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亡者の思念 1

 昔々、この山には幽明の民という部族が複数の集落をつくり暮らしていた。自らを精霊の一部だと信仰する彼らは、生きるために必要な最小限の開拓を行う他は、自然に寄り添い生活を営んでいた。


 ある年、この地域に歴史的な長さの曇天と豪雨が続いた。集落のいくつかが土砂崩れに襲われ土に埋もれた、そんな即時的な害も大きかったが、それ以上に深刻的な問題となったのが食糧不足だった。三つの季節にまたがるほど長期間に渡って太陽が現れなかったために、山の草木は多くが腐り、水は汚濁し、作物はまったく育たず、保存食も水分を含んでほとんどが駄目になった。


 異常な天候不良には原因がある、それは山の精霊の力が弱まりバランスが崩れたからだ、幽明の民は当然のようにそう考えた。そして彼らの母たる精霊が住まう泉へ生贄を捧げ、精霊の力を取り戻させようとした。


 しかし、生贄を捧げても天候は変わらなかった。来る日も来る日も見えない青天に幽明の民は焦った。各所の集落の生き残りが全員、泉がある集落へと集結し、日夜祈りを捧げた。そして泉へ捧げられる生贄も数を増していった。


 だが、ついぞ彼らの祈りは通らなかったのである。力のある者、聡明な者、若く活力がある者が率先して生贄にされた結果、最終的には指導者が失われた。残された民は飢えて死ぬか、病に侵され死ぬか、発狂して死ぬか。そうして最後の一人が命を落とし幽明の民が滅びる時まで、一度たりとも青空は現れなかったのである。


 山を離れて難を逃れる、そんな発想は彼らに微塵もなかった。自らの生命も精霊の一部であると信仰する身で山の精霊のもとを去るのは、幽明の民である自らの存在を否定することだから。そしてその信仰が、死後の魂をも泉に留まらせたのである。


 死せた幽明の民の思念は、生前の祈りに囚われたままであるがゆえ、生きている者を泉へ引きずり込もうとする。最初は泉へ近づいた旅人に幻覚を見せ、足をすべらさせて水へ落とす程度だった。しかしそうやって命を喰らう内に、泉の霊は徐々に力を増していった。幽明の民の信仰に則って、だ。


 そして今では山の外、付近の街道を通る旅人の意識にまで影響を及ぼして積極的に誘い込もうとするようになった。その上、あたかも部族が存続しているような風に振る舞うし、あげく物理的な干渉までできるようになってしまった。このまま加速度的に力をつけ、影響範囲がさらに広がるようなことがあれば。


「――生と死の摂理にも影響を及ぼしかねない。もはや看過できる域を超えてしまった。お師様はそうおっしゃって、わたしに災いを鎮める役を与えました」


 これが化け物退治に至る真相だと、精霊の泉へ向かいながらマオはコルトへ語り聞かせた。


 全部を聞いたコルトは、まずは不満をありありと示した。


「だったら先に教えてくれればよかったのに。ちゃんと知ってたら、僕も色々考えたのに。危ない目にも遭わずに済んだ」

「それがいけません。始めから構えてしまうと、相手に強い敵意を抱かせます。敵の全容が把握できない内は悪手、もっと悪いことになっていたかもしれません。事実、おかげで途中まではとても良い流れでした。……わたしが笛を奪われなければ」


 マオが消沈した息をついたところで、精霊の泉がある場所へ階段を昇りきった。


 泉の周りの風景は、先ほどと何も変わっていない。吹き出すような濃い霧に覆われて、うっかりしていると沼に落っこちそうな危なさがあるままだ。それに加え、大勢の生贄が捧げられて今は悪霊の吹き溜まりになっていると知った今では、暗い淀みが一層おどろおどろしく感じられるし、霧に紛れて大勢の何かがこちらを見ているような気もする。


 コルトは泉をまっすぐに見据え唾を飲み込んだ。無意識のうちに拳も握る。


 その隣で、マオが笛についた泥を袖で拭っていた。特に口の周りを念入りに。そうしながら横目でコルトのことを見て言う。


「今から、亡者の思念を静め、乱れた気脈を元に戻し、生命の循環を正常化させるための調べを奏でます」

「ごめんなさい、何を言ってるのか全然わからない」

「では、悪霊の泉を精霊の泉に戻すのだと理解してください」

「わかったよ。僕とラフィスはどうすればいいの?」

「亡者の思念が反抗し、わたしたちへ襲いかかってくるかもしれません。念だけならともかく、物理的に何か飛ばして来たら、その時に対応をお願いします」


 下でトパゾがやっていた石つぶてのようなものを想定しているのだろうか、コルトはいま一つ掴み切れないでいた。とりあえずマチェットを鞘から抜いて両手で握る。何かが飛んで来たら打ち返す、マオを守り切る、そのつもりで構えておけば間違いないだろう。


 ラフィスも泉の方を向いて気を張っていた。目を凝らして見えない物を見ようとするように、宝石の輝きが細く絞られてあたりを射抜く。どことなく近寄りがたいオーラが醸されている。下手に近寄れば、ピリリと肌を刺されそうな。


