仇の懐 2
歩いてすぐの左手に美しい草花のレリーフの施された大きな扉がある。再度周りに人が居ないことを確認して、コルトは扉を開いてみた。
「……でっかいテーブル」
先の応接間の三倍はある横長の部屋の中央に、相応な幅と長さのテーブルが据えられている。そして十数人分の椅子も整然と並べられている。大勢が集まるパーティを開く部屋だろうか。壁には金色の額装をした絵画がいくつも飾られている。
部屋を見渡してもテーブルセットと絵画の他には、特に目を引く家具は無い。今コルトが居る場所以外に扉が二つあるが、位置を考えるに、片方は応接間と繋がっていて、もう片方はこれから行く方向にある部屋だから、あえて調べる必要もなさそうだ。
コルトはそっと扉を閉め、廊下の探索へと戻った。
廊下をはさんで反対側にも一つ部屋がある。こちらのドアには装飾性の高い字体で書かれたプレートが下がっていた。いわく「喫煙室」だと。案内表示は外から来た客が出入りするためだろうが、そんな部屋には用がない。この部屋は覗こうとも思わなかった。
さらに少し進むと、思った通り、大きな部屋の隣室にあたる扉を発見できた。ここはパントリーであった。数々の食器や料理を配膳するためのワゴンなどが置かれている。調理のための設備はここにはない。
――もしかして、廊下の奥がキッチンなのかな。
そう思って念入りに匂いを嗅いでみる。するとなんとなく、火を焚いている匂いや野菜スープを煮込んでいる匂いが漂っている気がした。
料理の匂いがするということは、調理している人もそこに居るということ。また、執事が待機していると言っていた執事室もまだ発見できていない。もしさらに奥へ進むとするなら、人に発見される確率もあがるだろう。
だが、奥に行くより気になる場所がある。コルトはパントリーの反対側へ向いた。こちらはドアがなく天井まで開けた空間になっていて、その中に上下両方向の階段が存在していた。そう、探していた物を見つけたのだ。
上も下も一階からはどんな造りになっているのか見通せない。どちらも踊り場で折れているのである。また地下へ向かう階段は、当然のように先へ行くほど暗い。
どちらを先に攻めるべきか、コルトはあまり悩まなかった。だって悩んでいる時間が惜しい。――上だ!
急いで、だが静かに階段を駆けあがる。もともと絨毯が敷かれているから気を使わなくても足音が響かない。これは好都合だ。踊り場に至るまでは、コルトはそう感じていた。
しかし踊り場まで来たところで、足音が響かないのは不都合だったと思い知らされた。上から大柄なメイドが降りてくる、それと鉢合わせになってしまったのである。
げっ、と漏らしそうになった声は、あと少しのところで飲みこんだ。しかしメイドはコルトの存在自体を不快に思っているようで、思い切り眉間に皺を寄せて睨まれた。両手を塞いでいるのはモップとバケツなのに、まるで剣と盾を構えているように威圧的に感じられた。
コルトは慌てて横にどいて道を開けた。踊り場は人がすれ違うのに十分な広さがある、脇で小さくなっていれば、そのまま通り過ぎてくれないか……だめだ、メイドは全然行ってくれない。完全にコルトのことを怪しみ、ゆっくりと迫って来る。モップも構えたままだ。
「新しくフットマンを雇ったとは聞いていないけど」
「い、いえ、僕は雇われたんじゃなくて……僕はサシャ様の命令で、荷物を持って来ました」
「荷物がどこに?」
「下の、あっちの応接間に」
「じゃあ応接間の客がなんでこんなところに」
「ちょっと、トイレに」
「わざわざ上に? 上にはお客が勝手に出入りしていい部屋は無いよ」
「それは……」
それは大事な情報だ、詳しく探りたい。しかしだめだ、今は自分の身を守ることが先だ。コルトはうろたえながら周りを見て、踊り場の壁を指さした。そこには小さな額に納められた風景画があった。
