S066 ラプラスの魔と1と0で彩られた世界
ここから数話はかなり蘊蓄回ですので読みづらいかと。
長いです。すいません。
遂に世界の全ての謎を解き明かし私達の世界の法則も心理も解き明かした。
はずだった。
夏の暑い日にとある若者2人は料理しようと集まっていた。
お料理参考本は『簡単完璧お手軽料理100』だった。
全てを解き明かしたと言って過言ではない世界なのだ。マニュアルに、レシピに、ルールに従ってさえいれば全て予測の範囲を出ずに完璧なのだ。何も不安になる事はない。
「えっと、まずはイワシを水で洗って、えらや腹のまわりに残っているうろこをこすり落とす。えらぶたの下に包丁を当てて頭を切り落とす、と。」
「おい、包丁大丈夫か?変わろうか?」
「大丈夫、大丈夫。慣れてきたから。」
「慣れるの早いな。」
「任せろ。レシピもあるしバッチリさ」
「次はっと。腹を斜めに切って内臓を取り出す、っと。」
「結構グロいな。でもまあイケる!」
そうして身締めてからさばいたイワシとクレソン、そして香辛料とオリーブ油で味付けして完成した料理に2人はご満悦だった。
「な?おれらでも出来るだろ?」
「ああ、なんかいい感じだからこれからもやろうぜ」
2人は気分良く乾杯しながら少し遅めの昼食を食べる事にした。しかし、
それはサバだった。
全てを解き明かしたはずの世界は2名程病院送りにした。
その部隊は作戦前の準備に忙しかった。
「よぉし。お前ら、装備はしっかり揃えたか?」
「ハイ!」
「じゃあ、確認するぞ。毛皮帽、厚手のコート、ロングブーツ、ミトン、後、出来ればマフラーもだ。ちゃんと着たか?」
「ハイ!」
「これでマニュアル通りだ。行くぞ!」
そして部隊は完全装備で作戦へと向かうのだった。しかし、
それは夏の出来事だった。
全てを解き明かしたはずの世界は熱中症で部隊を病院送りにした。
とある職場でリーダーは部下にこう言った。
「このプリンターを使えば仕事の効率が10%アップするんだ。いいな?動かしておけよ?」
「え、でもずっと良く分からないものを印刷してますよ?」
「それで良いんだよ!そのプリンターを稼働させれば効率10%アップなんだ。余所の企業の研究成果でそう実績が出てるんだよ!」
「はあ・・・」
そしてプリンターは何か良く分からないものを印字し続けた。しかし、
それはただの無駄遣いだった。
とある作業員が清掃するために洗剤を使っていた。教えられたマニュアルを忠実に守って業務用洗剤を使って作業していた。誠実な、本当に誠実な作業員は丹念に、丹念に掃除をしました。その誠実さで置物はピカピカになりました。
「よし。マニュアル通りしたぞ。これだけ入念に擦れば充分だろう。今日も良い仕事したぞ」
そして置物は本当にピカピカになりました。しかし、
それは磨きすぎで置物の表面を多く削っているだった。
ある為政者が言いました。
「この場所に大きなテーマパークを作れば300の経済効果が生まれ経済全体が活性化する」
そして大きな、国家としては無目的なテーマパークが出来たのでした。しかし、
それは好景気の時に算出した結果で作られたのだった。
ある研究者が言いました。
「大多数の被験者に協力してもらい、ある環境下での装置の性能結果を出しました。お喜びください。近年稀に見る高性能です。従来より30%向上しています」
研究者は声高く自慢げに言いました。しかし、
それは研究者とその一族が権力と財を駆使し、多くの共犯者を集めて行われた実験だった。
とある研究者が言いました。
「貴様、私に逆らうのか?科学でプラシーボ効果は実証されているのだ。つべこべ言わずに投薬しろ」
「しかし・・・」
「くどい。効果が実証されているのだ。気にいらないなら否定出来るだけの証拠を出してみろ」
「・・・」
そして投薬は行われ患者は回復したのでした。しかし、
それは本当に奇跡的な出来事だった。
とある計画者が言いました。
「計画を成功させるためにこの案を実行します。イチャモンツケルナッコーラ効果により成果が実績として証明されています。」
「しかし、それでは今までのルールにも影響が大きく、皆に負担をかけることに・・・」
「ならあなたが代案を出せばよい。成功させるための案、出せるんですか?」
「・・・」
「それと、ツベコベイウナー効果も同時に期待出来るこの案も実行します。」
「いや、しかし、そんな事をしたら拠点も設備も変えないと」
「だからそれならあなたが代案を出せばよい。成功させるための案、出せるんですか?」
「・・・」
そして、案は実行され計画は達成された。しかし、
それは単なるその場しのぎで既存のリソースを切り売りしただけだった。
ある計画者が言いました。
「というわけで、ヘッポコポコペン効果で150の経済の活性化が数値として認められているのでこの計画を実行します」
そして計画を実行したのだが、それだけの効果は出なかった。皆が計画者を追及するが計画者はこう言った。
「科学が証明した実績や理論を基に導き出した数値であり、それは証明されている。だから私は悪くない。どこかであなたがたが失敗したのだ。だから私は正当な報酬を受け取ってよいのだ」
そう言って、成果も出ていないのに報酬をきっちり貰って去りました。
ある計画者が言いました。
「何が何でもやるんだよ!規則?ルール?知ったことか。数値を達成させろ!やれば出来るんだよ!結果が全てなんだよ!」
そう言って今までの取り決めも無視して強引に目標を達成してしまいました。
「目標の数値はしっかり達成した。きっちり結果を出したんだから出した結果の分だけ報酬は貰っていく」
そう言って、後の事は考えずに報酬をきっちり貰って去りました。
「というような事は起きるのじゃろうか?」
「なるほど。完璧な世界に、システムに全てを委ねる事で思考を放棄して判断能力を失う話ですか。そしてシステムが与えるリソースを無条件に信じてそれにさえ従っていれば全てうまくいくという錯覚に陥る話ですね。」
「そうなの?」
「ええ。知性を持つ者は一度得た知識をいつまでも所持している事は出来ません。"忘れる"からです。一度手に入れてしまえば永遠に所有したままになる、という事はなく、常に覚えていようとする意思が必要になるという事です。以前も話しましたように情報強度が薄れるのでより覚えていようと努力する事で強固にする必要があります。また、環境の変化も影響し、知識はその変化に対応できる柔軟性を必要とします。つまり静的なものではなく、動的な、ダイナミズムの中に私達の世界は含まれている、という事です。」
「ええと、つまり?」
そしてエールトヘンは話始めた。
