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明賢の物語(日本建国物語)正式版  作者: 大和草


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107話 決断

 鹿児島で契約が成立したという報せは、幾つもの海と時間を越え、やがて新大陸の港町シウダー・デ・パナマにも届いた。

 それは大きく喧伝されることもなく、商人や役人の口から口へと、静かな噂として広がっていった。


 総督府の一室で、フランシスコ・デ・ベラスケスは封蝋を割り、書状をゆっくりと読み進めていた。

 文字を追うその視線は次第に重くなり、最後の行に至ったところで、彼は深く息を吐いた。


 ついに、この地を手放す時が来た。


 机の上には、この町の古い地図が広げられている。

 かつて帝国の富が通過した要衝も、今では海賊に侵され、補給の途絶えた末端に過ぎなかった。

 赤道に近い気候は兵と民を等しく蝕み、雨季には疫病が広がる。

 嵐は港を壊し、海賊は航路を荒らし、本国からの船は年々減っていた。


 聖堂に掲げられた「神の国の旗」も、風雨に晒され色褪せている。

 壁の一部は崩れ、修復する石材も人手もなかった。

 司祭たちは熱心な布教よりも、飢えと病に苦しむ信徒を慰めることに多くの時間を割いていた。


 だが、今回もたらされた報せは、衰退以上の動揺を含んでいた。

 極東の島国、日本と名乗る国から、莫大な金貨と絹が差し出され、ただ一つ、このパナマの割譲を求めているという。

 鹿児島から戻った伝令は、その様子を不気味だと本国へ伝えていた。


「彼らは奇妙な沈黙を保っております」

 伝令の言葉が、総督の脳裏に蘇る。

「多くを語らず、問いにも簡潔に答えるのみ。しかし、規律は厳しく、信仰を侮る態度は一切見せませんでした」


 その報告を聞いた司祭の一人が、祈りの手を止め、低く呟いた。

「それは神の沈黙か、それとも、新たな秩序の兆しか」


 数日後、総督は聖堂を訪れ、司教団を集めた。

 高い天井の下、蝋燭の火が静かに揺れている。


「帝国の決定だ」

 総督は重く口を開いた。

「我々はパナマを彼らに譲る。代価は支払われ、民の安全も保証される。教会の移転と財産の保護も、日本側が引き受けると明言している」


 司教の一人が顔を曇らせ、低い声で言った。

「異教徒に聖堂を渡すというのですか。この十字架は、神のものです」


「だが、我々に残された兵も船も、もはや僅かだ」

 総督は視線を逸らさずに続けた。

「民は疲弊し、兵は消耗している。彼らは約束を破らぬ民族だと聞く。この地が再び息を吹き返すなら、それもまた神の御心ではないのか」


 聖堂に沈黙が落ちた。

 壁に掛けられたマリア像の影が、揺れる炎に合わせて大きく揺らぐ。


 やがて、老いた司教がゆっくりと立ち上がった。

 胸に十字架を掲げ、静かに言葉を選ぶ。


「ならば、我らはこの地の魂と共に去ろう。

 神は土地に宿るのではない。人の中におられるのだから」


 その言葉に、誰も反論しなかった。

 司教たちは一人、また一人と頭を垂らし、決断を受け入れた。


  一方、町の広場では、朝から人だかりが絶えなかった。市場の露店、井戸の周囲、教会前の石畳、どこでも同じ噂が、形を変えながら囁かれていた。

「東の果ての島国が、この町を金で買ったらしい」

 「黄金の鎧を身にまとい、黒い帆船でやって来るそうだ」

 話は誇張され、恐怖と好奇心を煽りながら広がっていく。


 原住の民たちは、足を止めてその言葉に耳を傾けた。長年にわたりスペイン人の支配のもとで課されてきた重税と労役、言葉も通じぬ裁きと鞭。その記憶が、胸の奥でまだ生々しく疼いている。

 新たな支配者、それは救いにもなり得るが、同時に、さらに重い鎖となる可能性もあった。


 だが、その日の午後、総督は広場に姿を現した。護衛も最小限に留め、民衆の前に立つと、ゆっくりと両手を広げて語りかけた。

「恐れるな。彼らは剣を振るうために来るのではない。我々と同じく、物を売り、物を学び、町を維持するために来る民だ。

 お前たちの土地も、水も、信仰も、奪われはせぬ。少なくとも、その約束は書に記されている。」


 ざわめきが次第に静まっていく。

人々は互いの顔を見合わせ、言葉の重さを確かめるように頷いた。

 群衆の端で、若い漁師が粗い手を組み、隣に立つ友へ小声で囁いた。

「もし本当に、血を流さずに済むなら、今度こそ、俺たちの子どもは違う時代を生きられるのかもしれないな。」


 しかし、その期待の裏側で、不穏な影もまた伸びていた。

 教会の奥では、若い修道士たちが声を荒げて議論を重ねていた。

「異教の民にこの地を渡すなど、神への冒涜だ」

「彼らが穏やかだというのも、仮面に過ぎぬ」

 信仰への恐れと、変化への拒絶が、彼らの言葉を鋭くしていた。


 同時に、港近くの酒場や倉庫では、商人たちが別の計算を巡らせていた。

「日本人は黄金を積んで来るそうだ」

「ならば、その国には掘っても尽きぬ富があるに違いない」

 契約の隙を探り、密かな交易や私的な利得を夢見る者たちが、夜ごと集まり始めていた。


 その動きを察した総督は、表情を変えずに部下へ命じた。

「日本人が到着する前に、火種は摘め。騒ぐ者、扇動する者は町から遠ざけよ。必要なら教会船で本国へ送り返せ。」


 その夜、港では静かな作業が続いた。帆船の灯が一つ、また一つと消され、桟橋から人影が消えていく。潮の音だけが、重く低く響いていた。

 高台の教会からその光景を見下ろし、老司教はゆっくりと跪いた。

「この地が、剣ではなく約束によって動くのなら、それは人の業を超えた、真の奇跡なのかもしれぬ。」


 祈りの声は小さく、しかし確かに夜気の中へ溶けていった。

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