「こ、この絵! 絵が、ステキだなって思ったので、近くで見たかったんです。エヘ、エヘヘ……」
「ふーん?」
なおもメイドはうさんくさい物を見るように詰め寄ってくる。コルトは威圧感に負けてたじろいだ。足がもつれて転びそうになる。
「あのサシャ様の従僕にしたって、ちょっと立ち居振る舞いがなってないようだね」
「サシャ様は、別に、そんな細かいこと気にしないって」
「あの人なら言うかもしれないがね。まったく、天下のラスバーナ家としての自覚がなさすぎるよ」
「それは、その、僕はまだ見習いだから……ごっ、ごめんなさい、失礼しました!」
もう取り繕うのは無理だと、コルトは白旗を振って逃げ出した。なかば転げるように階段を駆けおりる。メイドは追ってこなかったが、地下からちょうど上がって来たがたいのいい使用人と衝突しそうになり、またギャッと悲鳴をあげた。
「おい……」
「ごめんなさい、ごめんなさい!」
体が大きい上に頬に傷がある強面に睨まれて、完全に心が折れた。後のことは後でどうにかしよう、今はとにかくこの場を離れないと詰む。コルトは平謝りの言葉を垂れ流しながら、振り向かず応接間へと走った。
大慌てで応接間のドアを開け、飛びこみ、勢いよく閉める。礼儀も常識も作戦すらも気にしていられない。息を弾ませてへたりこむと、アイルが心配して駆け寄って来た。
「おい大丈夫か!?」
「た、た、たぶん。見つかったけど、ギリギリなんとか――ンギュッ!」
コルトの声を遮断したのはアイルの手のひらだった。彼はコルトを抱きこむようにしつつ、微動だにしない扉をじっと見据えている。動物が音に反応して耳を立てる、それに近い雰囲気だ。ぴんと空気が張り、息も詰まる。
そのまましばらく静止していたが、やがてアイルは静かに立ち上がり、コルトをソファまで連れて行った。黙ったままそっと座らせて、自分も隣の席に着く。二人とも扉に背を向けているかたちだ。
それからも沈黙の時間が続いた。コルトは事情をつかめていないが、漂う緊張感で口を開くべきではないと察していた。
長らく経った、さっきコルトが探索にかけていたのとそう変わらないくらいの時間が経った。そこでようやく、アイルが安堵の色濃い息をはいた。緊張もどこかへ消え去った。
「なんだったの?」
「誰かがそこで聞き耳をたてていた。だいぶ怪しまれているかもしれん」
「見えてないのにわかるんですか」
「気配がな。お仲間だったから余計に」
ここで言うお仲間とは、異能者であることだ。さっきのメイドか、ぶつかった男か、まだ見ぬ別の使用人が近くに隠れていたのか。なんにせよ、フォウトの側もそういう用心棒を囲っているとはっきりしたわけである。
「ごめんなさい、僕が慌てたせいでバレちゃったんだ」
「謝ることじゃない。それより、どうだったんだ。成果はあったか」
コルトは少ないながらも掴めた情報を話す。応接室まわりの間取りと、廊下の奥にキッチンがあり人も多いだろうという推測と、そして上下両方へと続く階段を見つけたこと。少なくとも上のフロアは客が立ち入るところじゃないという重要情報も。
アイルも階段の先が怪しいと意見した。そしてメイドが出入りしていた上階と、男の使用人が出入りしていた地下と、どちらがより怪しいかと問われた彼の答えは。
「地下かな」
「でもフォウトの部屋は上にあるみたいだよ」
「そりゃ連れ去った目的にもよる。シェリが考えたみたいに、善意で身受けをしたのなら、私室に置いてメイドに手厚く世話させるってのもわかるが……」
「目的は、なんだろう、わからないです」
フォウトがなんのためにラフィスを買ったのか、それについてジャスパは何も言っていなかった。はっきりしているのは、かなりの大金が動いたことと、生かした状態で連れ去ったこと、この件に関しては外に漏れないようにしていること。これらの他に気になる点があるとしたら。