世の中はチャレンジアンドレスポンスも含めて、誰かが行動した結果に対してのレスポンスによるフィードバックにより行動が修正されてある一定の範囲に行動が落ち着き、その行動群の範囲で皆が行動する事で社会が作られる、という事です。フィードバック制御により社会は安定するようになっている、と言えます。つまり、完璧な社会を形作れたとしても、それは私達が運用する事で、ほんの少しの変化によるサイクルを持ってしまうという事です。その一つとして"円環"、"相克"と呼ばれるものがあります。どちらも意味としては似たようなものになり、目に見えるものとしては四季が例えにされます。
しかし、四季も良い部分と悪い部分があるように、あえて円環、相克をいう言葉を用いる時は悪しき部分を指す事が多いのです。相克というものの簡単な例では規制緩和があります。経済がうまくいかなくなり、規制を緩和する事で活性化を促す。規制を緩和する事で、自由度が増し、利益を上げやすくするが同時に法の抜け穴が増し、犯罪、もしくは犯罪スレスレの詐欺行為を行いやすくなります。すると最初は保たれていたモラルやルールも快感原則と競争原理に従って低下してしまい、それまではモラルやルールが維持されていたために自由度を増した事がメリットとして強調され利益が増加したように捉えられていた状態も、犯罪行為が目立つようになり、利益よりも実質的な社会に与える悪影響という損失が大きくなり、規制を厳しくする必要が生じ、元に戻ります。これを単純に外側から見ると、規制が厳しい状態に対して規制が緩い状態が克ち、そして、規制が緩い状態が常態化した時に、規制が緩い状態に対して規制が厳しい状態が克つ、というように見え、これを相克(互いに打ち克つ)と呼びます。
ここでの盲点は、ある分野で規制緩和をしてその分野で利益を得やすいようになったからと言って、社会全体で利益を上げる事が出来るようになったわけではない、という事です。それは社会の中のリソースの取り合いの配分が変わったに過ぎず、利益が増加した事で社会が強くなったわけではなく、利益が増加して社会が強くなるのは、外部からのエネルギーの増加により実質的な利益の増加が必要になります。つまり、この場合はその一つの分野から見て利益があたかも増えたかのように見えるだけ、となります。このような使われ方はその分野を促進する必要がある、もしくはその分野を保護する必要がある場合に使われますが、これをもって不況に対応しようとするのは間違いです。単にその場しのぎで問題を右から左に動かしてより分かりづらくしたに過ぎないからです。厳密に定義すればその問題点を把握できるがあいまいにしてしまえば問題点自体が分からなくなるから、問題は解決した、と言っているにすぎないからです。
円環も同じような事です。生と死を繰り返すサイクルで表現されますが、これは社会の興亡も表します。先日お話した通り、社会を潰して利益を上げようとする者は必ず出てきます。そういった者達にとって"円環"という言葉は利益を出す魔法の言葉であり、それが当たり前だと思わせる事で、社会はいずれ崩壊するのだから仕方ない、何やら良く分からない出来事が重なって社会は崩壊し自分達では及びのつかないものだと思わせる事で、社会を潰して利益を上げようとする者達の存在を気づかせないようにするために用いられる事があります。
相克も円環も極力発生させなくて済むなら発生させてはならないものです。その揺動は社会の中で価値観の変化を発生させ、今までと同じ事をしても同じ成果にならない、価値にならない、という状況を作り出し社会を混乱させます。しかし、そこに商人の求める利益が存在し商人は大抵においてその利益を得る事が出来るのは自分達が有能だからと錯覚しますが、実際には社会においてはその揺動を発生させないようにそれぞれの構成員がそれぞれの分野での秩序や品質の維持向上をしているがために、火事場泥棒的に皆の注意が逸れている為に優位になり、変化を把握しているだけに過ぎません。他者は物価の変化、リソースの減少、世代間での技術継承、技術の促進による製品の変化、社会の状態変化によるニーズの変化などの問題で忙しく、他の分野や全体の繋がりまで把握しきれません。それを悪用され、より混乱させられるなら社会はどうやっても維持出来ないのです。そしてこれが成立してしまうのは、それが先ほど示した問題と混ざり合い区別出来ないためです。商品価格というのは数多くの問題で上下し、その数多くの問題による影響を数字というグロスの表現で扱うという事になります。つまり、そのグロスの中に不正を混ぜ込んでしまえば良いのです。
ある地域で物を高く売りたいなら物流を制限し品不足にして価格を吊り上げ売りさばいてから物流を戻せば価格は落ち着きますが、その一時的な利益はその地域が発生させた損失になります。しかし、その行為を知らない人間から見れば、需要と供給における物価の変動であり、品不足になり物価が上がるが、物価が高くなっても売れる為に品を売ろうと供給され、品が安定し価格が下がり元の状態に戻る、とみてしまう可能性があります。それが経済というシステムにとっては当たり前だとみてしまうわけです。この不正を暴くには常の状態がそういった変化を生み出さないようにする事も必要になります。行われればどこに問題があるのかを追求する事で不正に気付く事が出来るかも知れず、また、そういった状態であるからこそ不正を未然に防ぐ事が出来る予防になるのです。混乱する状況程、価値の変化は速く大きくなる傾向があり、それこそが商人が多く利益を得る為に必要な状況になります。商人が利を追求して状況に干渉するようになれば、社会は必然的に混乱するのです。そして、能動的に干渉しなくとも、情報をあえて伝えない事で自らの望む状況を作り上げ、利益を得ようとするのです。場合により、あえて相手が錯覚するように嘘ではないが的確ではない情報を提供する事で作り上げようともします。
ここで、お嬢様のお話に戻りますが、世界が完全に解き明かされた、と言われた状況があったとします。その時の状況と言うのは、そこに属する構成員とそこから生まれた知識という対になっています。つまり、個々人の能力と定義された知識や概念の総和が一定のラインを超えた、という結果であり、それだけでしかないという事です。
知識や概念は記録され保持される事で一定の情報強度を持ち、簡単には劣化しません。しかし、私達は生死のサイクルを繰り返す事で、その状態は知性の未熟な状態から成熟する状態までの変化を行い、一定には定まりません。それでも解き明かしたとされる時と同じ知識を持ち得るのですが、知性が足りているかは保証されません。既に環境が構築されているためにその成立過程で得られる知識を知りませんし、知性が足りないならその補完もしません。そして知識や概念とはその表現物を通してしか目に見えません。個々人が持つ知識や概念の精度が同じであるかどうかを知る事は難しく、バラつきが生じ、その知識が基準を満たしていない場合を生じさせるのです。環境が既に構築されているために知識の表現物が形としてあり、その手続きの達成や物を生産するという行為の結果から知識が充分かどうかを判断し、それぞれの知識や概念はそれを支える根拠によって繋がっていますが定義をした時点でその定義をした内容のみに依存すると捉えられて括られ、つまりはその明示された根拠部分によってのみ定義付けられ、その根拠部分を通じて他の知識や概念とつながっている部分は考慮されなくなります。考慮されなくなる原因は先にお話しした通りに、忘れるから、そして、その根拠の部分の基準を満たしているかが形に見えないのであいまいなためです。支える足場が不安定になるイメージでしょうか。
