鹿児島にて交わした契約を全面的に履行する旨を誓約しました。日本人の到着を、静かに待っているとのことです。」


 書状は机の上に丁寧に置かれ、封蝋の痕が赤く残っていた。

外交官は一語一句を確かめるように読み上げ、その内容が即座に明賢のもとへ伝えられた。


 報告を受けた明賢は、しばらく言葉を発さなかった。

部屋の中には紙の擦れる音と、遠くから聞こえる港の気配だけが漂っている。

やがて彼は机の上に広げられた地図へ視線を落とし、パナマの細い地峡に指先を置いた。


 「血を流さずに土地を得る、これこそ、文明の勝利だ。」


 それは独り言のようでありながら、確かな決意を帯びた言葉だった。周囲の者は誰も口を挟まず、その一言を静かに受け止めた。


ここで時系列はパナマに戻る


 夜の霧がまだ薄く漂う早朝、汎名の海はまるで眠りから覚めきらぬかのように静かだった。

波はほとんど立たず、密林の影が水面に黒く映っている。艦隊は夜のうちに岸から少し離れた浅瀬の陰へ移動し、外見を徹底して偽装していた。

艦影は木製帆船そのものと見紛う姿で、遠目には時代遅れの商船にしか見えない。


 艦橋に立つ前田は、周囲を一度見渡すと短く指示を出した。

その声は低く、しかし迷いがなかった。

合図を受けた甲板の兵たちは、無駄な音を立てぬよう、訓練どおりに動き始める。


 「小舟を降ろせ。今日は必ず、穏便に全てを済ます。」


 綱が緩められ、折りたたまれていた帆布が静かに外される。

隠されていたボートが一つ、また一つと海面へ滑り降りていった。

外側は古色を帯びた木で作られ、釘の打ち方まで当地の舟に合わせてある。

内側にだけ、最新の補強が施されていた。


 小舟には外交官、通訳、数名の士官、そして最低限の護衛として選ばれた海兵隊員が乗り込んだ。

誰もが口数は少ないが、表情には張り詰めた緊張と、それを上回る誇りが浮かんでいた。


 白い砂の浜辺に小舟が打ち寄せられると、すでにスペイン側の代表と教会の使者たちが待っていた。

彼らは腰に古い十字架を下げ、朝靄の中でじっとこちらを見つめている。

総督から派遣された使者もその中におり、封の切られていない書状を胸に抱えていた。


 中将は一歩前に進み、相手の目を見てから静かに頭を下げた。

その所作には、威圧も卑下もなく、ただ契約を守る者の姿勢があった。

 「我らは約束どおり到着した。ここに残るものはない。貴国の撤退を円滑に行えるよう、我が国が途中まで護衛を行う。まずは正式な引渡しの文書を交わし、その後に皆様を安全に送還する手配を整えたい。」


 スペイン側の総督は短く頷き、用意していた書類を差し出した。

そこには鹿児島で交わされた仮契約の再確認、頭金受領の証、そして現地での残代金受領と正式譲渡に関する条項が整然と記されていた。

砂浜の上に簡易の机が置かれ、双方が携えてきた筆と羊皮紙が並べられる。


 通訳が静かに間を取り持ち、条文は一行ずつ、慎重に読み上げられていった。スペイン側は教会の撤去手順、聖遺物の保管方法、在留スペイン人の移送日程について細かく確認を重ねる。