「そういえば、ジャスパさん……ラフィスのことを売った張本人は、ラフィスに綺麗なかっこうをさせるのにこだわっていた。エグロンの後から急にそんなこと言い出して、よく考えれば変だったかも。関係あるかな?」
「あるさ。要は、そういう目的だって事じゃないか」
「どういうことですか?」
「……悪い大人の男にゃ、女の子を金で買うなんてありがちな話だ。なんだ、その……あー……」
「たとえば宝石みたいな感覚で?」
「そうだな。その理解でいい」
妙にアイルの歯切れが悪いのは気になったが、要するに、人として見ていないと言いたいのだろう。コルトはそう理解して、膝の上で強く拳を握った。しかもそれが「ありがちな話」だと言うのだから余計に腹が立つ。
そんな沸き立つ思いへ冷水を浴びせるように、応接間の扉をノックする音が響いた。奥への廊下に面した扉からだ。
はっとして座ったまま振り返ると、間髪入れずに部屋へ入ってくる者の様子が見えた。来たのは執事だった。シックなデザインの配膳用ワゴンも一緒に引き入れている。執事は上品かつきびきびとした所作で扉を閉めてから、その場でソファの客へとお辞儀をした。
「主が戻るまで今しばらくかかりますゆえ、お待ちの間にお茶をお召し上がりくださいませ」
ワゴンには金の縁取りが目を引くティーセットが載っている。皿に品よく盛られたクッキーも。
執事はソファの背側にワゴンを寄せ、まずはクッキーの皿を二人の間からテーブルへ置いた。その後続けて紅茶を注ぎ、コルトの右手側に置いた。
「どうぞ、ご賞味ください」
「あ、ありがとうございます……」
こんなかしこまった格好で茶をいただくなんて初めてだ、礼儀作法が全然わからない。コルトはおずおずとティーカップを手に取って持ち上げてみた。見るからに高価なカップで片手でつまむのが怖い、逆の手もそっと縁を支えるように添えた。
コルトはゆっくりとカップを口につける寸前に持ってきて、しかしそこで、はたと動きを止めた。紅茶の熱と香りを鼻先で感じるが、どうにも気持ちが進まなかった。
――待てよ、なんか変じゃないかな。
それは自分のふるまいについてではなく。コルトは横目でアイルの方をうかがった。彼は姿勢を正して正面を向き、目だけで執事の手の動きを追っている。執事はアイルの右手に回り込んでおり、コルトにしたのと同じように茶を出しているところだ。なにげない光景である、それなのに、どこかピリピリとした感じがするのは気のせいだろうか。
そんな中、執事がコルトの視線に気づいた。アイルの分のティーカップをすえた直後にサッと姿勢を伸ばし、腹の上で白手袋の両手を重ね置いた。顔は柔和に笑ってコルトのことを見ている。
「紅茶はお好みではありませんでしたかな」
「いえっ、その、ちょっとこういうの慣れてなくて……もう少し冷めてから、後でゆっくりいただきます」
「そう遠慮なさらずとも。紅茶は熱いうちが――」
「コルト、飲むな。おまえの直感を信じろ」
アイルが断言した。不敵に笑いながら、すぐ隣に居る執事を仰ぎ見た。
「なあ執事さん。この家では、袖にナイフを隠して客をもてなすのが礼儀なのか?」
少しだけ間ができた。上下で見つめ合う二人ともが表情を変えなかった。
不意に執事が重ねていた手を動かす。その瞬間確かに、袖口でキラリと光るものがあった。
すばやく振りかぶられる執事の右腕を、アイルが立ちたがりざまに途中で掴んだ。そして手から刃物をもぎ取り、遠く窓の方へと投げ捨てた。床に転がったそれは調理用のナイフではなく細身のダガーであった。先端は鋭く尖っていて、巨大な蜂の針を思わせる。
素手になっても、執事はなお暴れようとしていた。しかしアイルが組み伏せ、軽く首を絞めて黙らせた。執事がくったりとして動かなくなったところで、アイルは腕の力を緩め、ふうと疲れた息をはいた。