そもそも概念定義は、世界の中から観測者が見たい部分を抽出して定義されます。その定義の際に自分に必要な情報だけで定義してしまうと他の概念との整合性がなくなるのです。そうやって定義されたものは主観的なものであり充分な客観的な事実を根拠にして支えられていません。
矛盾の話などは分かりやすい例えです。矛を売りたい為に良く見せようと「どんな盾も貫く」とセールストークをし、盾を売りたい為によく見せようと「どんな矛も防ぐ」とセールストークをしますが、どちらかが成立すればもう一方は成立しない話になります。"どんな盾も貫く矛"と"どんな矛も防ぐ盾"という定義をしていますがそのどちらも売り手の視点で語られているだけであり、客観的事実ではありません。こういったものも定義の一つになります。この場合は、リザルトセットの中にある事実として"品質の良い矛"や"品質の良い盾"が良く売れ、客が普段手に入れている物を基準として少しでも良いものを欲する為にそのセールストークに興味を示して品定めしてみるという事実を基に、扱っている物をそれが実際に良いものかどうか考えずに"良いもの"と定義して話しかける、という行動をしたと言えます。
このように定義した段階ではそれが物事を解決したいのかそれとも欲望を満たしたいのかの違いはありません。解決したい、というものも一面を特化して判断すれば欲望、欲求の類です。しかしそこには他の概念との整合性が存在し、それがないために欲望だと判断される事になります。今回の例えでは、物品を売り払って利益を得て生活したい、という問題を解決するための定義において、自身の利益を最優先した結果として、それぞれの物を最も効率良く売るためにはどのような手段を行う事が効率が良いか、という選択において"間違いがあろうとも"考えられる中で一番の方法を選んだ、という事になります。
勿論それは詐欺行為だと言えなくもないですが、リザルトセットの中には別のものも存在します。まず一つ目のリザルトとして、"良い物"と称して客を呼び止め客が商品を見るが期待した物ではなく失望して立ち去る。二つ目のリザルトとして、"良い物"と称して客を呼び止め客が商品を見て"良い物"だと思い購入する。この二つのリザルトが少なくとも含まれるリザルトセットが今回の状況には存在します。その差が先ほどの言葉が詐欺行為ではない根拠として用いられます。つまり『客の側からしてみれば良い物かも知れない』からとりあえず"良い物"だと決めつけて呼び止める、という事です。良い悪いは相対的な基準ですから粗末な物を使っている物からすればごく普通に出回っている物でも良い物になります。たとえ値段が不相応でも良い悪いだけを語っているなら、その基準が大多数の客のそれぞれの持つ価値観のどれかであり自身に都合の良いものを基準にして良いならこういった方法も成立し、それを批判しようにもここで述べたように『誰かの価値観からすれば"良い物"かも知れないので、お客様が見逃して損をしない為にもこうやって呼び止めています』と言い逃れをする事が出来ます。
そしてそれを見た者がそうやって呼び止めればより多くの人に見て貰えて物を売る事が出来る、とまた思い込み、劣悪な物を売っている自覚があっても同じように呼び止める、という状況が作り出され慣習化します。
それが本当に"良い物"かどうかからはあえて焦点を逸らし、つまりは目を逸らして売るのです。そうしなければ生活できないからです。そこにはその商品が本当に良いものか、という判断よりも、それを売る人物の生活が優先されている事になり、結果を求める為に結果と乖離する事実は遠ざけられて定義がなされる、という事です。これを端的に言葉で表現するなら『そうでなければ利益を得る事が出来ないからそうでなければならない』というようになります。そこに根拠も論理性も必要なく、また、利益を得る為に、生活する為に不必要でありデメリットになる要因であるなら"排除する"という思考になります。よく言われるように"こじつけ"や"いいがかり"の類となります。
このように商品に焦点を当て価値を判断している状況から、売る側の生活もしくは利益に焦点を当て価値を判断している事に注意してください。この商品のこの品質ならこの価格、ではなく、利益を上げるにはこの価格、になっているのです。
客は商品の良し悪しで価値を決めその売り手の生活状況を考慮する事はなく自身の利益を求めますが、売り手は売り手で自身の利益を考えた場合に商品の良し悪しを優先するのではなく自身の利益を優先して商売をします。本来は客の視点が正しく、お互いが持つ共通の価値観を前提に取引を行う事が商取引の基本ですが、どのような人物も生活していく必要があり、この基本が守られると信用してはいけません。社会が大きくなるにつれ扱う物品数は増え、その全ての動向を把握する事は難しく、また、遠くの場所で生産された物が供給されるなど、その価格は個人では把握仕切れなくなり、より不透明になり、商取引にはそれを悪用して利益を得る事が出来る余地や間と呼ばれる、持つ情報の差が生じてしまい、その魔の誘惑に負ける者が優勢になり、やがてそのような者達ばかりになります。それは流通全体を制御出来ない為に生じる不安やリスクを排除しきれない事から生じる受動的な行動であり社会全体から死や生活における不安が取り除かれない限りはなくなる事はありません。不安を取り除かないのであれば流通自体を制御下に入れる必要があります。
話を戻しまして、快感原則と競争原理上、一度定義した知識や概念は受動的には維持出来ません。先程も言いましたように概念や知識は世界から切り取るように一部を抽出して定義したものです。例えば紙に書かれた絵の上に丸い枠を置いて区切り、何かを定義したとします。枠の中にある情報で枠の中を定義しますが枠の中のものと定義はその世界の一部です。区切って定義をしたからといって世界から切り離されたわけではなく定義を行った段階では出来る限りの整合性が取られて定義され、定義を行った世界にある他の概念と関係を持ちます。
描かれた絵を考えると絵を彩る色はその枠の中に全てがあるとは限りません。それぞれの色がどう定義されるかはその絵全体、そして絵などを多く集めて判断材料にした多くの色により定義され、枠の中だけの関係ではなくそれらを含んだより大きな母集団により定義され客観的な関係で成り立っています。しかしより詳細に定義を確認して運用する事はコストと時間がかかり、競争に負ける要因になります。
