日陰者の掟 2
陽が出てくると幌馬車の中も多少明るくなるから、朝が来たことは乗客にもすぐにわかる。日の出は「夜駆け」が仕事を終える合図である。ややして、馬車はゆっくりと減速しながら進みを止めた。
馬車が止まってもコルトは動かず、まず同乗の男がどうするかをうかがった。乗降口近くに陣取っているのだから、先に降りていって欲しいのだが。
しかし、黒コートの男は降りようとする気配すら見せなかった。相変わらずコルトたちへ背を向けたままで微動だにしない。夜の間、寝返りもほとんど打たなかった。
男が起きるまで待つ、そんな根比べをする気は起こらない。幌に閉ざされた淀んだ空気の中からは一刻も早く脱出し、太陽の光で体を洗いたいのだ。一応、男の足先の方には人が通れるだけのスペースが残されているから、体をまたがずとも外に出られはする。
コルトは意を決して立ち上がると、ぬき足さし足で男の足先へ回り込んだ。様子チラチラうかがっているが、やはり近づいても身動き一つしない。――構わない、そのまま寝ててくれ、怖いから。
まるで一世一代の大勝負に挑むような心地でいるコルトの後ろから、ラフィスも付いてやってくる。彼女の足は頑強な金でできているから、板床を踏めば否応なく音が鳴る。それは仕方ないのだが、今回は少しでも足音をたてない努力すらなく普通に歩いてきた。だからコルトは肝を冷やして飛び上がった。
「ちょっ、ちょっと! ラフィス、シーッ! 起きちゃう!」
コソコソ声で言いながら、目では男の事をじっと観察する。今のところ動きは無い。コートの襟で顔がほとんど隠れているから表情は読めないものの、とりあえず、機嫌をどん底まで損ねる形にはならなかったと考えていいだろう。コルトはホッと胸をなでおろした。
一方で、ラフィスがしゅんとしている。怒られたこと、困らせたことを理解し、自責にかられてるのだろう。目の光もいつになく弱々しい。
そんなラフィスを見ていると、やたら胸が締めつけられる。罪悪感だ。意味もわからず怒られたら誰だって嫌になるのは当たり前、もっと気をつけて注意しなければいけなかったんだ、と。
「ごめんね、ラフィス」
「……ウン」
そう言葉を交わしてから、残りの短い距離を抜けるために忍び足を再開する。付いてくるラフィスの足音はやっぱりよく響くが、今度は焦って注意などせず、一刻も早く馬車から降りることに注力した。
今日は少し深い林の中が停泊地であった。外に出た途端、まずは鮮やかな緑が目を眩ませる。空気はしっとりと澄んでいて、天を仰げば木の葉の背景に青い空が広がっている。気持ちのよい朝だ。
密閉された馬車からの解放感、コルトはそれを味わうこともせずジャスパの所へ駆けつけた。
ジャスパは御者席に座ったまま革袋に入った宝石を取り出してニヤニヤと眺めていたが、コルトが近づくと、慌てて袋を懐へしまった。
「ジャスパさーん……ちょっと……ちょっといいですか」
「あん? どうしたよ?」
「あの人……馬車に乗ってきたあの男の人は、一体はなんなんですか?」
「おうおうなんだなんだ、旦那にイジメられでもしたか?」
「そういうわけじゃないけど……」
コルトは口ごもった。イジメられるどころか何もされていない、勝手に怖がっているだけだ。それを正直に言うのは、なんとなく情けない気がした。
しかし渋る態度を見てジャスパは色々察したようだ。
「おまえからちょっかいかけなきゃ、別になーんもしてこねぇよ。でっかい人形だと思って目ぇつむってろい」
「うぅ……でも……」
「エグロンに居るのはああいう日陰者ばっかりだぜ? そんだけビビってんなら行くのやめとくかい? 肝の据わった嬢ちゃんだけ連れて行こうかねぇ」
「ビビってなんかないよ! 全然、平気だ!」
強がってみたものの瞬く間に看破され、ジャスパからは小馬鹿にした笑い声が浴びせられた。
そしてまた夜が来た。コルトたちはいつも通り馬車に揺られて進んでいく。昨夜ろくに眠れなかった分、外で昼寝をしていたから、今は目が冴えている。
件の男については、結局昼間に外で見かけることはなかった。だが、さすがに一日中寝て過ごしたわけではないらしく、昨日とは体勢が少し変わっている。壁面に背を預けて上体を起こしたうえで、胸の前で腕を組み、首は軽く前へ倒したうつむき気味の姿勢だ。
コルトは男の横顔をじいっと見ていた。暗いからはっきりわからないが、目を閉じているように見える。だからと言って熟睡していることもないだろう。
――僕は、ビビってなんか無い。
朝に言った強がりが尾を引いていたのである。あれは強がりじゃなくて本当に強いから言ったことなんだ、なんでもいいからそういう事実を作らないと、これ以上自分が弱虫で役立たずだとされるのには耐えられない。
コルトは静かに息を吸った。車輪の音に負けじと大声を出すために。
「あ、あのっ! すいません! あのーっ!」
何回も呼びかけてやっと男が反応を見せた。基本的な姿勢はそのままで、ほんの少しだけ顔をあげて横目にコルトの方を見ている。
「あの。あなたは、一体、誰なんですか。どういう仕事をしているとか、どこから来たのかとか」