 ぴんと張った空気の中、マオが静かに笛を口につけた。そして息を吹き込んだ。笛を吹いた。


 しかし流れたのは、プスーと空気が間抜けに漏れる音だった。


 コルトは膝から崩れそうになった。目を真ん丸にしてマオのことを振り返る。


「マオさん!?」

「す、すいません。泥が中にも詰まっているようです」


 マオは笛を縦に持って、地面に向けてブンブンと振っている。わずかに泥がこぼれた。だが根本的につまりは解消しない。中を覗いて、また振っての繰り返しだ。


 見かねたコルトは慌てて自分の小物入れを漁った。底から細い木の棒が出て来た。また鍵開けの必要が出て来た時なんかに使えるんじゃないかと、途中の町で拾っていたものだ。丈夫でよくしなり、笛の穴にも入る太さだ。


「マオさん、これ使って!」

「ありがとう、助かります」


 マオは柔らかく笑みを浮かべて棒を受け取った。それを笛につっこみ、泥をほじくり、かきだす。かなりぎっしりと詰まっているせいもあるが、なかなか悠長な手つきだった。


 もっと急いで。コルトはじれったく思っていた。気になるのはトパゾのことである。確かに護符が燃え尽きるまで結構な時間があるのを目にしたが、トパゾを封じ込めるのに使った時は激しい火花があがっていた。あれで早まったりするんじゃないのか、だとすると悠長にやっている時間はない。今にもトパゾが戻って来て、怒りのままに攻撃して来るかもしれないのに。


 ――化け物の本体は泉なんだろ? 例えば水がこっちを押し潰そうとして来たりしたら、打ち返しようもないぞ。


 そう考えた矢先、ざわざわと水面が騒いだ。そして身を震わせる咆哮と共に、水の大蛇が泉の中から鎌首をもたげて現れた。こちらの身の丈の何倍もあって、人間を頭から丸呑みできる巨大な蛇が、何匹も何匹も。一斉にこちらへ襲い掛かってくる! 危ない――


「コルト君!」

「コルト!」


 自分の両側から響いた二人の女性の声でコルトはハッとした。直後、ラフィスに軽く頬を打たれた。


 今しがた見たものはすべて消えていた。音も、痕跡一つすらない。白い霧の漂う泉が目の前に広がるだけ。


「まぼろし……?」

「相手は思念だけの存在、精神へ干渉してきます。だから気を強く持って。不安を抱けばつけこまれ、心が折れたら一気に引きずり込まれますよ」


 そんなこと言われても、とコルトは汗をかいた。見えない相手と果たしてどう張り合えばいいのか、まったくわからない。集落に来る前にマオが言っていた、熊よりもっと怖い敵とはこういう意味だったのか。


 ただ同時に、マオがいやにのんびり構えている理由がわかった。焦って悪霊に隙を見せないよう、自分が不安にならないよう、あえて余裕があるように振る舞っているのだ。よく見るとほほ笑み顔も地に居た時よりこわばっている。表に出さないだけで、心の底ではコルトと同じく追い詰められた気分なのかもしれない。


 コルトは一度深呼吸をした。無闇に焦るな、心に余裕を持て。自分を守ってくれた尊敬できるあの人の言葉と姿を思い出しながら、まるでおとぎ話の勇者のように格好をつけて両足を踏ん張り、見えない敵を見据えてマチェットを構え直す。


 ――僕は強いぞ、僕はヒーローだ。僕が二人を守ってやる。かかってこいよ!


 心で叫ぶ。すると辺りからの圧迫感がいくぶん和らいだ気がした。隣を見れば、ラフィスも再度泉へ気を張っていた。心強い姿だった。


「お待たせしました。では、改めて」


 マオが呟き、半歩下がった。そして笛に口をつけ、今度はまず一通りの音が鳴ることを確認した。実際に澄んだ音があたりに響いた。


 いよいよ仕切り直しである。最終確認から二呼吸ほど置いて、曲が奏で始められた。トパゾを激怒させたあの時と同じ曲だ。静かで重々しい調子で、元から緊張した身がさらに引き締まる。


 曲が流れ始めると周囲がざわざわと騒ぎ始めた。水面も、木の葉も、風の音も。そして風に混ざり人の声が聞こえてくる。うめき声、悲鳴、苦しそうなくぐもった声、嗚咽。それがどんどん大きくなり、どんどん迫ってくる。思わず耳を塞ぎたくなるほどに。


 だがコルトはマチェットを握りしめたまま、決して耳を塞がないよう意識した。もし塞げばマオの笛の音も聞こえなくなる、その時の方が恐ろしいことになるのでは、そんな気がした。


 ラフィスには音だけでなく何かが見えたのかもしれない。不意に霧の中へ雷を打った。正面へ、それから斜め右へ。雷光が貫いた場所の霧が一瞬晴れ、向こう岸の緑がはっきりと目に見えた。が、すぐに湧いて出たように霧が景色を覆い隠した。


『いやだ、たすけて』


 今度ははっきりと言葉が耳に届いた。子供だ。いや、一人じゃない。子供も大人も、男も女も、無数の人の言葉が重なり合って襲い来る。


『たすけて』

『死にたくない』

『おなかすいたよ』

『助けて』

『精霊様に力を』

『命を』

『食べたい』


 身の毛もよだつ重奏が、コルトの鼓膜を震わせた。紛れて聞こえた草を踏む足音は、マオが一歩たじろいだ音だ。彼女も耐えているのだ。それがコルトの勇気を奮い立たせる。再び目の前に光が走ったのは、ラフィスが見えない敵を撃ち落としたためか。彼女も戦っているのだ。それがコルトの心を支えた。


 そんな時、耳に届く怨嗟の声に一際強い言葉が混じった。


「ぼくだって、死にたくない。いや、死なない!」


 ――トパゾ!? まずい!


 コルトは慌てて後ろを振り向いた。

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