そして、行動する本人とその周囲から見て必要最低限の範囲にまで識別を縮小する事になり、その行動を見る事で、その結果に問題がない事を確認して成功体験にする事で、縮小した識別の範囲のみを識別できるだけの知識があれば充分に認識出来ていると判断するようになるのです。本来識別して正しく対処する必要があるのですが、差し迫った現状に対処する為にあえて識別せずに簡略化し、その影響は後で余裕のある時に対処する、という方法を取るようになります。識別に時間がかかる、もしくは問題が発生しない事が予測できうる範囲で確定ではない、から行動しないよりも、結果から発生するかも知れないと予測しうる問題の大きさが行動する事で得られる成果と比べて小さいと判断したなら実行するようになります。
ではその結果どうなるかと言いますと、概念を実現する為に組み上げられた行為を、成果だけに焦点を当てると形だけを真似て行動する事で得られるために、行為として成立したかの判断が緩くなります。単純な例えでは、車を使って目的地に到達するのが目標だとして、誰よりも早く到達する競争であるならば、"車を運転する"という行為の認識を緩くして、赤信号であろうと人がいようと構わず速度を上げて他よりも先に到達しようとする行為も"車を運転する"と言えますが、これは元の基準から見れば形を真似ているだけに見えます。しかしそれで他の誰よりも最初に到達してしまうと実績として現れ成果として認められます。その際にたまたま人を轢かなかったなら成功体験と認識され、たまたま赤信号で停止する事もなければ成功体験と認識されます。最悪は人を轢いても利益と損失の天秤の結果、利益が勝るなら成功体験と認識されてしまう場合があるのです。
"車を運転する"という行為には、"車を運転する"という行為を成立させる根拠となるいくつかの条件が必要になりますが、形を必要とする根拠と形を必要としない根拠があります。そしてその根拠もまた形を必要とする根拠と形を必要としない根拠によって支えられ、理想的には基本的な概念にまでつながっています。そのつながりの大きさ、長さが知性の高さを示します。
車を荒野で走らせる事を考えてください。道路交通法も守る必要もなく自由に行動出来ます。社会の中で"して良い"事の制限が少なくなり、より"出来る"側へと条件が偏っています。このような場所では蛇行運転をしても速度超過をしてもまず周囲に迷惑を掛けない為に許可されますし、それが迷惑でなければ誰も止めようともしないでしょう。この時、形を必要とする根拠、行動の根拠となるものには、車がある事、運転出来るだけの身体能力を有する事、車が正常に機能する事などが存在し、正常に機能する事の中には、燃料がある事、ハンドルがあり直進と方向転換が出来る事、ブレーキがあり停止出来る事、などがあり、燃料には、車に適して使用出来る物である事、というように繋がっていきます。
形にない根拠では、急ハンドルを切らない、急ブレーキを踏まない、眠らない、などが挙げられるでしょう。しかしこれらは、後の事がどうなっても構わないと思うなら外す事が出来る根拠です。"車を運転する"という行為において、後の事など考えずとも良いとして、"車が走行不能になっても良い"とするなら"急ハンドルを切らない"という根拠を外す事が出来ます。そして急ハンドルを切る事で車が横転し場合により走行不能になります。"怪我をしても構わない"とするなら"急ブレーキを踏まない"という根拠を外す事が出来、"眠らない"という根拠も外せるでしょう。急ブレーキを踏む事でフロントガラスに頭をぶつけ怪我をする可能性が出ますし、寝てしまったならそのまま運転不能で地形の凹凸にハンドルを取られて横転するかも知れません。後の事を考えずに行動して良いとするならより一層行動するために必要な根拠だけで行為を形づくる事が出来ます。
このように概念はそれを含む全体との関係を考慮せずに定義出来るならどのようにも定義出来ます。その定義が他の概念との整合性もなく互いに矛盾する部分を持つようにも定義出来ます。"どんな盾も貫く矛"と"どんな矛も防ぐ盾"のように矛だけを見て、盾だけを見て定義するなら定義出来るでしょう。しかし両方が含まれる定義の集合では成立出来ません。
このように私達は主観だけで主張するのではなく大多数となる母集団が持つ普遍的な価値観や定義で自身の価値観や思考を検証する必要がありますが、欲望がそれを行わせません。検証すれば利益を得られず快楽を得られないのなら検証しなければ良く、深く追求しなければ自身に都合の良い理由だけで作られているから実に都合が良いのです。そして自身に都合の悪い、利益を得るには支障になる概念から目を逸らすようにそこにある問題から焦点を逸らし追求せずに行動するようになります。こうやって、欲望を満たす為に本来満たす必要がある根拠を否定して受け入れず思考放棄を行う習性が身に付いていきます。
また、デファクトスタンダード化して状況が悪化した場合に生活するためにその矛盾を受け入れるしかない状況では同じように整合性が無い事に気づいていても目を逸らすようにそこにある問題から焦点を逸らし追求せずに行動するようになります。こうやって、諦めからの思考放棄を行う習性が身に付いて行きます。
すると、その問題から焦点を逸らして追求しなくなった先にある論理性のつながりはもう把握しなくなりその対象となる概念を中心としたつながりは思考放棄を行った部分から先とのつながりがなくなり、その先が変化しても無関係になり、また、つながりがなくなった事で制限がなくなりより効率の良いように対象としていた概念が変化し、変化出来ます。そしてつながりのなくなった部分で乖離し、"間"が生じます。
"車を運転する"を例にすると、効率を上げて競争に勝つために燃料の品質を確かめるという行為を省いたとします。それはあくまで自身がそれを省いても良いと判断した主観です。今までそうであったから省いても問題ないと信じた、という事です。しかし、その燃料を供給する側はどうでしょう。彼らも彼らの事情があり、彼らも快感原則と競争原理に突き動かされます。燃料を供給している側も競争に勝つために価格を下げ、価格を下げる為に仕様の限度内で品質を下げるかも知れません。そして供給側も自身の利益、それは欲望によるかも知れませんし状況が追い詰められてかも知れませんが、利益を優先し品質を低下させる事でそれを使用する側への影響を考慮しなくなります。使用している側はそこにあった判断を止めているために変化に気づけず、それに気づく時は状況が回復して燃料の品質を確認する余裕が出来た時か問題が表面化した時になりますが大抵は問題が表面化した時です。受動的な立場かどうかで影響は変わりますがこの場合は供給側が優位になっており供給される側の影響が波及する事は少ないですが、場合により品質を下げた事により売れなくなり更に状況が追い込まれるという事態になるかも知れません。この場合も最初は以前と同じ品質だろうと思って買っていた使用者がその低下に気づき買わなくなりますが、その問題が表面化するまでは供給側も考慮しなかった問題となり、場合によっては品質を戻しますが一度失った信用を取り戻す為に品質を下げる事で得た利益より多くの投資を必要とするかもしれません。ここではあえてそのような状況が発生する事を気づいていても行う計画的な犯行については考慮せず割愛します。
