尋ね人の居所 3
まずは疑問がやってくる。なんで、どうして、あり得ない。そうだ、きっと聞き間違いだ。願望を胸にドアの隙間から、恐る恐る中をのぞきこむ。
喜ぶべきか、悲しむべきか、聞き間違いではなかった。店の奥、入り口から対角線上にあるカウンターで、色っぽい美女をはべらせて座っている薄汚れた旅人装束の斜め後ろ姿は、すっかり見慣れたジャスパのそれだ。店主の男から木製のジョッキを受け取り、大げさにのけ反って口に運ぶ。左隣の女の肩越しに、酒を飲むいたく幸せそうな顔がちらりと見えた。
コルトは目を見開いたまま石像になっていた。先ほどから滞る疑問と、まさかという疑念が心で渦をまく。頭の中が半分に割れて、片方が今すぐ問い詰めに行けと荒れ狂っているのを、もう片方が必死でなだめている。思考の整理がまったくつかない。
少しやさぐれた風の店主は親しげな雰囲気でジャスパに接していて、彼の飲みっぷりを見た後は、カラカラと歓談が始まった。コルトはドアの隙間に耳を向け、すべての聴覚を会話に集中させた。
「らしくないねぇ、いつになくに気前が良いじゃねえの」
「おうよ、うんまーい仕事が転がり込んできてよぉ、たぁーっぷり金が手に入ったんだ。ヘヘッ」
「守銭奴のおまえにそんだけ使わせるたぁ、どんだけでかい山なんだ?」
「でけぇもでけぇさ、内容は言えねぇがよぉ。ヘヘ、あのラスバーナ商会の跡取り様と直接の商談だった、って言えば、まーあ、どんだけ貰ったか想像つくだろぉ?」
酒場の空気がザワリとした。店主だけでなく、ジャスパと一緒に来た女たちにとっても初耳だったようで、二人とも目を丸くし顔を見合わせている。
「おまえと、ラスバーナが? おいおい、専属の運び屋にでも成り下がったってか?」
「イヤイヤイヤ、俺ぁ誰の犬にもなんねぇよ。ちょいとなぁ、いーい商材が偶っ然っ手に入ってよぉ。……おおっと、この件はもちろん内緒だぜぇ? 聞かなかったことにしてくれよな、カネは出すからよぉ」
ジャスパはこれ見よがしに重量のある布袋をカウンターに乗せ、中から金貨をすくい見せつける。手からこぼれた黄金色のきらめきがジャラジャラと音を立てて袋に戻って行く。また周りの人間がざわついて、ジャスパはご満悦の様子だった。
コルトももう黙って居られなかった。体が勝手に動いてドアを開け放ち、酒場の中へ跳びこんだ。
「ジャスパさんっ!」
「あん!? あ……ぬわぁぁぁッ!? グェッホエッホェエ……」
むせた原因は自分の唾液だ。ジャスパは袖で口を拭いながら、青ざめた顔でコルトを凝視していた。見開かれた目の上で、眉がピクピクと震えている。
「……クッソが! だから始末しろって言ったのによ、イイコちゃんぶりやがって!」
不意に吐き捨てると、ジャスパはほとんど転げ落ちるように椅子から離れてダッシュした。金貨の詰まった布袋はしっかりと抱えている。そのままコルトの脇をすり抜け、外へ逃げようとしている。
コルトは感情をばねに瞬発力をはたらかせ、ジャスパの服を掴まえた。
急に制動がかかったことで、ジャスパはその場で派手に転倒する。無論コルトも巻き込まれたが、そのままジャスパの上にのしかかって胸倉をつかまえ、心のままに激しくゆさぶった。
「どうなってるんだよ! なにをしたんだよ! ずっと心配してたのに!」
「放せ、放せよ、このクソガキぃ!」
「ラフィスはどこだ! なんで僕だけ置いて行ったんだ!」
「知らねーよ、おまえなんて! 退きやがれ! クソッ、刺すぞ!」
目の前に抜き身のナイフが突き出された。ギラリとした刃が視界に大写しになれば、さすがに脳がサッと冷えた。ナイフを向けられるのは、初めて出会った嵐の夜と同じだ。しかしあの時とは違い、単なる威嚇ではなく殺意がありありと感じられた。恐怖以上に、ショックだった。
「なんで……ジャスパさん、どうして? 僕たちのこと、嫌いになったんですか?」
「はぁ? 嫌いも好きもなあ――」
ジャスパの顔が悪辣に歪んだ。
「最初から、カネ目当てに決まってんだろうが! どこの誰が好きこのんで行き倒れのガキなんて助けるかよ! 騙される方が悪いんだよ、ばぁーか、ぶうぁーか!」
コルトの全身から力が抜けた。
――最初からだって?