「……なんだやぶさかに。関わらないから関わるな。邪魔するなって夜駆けにも言われただろうが」
初めて聞いた男の声は特別きつい感じがするものではなく、ひたすら気だるげで、単なる「面倒くさい」という感情で支配されていた。
これでコルトの心はかなり軽くなった。面倒がられているだけなら大丈夫だ、怖くない。後は積極的に行けばちゃんと会話はできるはず。板張りの床に座ったまま、ずいと前に出た。
「だって、せっかくこうやって一緒になったんだし、少しくらいお話したっていいじゃないですか。エグロンまではまだ時間あるし、ずっと黙ってるのも変だと思って」
「本当におまえらもエグロンに行くのか」
「そうだよ」
「やめとけよ。あの町はガキが遊びに行くところじゃないぜ」
「遊びに行くわけじゃありません。記憶見の魔女に会いに行くんです」
「あー……あーあー、はいはい」
男はちらとラフィスに視線をやった。一で十を知ったような雰囲気だ。それから、やれやれとばかりに溜息をついて、また元通り目を伏せた姿勢に戻ってしまう。
ちょっと待ってくれよ、とコルトは思った。一体どれだけ会話するのが嫌なのだ、ぞんざいにしなくたって、何か知っていることがあるなら教えてくれたっていいだろうに。それに、無言のまま数日一緒に過ごす方がずっと気まずいと思わないのだろうか。不思議だ。
「ねえ、記憶見の魔女のこと知ってるの? 詳しく教えてください。そういや僕、魔女の名前も知らないや。もしかして、お兄さんの知り合いだったりするんですか?」
コルトは前のめりになって矢継ぎ早に質問を浴びせる。
すると、男はまた溜息をついた。今度はげんなりとした感じのものだった。
「……悪党、流人、神、魔術師。魔術師は、魔法使いとか魔女に言い換えてもらってもよい」
「それが何か?」
「『おまえは誰だ』と聞いてはいけない者たちだ。悪党の名は聞いた方が後悔する、流人は知られたくない素性があるから隠そうと躍起になる。神はもちろん言わずもがな。魔術師は名前を呼ばれることに敏感だ、喧嘩売ってると思われたくなきゃやめておけ」
「はあ」
かみ砕いて考えるに、つまり魔女の名前を聞くなということか。当然ながら喧嘩は売りたくない、巷に居るアビリスタですらとんでもないと思うのに、上位互換の魔女にだなんてあり得ない。コルトは首をぶんぶん縦に振って了解の意を示した。
ところで、そんなことを知っている男自身は一体何者なのか。
その時、コルトの肩が急に掴まれた。いきなりのことでビクンと跳ねるも、犯人はわかっている、ラフィスしかいない。悲鳴はあげずに彼女の方を振り向く。
ラフィスは真剣な顔で首を横に振っていた。オレンジ色の目の中の光がぶれること無くコルトを刺している。それ以上はダメだ、と言っているように感じる。彼女は変な冗談をやらないから、何かしらの危険を嗅ぎ取ったことは間違いない。それがなんなのかはコルトにはわからなかったが。
――いや、もしかして。
悪党と流人、おまえは誰だと聞いてはいけない人たち。悪党の町エグロンを目的地とする男も、ほぼ間違いなくどちらかに当てはまる。つまりさっきのは「記憶見の魔女」の名を聞くなという注意だけでなく、これ以上自分にも関わるなとの遠回しな警告だったのでは。
コルトは恐る恐るもう一度男の方を見た。やや首を下に曲げた姿勢のまま、片目だけでこちらを見ている。そして先ほどまでと違って、かすかに笑んでいる。挑発的かつ薄気味悪い笑顔だ。
コルトはごくりと生唾を飲みこんだ。それっきりなんの言葉も出てこなかった。
翌朝、馬車が停まった直後、既視感あふれる光景が繰り広げられていた。前日と一番違うのはコルトの必死さだ。
「ねえジャスパさん、ジャースーパーさーんー!」
「なんだよベタベタ気持ち悪い」
「あの人ほんとになんなの!? なんかわかんないけど、なんかちょっと怖いんですけど!」
「おいおい結局ビビってんじゃねーか! 何されたか知んねーけどよ!」
ギャハハと笑いつつ、天気の話でもするかのようにジャスパは続けた。
「そりゃおまえ、キレっきれで当然よ。あの旦那はなぁ、それなりに知れた殺し屋なんだ」
「ころ……」
「だからちょっかいかけんなよって言ったんだ。お互い仕事は邪魔しない、必要以上に関わらない、それがエグロン界隈の掟だぜ。制裁されないよう気ぃつけろよー」
コルトは絶句して立ち尽くしていた。普通の人でないと思っていたが、まさか殺し屋とは。最初に感じた嫌な臭い、あれも今なら正体がわかる。いわゆる死臭だ。コルトが知っているのは、森で朽ちゆく動物の死骸が放つそれで人間のものではなかったが、本質的には同じだ。
下手に刺激していたら、ラフィスが止めてくれなかったら、自分も殺されていたかもしれない。認識して総毛立つし、生きていてよかったと泣きそうになる。そしてこれから行くのは悪党の町、ああいう日陰者の人種ばかりが集まっているわけだと改めて思い知り、ひっくり返りそうになる。
もう情けないとかかっこがつかないとかの話じゃない。今の内にジャスパから暗黙の掟とやらを叩きこんでもらって、そしてなんとしてでも生きて帰ることを目標に頑張ろう。コルトは固く心に決めたのだった。