このように互いが互いの生存や欲望の為に本来考慮すべき根拠や条件となる概念を思考放棄の末に満たさなくなることで互いの行為には間が出来、そこに悪用出来る余地が出来ます。ここも今回は割愛します。
では"車を運転する"という行為を社会の中で行うには、荒野で運転していた時とどのように違う行動を取る事になるでしょうか。気の向くままにハンドルを操作すれば危険行為とみなされ事故につながるので"運転する"という目的に必要ではないなら周囲に悪影響を与えないようにハンドル操作をする事になります。同じ様に急ブレーキも避ける事になります。右折左折する時には巻き込み確認をする必要があります。不注意から事故を起こさないように夜更かししない、食事をしっかり取るなどの体調管理も必要でしょう。急な故障も追突や暴走や渋滞の原因になりますので荒野に居た時のように壊れるまで整備しない、というような大胆な方法は出来ないでしょう。運転中の余所見などで事故を起さないように運転マナーにも気を付ける必要があるでしょう。そして、それらの基本的な運転技術を身に付けた上でルールとして法律を遵守する事になるでしょう。法律はこれまでに書いた守るべきルールを明文化したものでありルールの中で特に守るべきものが挙げられます。つまり、法律以外にも"車を運転する"という行為において精度を上げる為の行為行動が存在するという事です。"良い運転"というものは法律を遵守した上で更に精度を、品質を追求した結果もたらされるものです。後続車両の追突防止の為に2回ブレーキを踏んでライトを確認しやすくする、夜間走行で対向車、前方車両が近い場合はハイライトを抑える、など法律には明文化されない方法で精度を上げますが、法律から逸れているからといってそれが悪質な行為とみなされる事はなく、法律を制定した際に考慮した概念に沿う行為でありその品質や制度を上げるために行為であるとみなされるのです。しかしそこに罰則もなく褒賞もないですが、より法律の目的に一致する行動として周囲からは認められ、自身も自身の運転技術の指標として参考にするようになります。
この状況で快感原則であえて制限を失くすか競争原理により状況が追い詰められていくと荒野の時に取っていた行動に近い状況になっていきます。
"車を運転する"という行為を成立させる為に必要な条件として、行動の為に必要な条件とは別に、"争わない"、"盗まない"などの社会の基本となる大きな枠組みから来る根拠と、"体調管理をする"などの行おうとする行為に近い根拠とが含まれます。対象とした"車を運転する"という概念から遠くの概念程漠然としていて、関係のないものはフィルタリングされます。"体調管理する"という行為は言い換えると"運転に支障ない状態を維持する"という意味になりますが、この視点から見ると自身の肉体の状態の維持として体調とみだしなみに分岐します。ですので今まで"体調管理"とのつながりを強調していましたが、その間に"(運転に支障ない)状態維持"があり、そこから"体調管理"と"身だしなみ"に分岐したつながりである事が分かります。そして身だしなみには"爪を伸ばしすぎずに切る"、"髪を整える"、"裾が絡みつかない動きやすい服装をする"となり、爪に関しては女性の場合は目的により爪は伸ばした方が身だしなみとしては良い場合がありますが、ここでは"車を運転する"という目的に特化した場合は爪は伸びていない方が好ましい為にそのつながりはフィルタリングされて切り離され考慮されません。"髪を整える"も女性の場合は長く伸ばす事が多いでしょうが"車を運転する"という目的に特化した場合は短い方が良く最低でも視界を遮らない程度に整える事になりパーティなどで"髪を整える"ような概念は好ましくなくフィルタリングされて切り離されるでしょう。"裾が絡みつかない動きやすい服装をする"ではやはり華美な服装が好まれる場合もありますが効率よく動く作業などでは動きやすいものが好ましくなり裾が絡みトラブルになりやすいものは避けられ"身だしなみ"という部分から"華美な服装"はフィルタリングされ切り離されます。同じように"道路交通法を守る"という部分も"法規を守る"というものがありそのつながりの一つとして"道路交通法を守る"というものがあるのが分かります。そしてそれ以外に"民法を守る"、"刑法を守る"、"宅地法を守る"などがあり、この中で関係のない"宅地法"などはフィルタリングされて省かれます。"刑法を守る"が残ったとしてその中から"傷害罪"は関連するのでつながりとして維持されますが通常は"窃盗罪"とはつながらないので省かれます。そして、普段はより重要な概念をすぐに想起出来るように検索インデックスとしてタグをつけているのでそのタグを使ってショートカット、もしくはバイパスします。ここでの問題はショートカットするようになり普段からその繋がりを考えない事で元の関係性を見失いショートカットするつながりのみが残り、元のつながりは概念上からなくなってしまう事があります。ここではこの問題は割愛します。
ではどのように条件を、根拠を省いていくのかを考えます。まず知っておくべき事は、ルールなどは能力の高い者、そして社会における経験的事実の集合から分析されて生じたものであり、それに従う側の知性でそれらを全て完全に理解出来ている事は少ないという事です。経験量も社会全体での事実の集合とは違いがありますし、その知性においても社会のその分野のトップクラスである事はまずないでしょう。では理解できないものをどうやって受け入れているかと言えば盲目的にでも"信じる"事です。その根底に"無条件に受け入れる"という行為が存在しています。社会の基本が"争わない"、"盗まない"だとしてそれを"車を運転する"という行為という概念からその基本的な概念までのつながりを正しく理解している人物というのは皆無です。そこにも"間"が存在しています。その間の部分は信じる事で無条件に根拠もなく繋がり"ワープ"します。実際にそこには他の誰か高い知性を持つ人物の概念モデルでは詳細なつながりがあるかも知れません。しかし、自身に現実問題として生じない限りは知性の低い者は考慮しないでしょう。その差を埋めるには普段からの思考が必要であり知性を示す必要があります。