刹那、エグロンへの道中であったことが、セルリアまでの旅程であったことが、走馬灯のように流れた。幽霊馬車の旅は楽しかった、御者席で震えあがったのも良い思い出だ。ジャスパの案内があったからこそエグロンでラフィスの過去を知れたし、ノスカリアまで来ることができた。優しくって頼もしい人に出会えてよかった、神様のような人だ、心の底からそう思っていたのに。全部最初から演技だった、最後に裏切るための準備でしかなかった、そんなの、信じたくない。
「ほんとに、最初から、ラフィスのことを売るつもりだったの……」
「だからそうだっつってんだろうが、わかったら退け、このボケカス!」
ジャスパが勢いをつけて身を起こそうとする、その力でコルトは突き飛ばされる。そのまま床へ力無く転がった。ぎゅっと拳を握っても、すぐに立ち上がる気力が湧いてこない。
「信じてたのに……頼りにしてたのに……」
か細い声に対して、高い所からヘッと冷笑が吐きかけられる。いっそなにもかも豹変して別人になって欲しいのに、態度も口調も普段通りのジャスパだ。
「知るか、おまえが勝手にしたことだ。大体よぉ、ちゃんと同意はとらせてもらったぜぇ?」
「え……?」
「最初に言っただろう、俺の馬車に乗るってことは、俺の客、俺の荷物になるってことだって。おまえたちは俺の馬車に乗ったんだ。そりゃ当然、タダ乗りはだめだ、ガキでもわかるだろう。つまり俺は、おまえから相応の代金を徴収したってだけの話だ。一体全体なーにが悪いって?」
「そんなの、屁理屈――ギャン!」
コルトの頭が踏みつけられた。のみならず、グリグリとひねりを効かせてくる。痛い、苦しい。
「ピーピーうるせぇよ。たかが亜人一人、すげぇ特技があるわけでもなく、しかも口も聞けないような超絶お荷物だ。そのままカネに代えるくらいしか役に立たねぇだろうが」
「ちがう、ラフィスは……!」
「知るか、諦めろ、ばーか! 正当な取引をしたんだ、もうおまえのもんじゃねぇ、返ってなんて来やしない。むしろ、おまえをアレの呪縛から解放してやったようなもんだから、お礼を言って欲しいくらいだぜぇ?」
コルトは伏せったままジャスパを睨み返した。反論は山ほどある、ラフィスを馬鹿にするなんて許せない。だが、感情ばかりが先行して言葉として整理することができない。
顔を真っ赤にして居るコルトを、ジャスパはニヤニヤと見下していた。
「ヘッ……しゃーねぇな、ほら、分けてやるよ! 俺って優しいねぇ!」
布袋から取り出した二枚の金貨投げつけられた。それはコルトの額に当たって、めいめい床に転がった。
「そいつで心機一転がんばんな! でもって、二度と俺の前に出て来るんじゃねぇぞ! じゃあな、短い間だったが、世話してやっただけ感謝しろよ!」
今度こそとジャスパは逃亡した。店の外に出るまでは余裕を振りまいていたが、外に出た瞬間、血相を変え全力で走り去って行った。
コルトはのろのろと起き上がったが、床に座るまで。うなだれたまま放心して、とても後を追えなかった。
呆然としているのは居合わせた他者たちも同じだ。女たちはすっかり引いてカウンターの隅で身を寄せ合っているし、店主も心底飽きれて口を半開きにしていた。
「あいつ、血迷ったか……ラスバーナ相手に、よくやるわ」
「わたし聞きたくなかった! お金もらっちゃったもん! どうしよう、ヤバイかな!?」
「聞かなかったことにしようよ……変に騒いでも危ないよ」
「そうした方がいい、もう関わるな」
そしてコルトへ三人分の視線が突き刺さる。おまえもさっさと出て行ってくれ、視線の中に圧力じみた願望が滲み出ていた。
わざわざ言われなくても、もうここに長居する用事はない。コルトは力を振り絞って立ち上がると、金貨を踏みつけて、酒場を歩き去った。
もう泣かないと決めたが、今回ばかりは耐えられない。裏通りを歩きながら悔し涙をジャケットの袖でぐりぐりと拭う。ずっと信じてたのに、ずっと心配してたのに、こんなに手酷く裏切られるなんて。
でも、一番かわいそうなのは。自分があの男を信じ切ったことで、一番不幸な目に遭わせてしまったのは。
「ラフィス……ごめん……ごめんね……」
自分が情けなくて涙が出る。コルトの人生はまだ先が長いが、きっと今以上に最悪な気分になることは無いだろう。これ以上悪くなるのは、ラフィスがどうあがいても取り返せないところに行ってしまっていた場合だけだ。でも今はまだ、そうでないはず。頑張ればもう一度手を繋ぐことができるはず。自分をそう勇気づけ、崩れそうになる膝を支える。
なにも根拠なく生存の願望を抱いているわけではない。ジャスパの行動がそれを裏付けている。わざわざ好きでも無いのに面倒を見続けて来たのは、生きたままでなければ彼の言う商材にならなかったからだ。生死は問わず、彼女の体の金や宝石にだけ価値がある、それならばもう嵐の小屋で凶行におよび、必要な部分だけを剥いで持ち去っていただろう。想像するだに反吐が出る行いだが、悪党なら平然とやってのける、その方が楽だから。
そしてジャスパは調子に乗って一つ致命的なミスを、コルトにとっては最高のヒントをペラペラ漏らした。ラフィスを売った相手は「ラスバーナ商会の跡取り様」だと。ラスバーナ商会という名はノスカリアに来てから散々耳にしたし、店の看板などでもしばしば目にした。……それだけ有力な組織であることは、さておき。
今が人生の底ならば、逆に後はのぼる一方である。実際に足掛かりも見えている。だから行こう、ラフィスを救い出すために。
――みんながなんてったって、僕は諦めないから。ラフィス、待っててよ。僕が助ける、絶対に。
夕刻の鐘の音を遠くに聞きながら、決意して歩き始めたコルトの目には、もう涙は浮かんでいなかった。