日本側代表はすべてを承認し、補償の範囲と期限、護衛船団が同行する海域の境界までを明確に書き加えていった。


 すべての確認が終わり、署名の瞬間が訪れると、浜辺の空気は一瞬だけ張り詰めた。

スペイン使者が古い印章を取り出し、慎重に書類へ押し当てる。

続いて明賢が朱肉を用い、静かに押印した。


 書類が交換されると、重たい安堵が波のように広がった。

誰も歓声を上げることはなく、ただ互いに短く頷き合うだけだった。

静かな波音が寄せては返し、まるで二つの文化の境界を、ゆっくりと洗い流していくかのようだった。


  「さあ、出発の準備を。」

 前田中将の短いひと言が落ちると、それを合図に浜辺の空気が静かに動き始めた。

護送の段取りは事前に細かく決められていたが、実際の現場では一つひとつを確かめるように慎重に進められる。

スペイン人の住民たちは、与えられた時間の中で小さな荷物をまとめ、長年暮らした土地を名残惜しそうに振り返りながら列を作った。

教会の聖職者たちは、擦り切れた表紙の聖書や、儀式に用いられてきた聖具を一つずつ布で包み、木箱に収めていく。

その手つきには慣れと同時に、積み重ねた歳月への未練がにじんでいた。

 一方、日本側は船から支援物資を運び下ろし、温かいスープを大鍋で用意し、乾燥肉や保存食を箱に詰めて分け与えた。

長旅に耐えられない者のため、消化の良い食料も用意されている。

病人や老いた者には医療班が付き添い、簡易担架が用意され、必要に応じて応急処置や投薬が施された。

その様子を見て、スペイン人の中には静かに頭を下げる者もいた。


 護送は二段階で行われた。

まず、小舟に分乗して岸を離れ、沖合から見えにくい位置にある安全な入り江まで移動する。

波の穏やかなその場所には、すでに目印の旗が掲げられ、航路も確認されていた。

そこから先は、スペインの艦隊が用意した護衛船が待ち受け、帰路のための長距離航行に耐える大型船へと合流させる手筈である。

万一の事態に備え、日本側の艦は一定距離を保って同行する計画だった。

中将はその場に立ち、集まったスペイン側代表の目を一人ずつ見渡し、表情を曇らせることなく、落ち着いた声で言った。


 「貴国民の安全は我が国の責任だ。必ず護る。」


 その言葉を聞き、白髪のスペインの老商人は一瞬ためらった後、中将の手を両手で取り、強く握った。

長い交易の人生で数多の約束を聞いてきた男の顔には、疑いと同時に、わずかな安堵が浮かんでいる。

照れくさそうに、しかしはっきりとした声でこう言った。

 「お主らの誠意を、わしらは忘れぬだろう。これが終わったら、砂の上に血が落ちぬことを祈るばかりだ。」

 その言葉は、祈りであると同時に、過去への別れでもあった。


 護衛船は速力を最小限に抑え、櫂の音と波のさざめきだけを残して、ゆっくりと外海へ向かった。

日本の艦隊は護衛のため十分な間合いを取りつつ航行し、しかし決してスペイン船に寄り添うことはなかった。

威圧でも、干渉でもない距離が保たれている。

帆と帆の間に流れる風は静かで、視界に映る帆影は、やがて水平線のかすみに溶け込み、朝靄の向こうへと消えていった。


 数日後、護送が無事に完了したとの報は小舟によって浜へもたらされた。

使者の言葉は簡潔だったが、その内容は明確で、浜辺に再び静けさを取り戻させるには十分だった。

スペイン人は約束どおり全員が退去し、教会の聖具は破損なく保護され、在留者の移送も事前に定めた計画どおり進んでいるという。

中将はその報せを受けると、胸に溜めていた息をゆっくりと吐き出した。


 「これで晴れて、ここは我らのものとなりました。」

 副官の一人が小さく、しかし確信を込めて言うと、中将は答えず、浜辺へと視線を投げた。

砂はまだ湿り、撤去された建物の跡を示す木の切り株がいくつか残っている。

人の気配は薄れたが、風と波は変わらずそこにあった。

だが、ここに人の手が入り、道が敷かれ、桟橋が整えられていけば、この港は必ず新しい姿へと変わる。

その未来が、中将の脳裏には静かに描かれていた。


 スペイン人が去った後の第一歩は、間を置かず迅速に行われた。

まず、旧スペインの管理建物の中から、住民の避難や医療に転用できるものを選び出し、徹底的な清掃と消毒が施された。

床や壁は洗い直され、簡易ながらも診療所として即日開放される。

教会に残された備品や祭具は、破損や紛失が起きぬよう一つずつ確認され、丁寧に梱包されたうえで、鹿児島での取り決めどおり引き取られるまで厳重に保管された。

 日本側の工兵は、すでに設けられていた仮設桟橋をさらに延長・補強し、重量物にも耐えられる荷揚げ台を組み上げた。

燃料タンクと冷蔵室は補給艦から運ばれた設備によって整備され、物資の長期保管が可能となる。

湾内を見渡す位置には測量塔が正式に設置され、潮流や水深の観測が日々記録され始めた。


 原住民との関係もまた、スペイン人の護送中に築かれた慎重な信頼を土台として進められた。

現地の長老たちと対面し、互いの言葉を通訳を介して確かめながら、土地利用の初期ルールや共用の漁場の範囲、村の安全を日本側が保障する旨が書面、簡素な巻物の形で記された。

その場で読み上げられ、双方がうなずき合うことで合意が成立する。

 贈り物として渡された絹布や刃物は、単なる物資ではなく、儀礼の一部として受け取られ、現地の品々と交換された。

火を囲む時間が重ねられるにつれ、互いの距離は少しずつ縮まり、ここが新たな共存の場となる兆しが、静かに芽吹き始めていた。

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