仮に基本的な概念までつながりを持つとすればその重要性を理解してしまい根拠となる概念を省く事を躊躇するでしょう。しかし、概念の繋がりが少なくその重要性を理解していない者はその問題性を軽視して省く事に躊躇しなくなるでしょう。競争原理において根拠の重要性が理解できない為に軽視する事で条件を省き効率を上げて勝つ際に、大きな概念のつながりは速さの面で不利になるのです。そして省く概念がより基本的なもので大枠であり漠然としたものであるならその影響がフィードバックされるのはかなり遅延がかかり、また直接的に行った行為と結びつける事が出来るようには表面化しませんので省いても問題ないと判断してそれがデファクトスタンダード化します。このように知性の高い者が低い者に負ける要因が生じ、問題を解決する為の強さはその場しのぎをする状況においては弱さになり、条件を省く事が出来なければ出来ない程に競争に負けます。
"車を運転する"という行為を行うが状況として不利になり何から省くかと考えれば大枠になり直接的に影響していないと思われる概念、根拠になります。"争わない"というルールである根拠を省く事で割り込みや迷惑駐車を行う事で他者より効率を上げる事が出来ます。そしてその影響はすぐには表面化せず基本的な大枠の概念の為にその一つは小さなものであり表面化するには遅延があり時間がかかります。そしてその方法で競争に勝てば他者は不利になり同じ状況に追い込まれ同じ様に行動しデファクトスタンダード化します。するとまた競争に勝つには他の何かを省く必要が生じ次に何を省くかと考えるようになります。毎日車両点検しなくとも一日ではそれほどの差は生じないから省いてよいと思うかもしれません。ほんの少しなら速度を超過させても影響はないと思うかも知れません。人気の少ない場所なら信号無視をしても構わないと思うかもしれません。風邪をひいていても勝つために体調不良でも運転するかも知れません。食事の時間が惜しいから食べながら運転するかも知れません。交渉する時間が押しから通信しながら運転するかも知れません。食事の時間が惜しいから食事を取らずに運転するかも知れません。寝不足や酷い疲れが残っていても運転するかも知れません。事故時に必要な装備を取り除いて軽くするか積載量を増やすかも知れません。
そうやって自身の能力を上げるのではなくいかに制限を外して状況を有利にするかを考えるようになります。本来あるべき行動は、ルールを遵守したままで改善策を模索し、方法を改めたり能力を向上させたりして不利な状態を克服する事が求められています。しかし、そういった努力は快感原則上は敬遠する方法になります。また、追い詰められた状態では能力を向上させるなどの方法は時間がかかりその効果が現れるまでの間に破滅してしまうために別の方法を模索する場合が生じます。そして手間を省き効率を上げるようになるのです。
最初は大枠の基本的な根拠などの直接的な影響の少ないものから始まるので目に見えるリスクの増加はすぐには現れませんが、やがて状況の悪化としてリスクは目に見える形で生じ、それが自身の取った行動の影響であり、また同じ様に行動するものが増えた事による影響だとは認識出来ません。なぜなら同じように他でも劣化は起こっており、それらの影響が混ざり合った結果として生じるからです。逆に言えば分からなくなるのだからしても罰せられなければ問題はないわけです。しかしそれを受け入れると社会は安定しなくなるでしょう。割り込みをするようになったから自身も他者から割り込みをされ遅れる原因となり競争に負けやすくなる、迷惑駐車の為に通行できず遅れる原因になり競争に負けやすくなる、といった具合です。勿論自身がルールを順守していても他者が始めてしまえば自身も巻き込まれます。
そしてそういった直接的な影響が少ない条件を省けるだけ省いた後でまだ競争に勝つ必要があるなら今度は直接的なリスクを増大させてでも効率を上げようとします。そしてそれもまた競争に勝つ要因として罰せられないままに成果としてみなされればデファクトスタンダードとして常態化します。そしてデファクトスタンダード化するという事はより少ない概念で行動を支えても問題なく概念により構築された行為を実現するための形としての行動を達成する事が出来る事を表します。しかしそれが本当に問題を起こさずに実現出来ているかどうかは分かりません。割り込みをして良い、と自身に許したとして、最初は他者が割り込みをしなかったり割り込みを拒絶したりする事が無い為にうまく成果につながったかも知れませんが、他者も割り込みをするようになるとその影響で競争に負けるかも知れませんし割り込みを妨害されて割り込もうとしない場合より更に不利になるかも知れません。状態に問題がないかを確認するには過渡状態ではなく定常状態で影響がある一定の範囲に収束してから判断する必要があります。
また、"信じる"事で受け入れている概念もどのように影響があるかを把握出来ない為に軽視する事になり、より省きやすい概念として扱われます。この場合、社会の基本的な枠組みとなる概念が対象としている概念にどうつながっているか分からない為という部分もありますが、同時に対象している概念が専門的な根拠により支えられているがその根拠がなぜ成立しているのかを分からない為に社会の基本的な概念とのつながりを把握出来ない為に軽視してしまう事があります。魔導学における法則の原理部分がこういった事例になります。その原理部分がなぜ成立するのかを原理部分だけを見て社会の基本的な概念とは無関係だと思い込めますが、それを適用するのは社会です。"出来る"事と"して良い"事は別であり、"出来る"事に更に根拠や条件を追加して"して良い"事になります。重力加速度が計算出来るからと言って誰かに向かって物を落としてよい事にはならず、作用反作用の原理があるからと言って誰かを突き飛ばして良いわけではありません。しかし目に見えない概念というものは自身の能力が足りない為に実際に条件を満たしているかを把握するのが難しく自身が認識していないだけで行為を行う度に他者に悪影響を与えている場合があるのです。燃料の例えでお話したように自身の利益を優先した為に本来は考慮すべき事を考慮しない事でそこに生じる問題を制御下から除き制御不能にする事で他者にその問題の解決を押し付ける、という結果を生み出します。これが主たる不和の原因です。それは悪意からも善意からも生まれるのです。
