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孤独死したおっさん、高校時代へタイムスリップ  作者: 雪だるま
橘彩音ルート

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2 母の手料理

 1992年。


 夏。


 夕方。


 築二十年ほどの古い団地。


 レイは玄関の前で固まっていた。


「…………」


 古い鉄のドア。


 少し剥げた塗装。


 子供の頃から見慣れていたはずの景色。


 だが。


 五十歳になってから失った後に見ると、まるで別物だった。


「……あるのだぁ……」


 実家。


 まだ存在している。


 母親も。


 父親も。


 まだ生きている時代。


「う、うぅ……」


 レイの喉が震えた。


 五十歳の人生の終盤。


 母親とは、ほとんど連絡を取っていなかった。


 理由は単純。


 気まずかったからである。


 就職も失敗。


 結婚もしない。


 実家にも帰らない。


 たまに電話が来ても「忙しいのだぁ」と誤魔化す。


 本当は忙しくなどなかった。


 ただ。


 惨めな自分を見せたくなかっただけだった。


 そして。


 数年前。


 母親は死んだ。


 葬式で見た遺影は、思った以上に小さく老いていた。


「…………」


 レイは震える手でドアを開けた。


「ただいまなのだぁ……」


 懐かしい匂い。


 醤油。


 味噌汁。


 焼き魚。


 洗剤。


 古い畳。


「レイ? あんた今日早いわね」


 台所から声がした。


「っ!!!!」


 レイの体が硬直した。


 いた。


 本当に。


 いた。


 エプロン姿。


 少し疲れた顔。


 だがまだ若い。


 四十代前半くらいの母親。


「……どうしたの?」


「…………」


 レイの視界が滲んだ。


「の、のだぁ……」


「熱でもあるの?」


「ママぁああああああああ!!!!」


「ぎゃあっ!?」


 レイは突進した。


 勢いよく母親に抱きつく。


「ちょ、ちょっと!?何!?」


「ママぁああああ!!生きてるのだぁあああ!!」


「は!?当たり前でしょ!?」


「うわぁああああああん!!」


 レイは号泣した。


 母親の服に涙と鼻水を擦り付けながら泣き続ける。


「反抗期でごめんなのだぁあああ!!」


「は!?」


「お弁当残してごめんなのだぁあああ!!」


「ちょっと!?何の話!?」


「洗濯物を部屋に溜め込んでごめんなのだぁあああ!!」


「いや、それ今もやってるでしょ!?」


「うわぁああああん!!」


 母親は本気で困惑していた。


「……あんた本当に大丈夫?」


「のだぁ……」


 レイは泣きながら母親を見た。


 若い。


 まだ白髪も少ない。


 腰も曲がっていない。


 手も荒れていない。


 だが。


 知っている。


 この人はこの後。


 ずっと働く。


 パート。


 家事。


 父親の世話。


 祖父母の介護。


 疲れても文句を言わず。


 最後まで働き続ける。


「…………」


 レイはまた泣きそうになった。


「な、何なのよ急に……」


「ママぁ……」


「だから何」


「長生きしてなのだぁ……」


「気持ち悪いわねぇ……」


 母親は本気で嫌そうな顔をした。


 だが。


 少しだけ笑っていた。


「まあ、とりあえずご飯できてるから手洗ってきなさい」


「のだぁ……」


 食卓。


 並んでいるのは。


 焼き鯖。


 味噌汁。


 ほうれん草のおひたし。


 卵焼き。


 白米。


 なんでもない家庭料理。


 だが。


 レイは席に座った瞬間、震え始めた。


「いただきますなのだぁ……」


 一口。


 味噌汁を飲む。


「…………」


 止まった。


「……レイ?」


「う、うまいのだぁ……」


「当たり前でしょ」


「うまぁあああああああい!!!!」


 レイ、再び大号泣。


「のだぁああああ!!味噌汁がうまいのだぁあああ!!」


「うるさい!」


「お魚なのだぁああ!!焼き魚なのだぁああ!!」


「毎日食べてるでしょ!?」


「違うのだぁ!!」


 レイは泣きながら叫んだ。


「未来の吾輩、カップラーメンばっかりだったのだぁあああ!!」


「は?」


「半額弁当ばっかりだったのだぁあああ!!」


「何言ってんのよ」


「誰もご飯作ってくれなかったのだぁあああ!!」


「…………」


 母親は少し黙った。


 レイは号泣しながらご飯をかき込む。


「うまいのだぁ……」


 涙。


 鼻水。


 ぐしゃぐしゃ。


 だが止まらない。


「のだぁ……家のご飯ってこんなにうまかったのだぁ……」


 五十歳のレイは。


 気づけば、食事を“燃料”みたいに扱っていた。


 安い。


 早い。


 腹が膨れればいい。


 孤独な部屋。


 テレビ。


 スマホ。


 誰とも喋らない食事。


 だが。


 今。


「レイ、米よそおうか?」


「!!!!」


 レイの目が潤んだ。


「のだぁ……」


「何よその顔」


「おかわりなのだぁ……」


「はいはい」


 母親が茶碗を持って立ち上がる。


 その後ろ姿を見て。


 レイはまた泣き始めた。


「うわぁあああん!!」


「またぁ!?」


「ママぁあああ!!」


「近所迷惑だから静かにしなさい!」


 その時。


 玄関が開いた。


「おーい、暑っちぃな……」


 父親だった。


 作業服。


 汗。


 疲れた顔。


「……何やってんだこいつ」


「知らないわよ。急に壊れた」


「パパぁああああああ!!」


「うおっ!?」


 レイ、突進。


「働いてくれてありがとうなのだぁあああ!!」


「な、何だ!?」


「腰痛いのに頑張ってたの知ってるのだぁあああ!!」


「お前気持ち悪ぃぞ!?」


「うわぁああああん!!」


 父親はドン引きしていた。


「母さん、こいつ変な薬でもやってないか?」


「やってないと思うけど……」


「のだぁ……」


 レイは泣きながら父親を見た。


 まだ若い。


 まだ髪も黒い。


 まだ動ける。


 だが。


 未来では。


 もっと老ける。


 もっと小さくなる。


「…………」


 レイは静かに席に戻った。


 ご飯を食べる。


 味噌汁を飲む。


 家族の声が聞こえる。


 テレビが流れている。


 普通。


 ただの普通。


 だが。


 孤独死した男には。


 それが奇跡みたいに思えた。


「のだぁ……」


「今度は何」


「吾輩、ちゃんと生きるのだぁ……」


「は?」


「今度はちゃんとするのだぁ……」


 母親と父親は顔を見合わせた。


「……青春って怖ぇな」


「変な宗教じゃないでしょうね」


「違うのだぁ!!」


 レイは叫んだ。


「吾輩、人生二周目なのだぁ!!」


「とうとう頭やられたか」


「病院連れてく?」


「のだぁああああ!!信じろなのだぁあああ!!」


 だが。


 その夜。


 布団の中で。


 レイは静かに泣いていた。


「……よかったのだぁ……」


 まだ間に合う。


 母親もいる。


 父親もいる。


 まだ。


 全部失う前だ。


「今度はちゃんとするのだぁ……」


 そう呟きながら。


 レイは、久しぶりに安心して眠った。

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