更に問題になるのが根拠や条件を省く事で成果を出して罰せられなかった場合成功体験として記憶されデファクトスタンダード化しますが、自身においてもその根拠や条件を省いた事によって成功したという実績が残ってしまい、他の物事にも同じような対処をする傾向が出来ます。"一事が万事"などの言葉がある通りです。そして利益を追求するなら根拠や条件を省く必要が現状で発生していなくとも省く事で差を生み出し有利になり利益を増す事が出来る可能性がある為に省かれやすくなり、そして社会の母集団が大きい程行われる可能性は増し、より早い時期に行なわれるようになり行われデファクトスタンダード化します。そうやって私達は制限を社会のルールを破って省いていき制御可能かどうかとは無関係に規制緩和を行い、その"行為"はより"行動"に近い状態になり荒野で行動していた時と変わらない行動へと近づきます。最後まで同一にならないのは直接的な影響を与える根拠部分が分かりやすい為に省く事が不利益につながるためです。
この様に私達は制限がない状態で競争を繰り返せば必ず行動はやがて獣に近くなり争いを生み出します。誰かが始めた過当な競争は周囲を巻き込み雪崩のように状況を劣化させます。この例えとして"力に引きずられる"などと言います。自発的に動いているのではなく受動的に動かされていると言う意味です。また、"重力にひきずられる"と言う事があります。重力圏にいなければ自由に移動できまずが、一度重力の影響を受ける場所へと移動すると徐々に速度を増しながら最下限まで落ちていくからです。
このような事態に陥らない為には普段から知性を示す必要があります。勿論それが出来る環境作りが重要ですが個人の出来る事であるというなら知性を示す事になります。根拠となる概念の繋がりにおいて遠くに位置するもの程影響が少なく、それがどのように現在行おうとしている行為に影響を与えるのかを知るためには"なぜ"と遡るように辿る必要があります。
しかし現実的な問題として状況に追いつめられていればどこまでも辿るわけにもいきませんのでどこかで区切る必要があります。本来は行為を実行する前の段階であらかじめ予測して思考し推論して結論を出している状態で行為を行うという方法が通常です。行為として行動する前にあらかじめ問題になる可能性があるものは対策を取っておくというのが知性です。それでも個人の能力の限界により予測できないものもあり、対策を取っていないものはその場で対策を考える事になり、大抵はその場限りの処置を取る事になります。
その個人の知性の限界に対処するために私達は社会を作りより多くの知識と事実により普遍的な知識、客観的な知識を定めて基準として集団に属する構成員に遵守させる事で個人の限界から生じる問題を排除しようとします。しかしそれも初めのうちしか充分な効果がありません。最初は皆が世界を見て自身の能力で判断して理解しようとしていた状態が、定義された客観的知識を見て判断して理解しようとする状態になるからです。それまでは世界を見て判断しながら経験を積みその経験則で足りない部分を補う事で客観的知識を使うために状況に即した対応が出来ます。しかし客観的知識は能力の高い者が導き出した答えであり、大半の者にはその知性が低いほどによく分からないものになります。そしてその理解度の低さに比例して思考を放棄する結果になります。『良く分からないが偉い人が言うのなら間違いないだろう』というような考え方になり思考を放棄するのです。そして受動的に与えられた知識を使って物事を判断するようになり、自身の能力で世界を見て判断する事を止めた為に判断能力は衰え、それまで保持していた概念や知識はその精度を落とすのです。そして自身が以前までの精度や基準を維持しようとしてもそれを維持するための判断能力が足りずその判断能力を養う為の機会は、自身から導き出した客観的知識ではないためにその知識を知性の度合いにより盲目的に受け入れ、減る事になります。自身の判断で行動する事によって与えられた客観的知識の求める結果と違う結果になり損失を出さない為に分からなくても従う事を繰り返し思考を放棄するのです。そしてその結果として与えられた知識が損失を出す事が確定していてもそれに従おうとし、それが間違いであるかどうかの判断能力も失います。また、同時にその判断能力を失っている状況を悪用しようとする者も現れ、不利益を被るのを「仕方ない」と受け入れさせようとします。ここではこの問題は割愛します。
そして先ほども言いましたように、足りない部分を補うために知性を示す必要があります。与えられた知識が"なぜ"そのように定義されているのかと思考する必要があるのです。完全には難しくとも根拠を知り精度を上げる事で妄信している部分を減らして自身の知らない内に周囲に悪影響を与えている状況を改善する必要があります。そして自身の知らない内、という事でどこで止めれば良いというものは分かりづらく努力義務が生じるのです。ただ、ここにも周囲を見て基準を考える為に実際には周囲に悪影響を与えないと言える程の軽微な影響しか出さない状況になっていなくとも錯覚する事があります。
このように与えられた客観的知識を使って行動するようになると判断能力が低下し、時間が経過するにつれ、世代が変わるにつれ元の状況とは違ってきます。社会にある知識は同じでもそこに属する構成員の知性と保持する知識量が違ってくるのです。知識を得る為に必要な労力が減る事で知識を得る機会も増えますがその労力が低下する事で知識の重要性を軽視するようになり、また、社会から与えられた知識にさえ従っていれば表面上は問題なく生活出来るために個々の行動を思考して追求する事もなく、個々の行動を支える根拠が"教えられたから"、"そう習ったから"というものへと置き換えられます。行動として成功する限りはそれだけでも充分に根拠になり得るのです。他者も追求せず自身も追求しない、そして問題が起きているのかさえ分からない、という状況になります。社会を維持するための基準そもそのが社会に存在する知識と個々人の能力であり、最低限の基準を全員が超えている必要があります。そしてそれぞれの役割の重要性により求められる知性と知識量は増加し、重要度が増すほどに役割における指示の影響が大きくなり判断能力が不足するとその影響が大きくなります。農民の知性が不足して行動を盲目的に行ってもその影響は個人のレベルで済むかも知れませんがそれらを束ね指示する監督者の知性が不足して指示を誤ればその影響は指示を受ける側全体へと広がります。
それが分かっていても私達はそういった状況に陥ります。社会の中で与えられた知識、環境の中に居る事で得られる安心感から深く追求しなくとも行動しているだけで望む成果が得られ、決められた手続きを行っていればその手続きがどのように決められたかを考える必要性がないからです。その状況がかつて誰かが思考して作り上げた条件から得られたものであったとしても、集団の中で共依存している状況では"誰かが何とかしてくれる"と根拠のない期待で自身が労力を使わずとも済むと期待するのです。今までがそうだったからこれからもそうであって欲しいと願い、"そうでなければ損失を生み利益を生み出さないからそうでなければならない"と妄信するのです。そして判断能力を失う事で根拠が少なくなった為に制限が緩くなり自由度が増しそこに魔の誘惑が生じますがこれも割愛します。
こうして生死のサイクル以外に知性の衰退と復興という|円環[サイクル]が生じます。知性が衰え判断能力を低下する為に認識力が弱くなり手続きや物の状態を把握する事に支障が生じ争いになり、争いを避ける為にまた知性を向上させて手続きや物の状態を把握出来るようになります。
そこでエールトヘンは一区切りを入れた。
「お嬢様の話に戻りますが、そうやって判断能力を低下させていますが現在の環境で問題がないから以前と同じ様に判断出来ていると思い込み失敗するという事です。そうならない為には努力義務が必要で、"なぜ"と根拠部分を問うようにしていないとやがて誰かの作った手続きなどを形だけ真似て行動する事になり、最悪は騙そうとする人物に騙されたまま気づけないようになります。では一旦休憩を入れて続きを話しましょう」
ラプラスの魔、というものは、それが提示された時に、そんな存在はいないだろう、という皮肉を込めて付けられた名称です。実際には、私達より高次元の生命体がいれば、それが『ラプラスの魔』で示される存在になり、それは神か悪魔かは分かりません。ただし、高次元の存在だからといって、本当にそうであるかは別です。私達も興味のないものには全く興味を示さず知ろうともしません。そういった存在にとっては私達はどうでも良い存在であり、蟻や小さな虫のように思われるようなもので、その生態など知ったところで知的好奇心を満たす以外の何かになるかすら分かりません。よって神に理解してもらえる、という考え自体がまず間違いになります。そして三次元から見て2次元であるとされる影を見れば分かるように、交わった影がどうなっているかは三次元からは三次元から見た状況しか分からないのです。影そのものが意思を持っている場合にはそこに違いがあるかも知れませんが私達に関係なく、また、実際には影には意思がありませんので考慮する必要がありません。しかし、私達には意思があり、それを見る高次元の存在にはその違いを理解してもらわねければコミュニケーションもまともに取る事も出来ません。私達を理解してもらえず、私達に理解できないものとしてかつては自然が代表的なものであり、そういった意味で、自然は神、だとされていたりします。そして自然とどうにかコミュニケーションを取ろうと儀式をしたりしていた、という事です。但し、擬人化したために、自分達がこうされたら怒りを収めるのではないか、などの考えで儀式の方法が決められ、人柱などが用意されたりするという間違いが生じます。
人柱に関しては、生贄に処女が好まれる、という部分がありますが、これは、映画の例で言えば「5〇0」だったかスパルタの話で、間違った行動をしたおバカな戦士団をさも英雄のように見せかけて放映して観た側を錯覚させるという詐欺師の片棒を担ぐものがありました。その中で、あれは元老院で良かったと思いますが、戦士団のリーダーである王様が託宣を受けるために元老院(王の上にあり意見出来る立場で王に政治的な国の方針を伝える者達)がその託宣の対価に生贄を要求する、という部分を悪し様に描いて、どちらが善でどちらが悪かを逆転して錯覚させ後世に伝え、自分達が正しい、というような既成事実を捏造するために用いられていました。
生贄に処女が好まれる、のは時代が下って、神(知識)をその身に宿す人物が現人神という存在として支配や影響を与えるが、彼らも日常の雑務は必要であるし、子孫を残さないといけない為に、女性が必要になる。しかし、既に姦通している女性ではエディプスコンプレックスの問題や、自身の男と内通して裏切る可能性があるので限定される、という事です。
ここで映画をディスっていますが、これを少し戦国時代でも良いですが、日本の話にでもしてみると、元老院の立場にいるのは、ご隠居さん達です。生前葬を済まして隠居していたり、家督を譲って暮らしている先代さんたちが、その経験を元に当代の当主を諫めるが、その当主が先代を気に入らない為に言う事を聞かずに、無茶をして大失敗した。さて、誰が悪いのか、という面で、先ほどの映画の内容を見返すと、そこにあるのは失敗した側が"自分達は悪くない"と言いたいがために、自分達をさも英雄かのように錯覚させる事で罪を逃れようとしている、とも取れます。ここでは、本人たちがしていないのでそれはないですが、それとは別に、そう解釈させる事で襲い掛かる事を美化して耽美主義に走らせ襲い掛かる事は許されるのだ、と思わせたい意思がかいま見えます。自分達は英雄で偉いのだ、という錯覚により高揚感を与え、そこに全能感と自在感を伴わせる事で、容易く間違いを犯させるのが目的、とも言えます。そして、それを諫めるものは卑しく妬んでいるから諫めるのだから邪魔な存在でしかないから無視して良い、と思わせたい、という事です。端的に言えば、かつてあった事を"逆に解釈させて錯覚させる"のが目的であり、そこに自分達の嘘を混ぜ込みたい、という存在がいるという事です。
相克は良くゲームなどで凄い仕様のように取り上げられて活用されていますが、要はそもそもだましたいから使われている、という見方が出来ます。相克は本来抑えるもの、なくすものであり、揺動のようなものです。正確にシステムを把握したいなら、運用したいならあってはならず、それを失くすように行動する事が求められますが、あると何かと詐欺をするには便利なのです。だからそれが当たり前だ、と思わせる為に良くゲームなどで用いられます。そこから既に洗脳は開始されている、と言えます。
円環も同じです。社会を崩壊させた時点で負け組ですが、そうする事で利益を得られるとするならそれを実行するものがいます。どれだけ悪さをしても、証拠を掴まれずにご破算にしてしまえば、罪を問わらず逃げきれます。今の世の中がそうです。だから戦争したがります。あえて不況だどうだと社会そのものを誘導して。そのための経済システムが現在の社会です。
なぜセット販売、抱き合わせ販売が嫌われるか、という事が分かったと思います。そこに不正を行うための要因を隠してしまえるから、と、それぞれの商品を別個に扱う事で生じるコストを省く事が出来る為にそれだけ価格を下げる事が出来、価格競争に勝てるためにそれ以外の方法が廃れる、からです。そして常に必要もないものを一緒に購入するという状況になり、常に損をする状況になります。
一応それとは別に、茶器セットなどのように、他の組み合わせると利便性や芸術性が低下する為にあえて使いやすいように整えた人揃えの道具を売る事があります。それと抱き合わせ販売の類が違うのは、別にセットにしなくても良いものをまとめただけのものであったり、セットにしたからサイズ等を合わせて便利にしていると思ったが一致していない、そもそもあまり関係がないものをセットにしている、などの使う側の目的に合致した組み合わせではなく売る側の目的に合致した組み合わせをするのが抱き合わせ販売だからです。




