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S056 時間とは

ここの後半はこの作品に書くべきではないものを書いていますので気に入らないなら飛ばしてください。所詮創作物の中に書いてある話なので多少の不都合は見逃してください。

また、その後半部分については個人的な意見とも言えるので話半分でお願いします。

書いていてあーでもないこーでもないと考えてたら時間だけが過ぎそうなので挙げる事にしました^^;


そう言ってエールトヘンは話を続ける。



ある物体を考えます。その物体がいつの間にか状態変化したとします。そうですね、例えば食べ物にしましょうか。ある場所に置かれたりんごが腐ったとします。りんごはりんご。そこにあります。しかしそれまでと違うりんごです。それを表すにはどうすれば良いか。それが時間という概念です。

まず原始的な"時間"を話します。ある者がりんごを置いていました。ですがいつの間にかそのリンゴは今までのりんごとは違っていました。別のりんごを持ってきたのではありません。ですが変わっていました。そのリンゴは腐っていたのです。ですがその違いがどういう事なのか分からないので食べたとします。するとお腹を壊してしまいました。するとその者は、おかしい、リンゴを食べてもこうはならなかったのに、なぜ今回はこうなった、と考えるわけです。一度で分からないならそのままですが、それが何度も続くとどうやらりんごに原因があるらしい、となります。そしてりんごを眺め、食べていると違いがある事に気づきます。どうやらりんごはりんごでも違うりんごがあるようだ。そして、食べてもお腹を壊さないりんごもいつの間にかお腹を壊すりんごになるようだ。こうして時間経過による状態変化を知り、原始的な時間というものを知ります。つまり原始的な時間というものは同じ物体の二つの状態の差を表すために認識されます。

次にりんごにもバナナにも食べ物という分類には同じ状態変化がある事を知ります。

そしてりんごはりんごでも2つのりんごがあればそれぞれ別に状態変化する事を知ります。どうやら個別に変化するのだと知り、同様に食べ物は同じような変化をするのだと知ります。ですが同じ食べ物でもお腹を壊さない食べ物からお腹を壊す食べ物になる長さが違う事も知ります。こうして原始的な時間ではまるで個々のものの上には|それぞれ違う[・・・・・・]時間が流れていると考えるようになります。ですがそれぞれのものを考えるだけならそれで良いのですがそれぞれのものの関係性を考えると不都合が生じます。例えば、あるお腹の痛くならないりんごがあって、あちらのりんごは短い時間でお腹が痛くなるりんごになった。でもこちらのりんごは短い時間よりちょっと長い時間でお腹が痛くなるりんごになった。そうして同じりんごでも更に細かい状態変化の違いがある事を知ります。また、前はりんごを手に入れてからすこし長い時間でおなかが痛くなるりんごになったのに、今回はちょっとの時間でおなかの痛くなるりんごになった。そうして、自分とりんごの時間の関係性を知ります。りんごに違いが出たのは、手に入れてからのりんごの変化だけを見ると分からないが、手に入れる前、つまりは自身の主観の世界の中に存在する前からを考えればりんごの果実が成った時、つまりりんごの始まりが違うからだと認識出来るようになります。こうして、自分とりんごの関係性を知ることにより、自分とりんごとを取り囲む共通の時間が流れている事を知り、自分とりんごのある世界の客観時間を知ります。

ここからは『お腹が痛くなる』を『腐る』と端的に表現します。

次にりんごとバナナの腐るまでの時間が違うとします。同じ時にそれぞれの果実をもいで手に入れても腐るまでの時間が違う。いままでりんごを見ていると腐るまでの時間はほぼ同じだったから『腐る』という概念は大体同じ長さと思っていたがどうやら違うようだ、と思います。そして周りにあるものの状態変化を扱うためにそれぞれの時間感覚を手に入れるのですがやはり先ほどと同じように関係性の問題になり、自分主観の時間感覚では自分の周りにあるものをうまく管理出来ない為に、自分と周囲のものをまとめて扱える時間が必要になり、自分の世界の客観時間を用いるようになります。

そうして自分の世界の客観時間が作られると今度は他者との客観時間の違いが問題になります。価値観の違いによって状態変化のどこからどこまでを同じ概念で表すを決める必要が出てきます。『これは腐ってる』『いや、腐ってない』と言い合いになるからです。微差はその状況に応じて決めるしかないとして、明らかに差がある場合は価値観のすり合わせからなくなっていき、それに合わせて互いの持つ客観時間は統一されていきます。この繰り返しにより、自分を含むものの世界の客観時間が作られます。そして他者との時間感覚を合わせる為におなじ基準を用いる事になります。最初は私達を取り囲むものの中で客観的に、誰にも影響されず公平で、また分かりやすいものが選ばれ、太陽が選ばれます。

しかし社会の規模が大きくなり太陽を基準に時間感覚を決めている事に不都合が生じます。地域によっては太陽が地面より上にある時間が違い、また、いつ太陽が昇るかも違います。私達は大きな社会を作るうえで、いままで以上に客観的に、誰にも影響されず公平なものを必要としたのです。その結果として原子時計が用いられました。しかし、これは誰にでも分かりやすいものではありませんでした。役割分担の末に、能力が特化された者が考え、そして作製、維持にコストが多くかかり、ほとんどの個人では自分の所有物として所有出来ず、共有物として扱う事になったのです。この時から、時間の基準は誰にでも理解できるものが基準となるのではなく、一部の者の信用に依存するものが基準となります。つまり、良く分からないが偉い人が言っているからそうなんだろう、と受け入れるために、その一部の偉い人と呼ばれた集団が、偽装や詐欺を行っても、良く分からない者にはその判断も出来ないという事です。ここでは問題から逸れますので割愛します。

さて、ここまで述べたように時間もそして空間も一様であり、歪みはありません。時間に関しては存在しておらず、私達の取り扱う概念上にしか存在していません。その本質は状態差だからです。状態差のない世界は、差を認識できないがためにその主観時間は止まって見えます。では空間は、と言うと私達を構成する物質を観測するために光を感覚器官が受光しその情報を視界として手に入れる事で認識します。光は遥かに速い速度で移動し、その量も含めて私達から見て、"私達を取り囲むものの中で客観的に、誰にも影響されず公平なもの"でありそこに異論がありません。時間は同じように感覚器官で観測子を感受して情報にする方法を持っていない為、"視覚を通して"時計を見る事で疑似的に感覚します。

概念というものはどのようにも定義出来ます。"俺は宇宙の支配者だ"と言えばそう概念定義されます。しかしそれを証明しなければ客観的事実になりません。誰かがそう言ったとしても、残念な子が居る、程度にしか周囲は思わないでしょう。それが真理だとは誰も思わないはずです。本人を除いて。

では主観時間に話を戻します。食べ物の生死と観測者の生死を考え、同じ『生死』と扱う事とします。食べ物の生死において、死とは腐ってしまった最初の段階と定義します。生とは腐らず食中毒にかからなず栄養を摂取できる状態だと定義します。さて、観測者こそが絶対であり、観測者の生死こそが絶対基準だとします。すると食べ物、例えばバナナやりんごはどう見えるでしょう。生死は同一だと定義しました。しかしバナナとりんご、観測者の生死の長さは違います。そこで観測者はこう考えます。バナナとりんご、観測者の時間の流れが違うのだ、と。バナナやりんごは観測者より早い時間が流れ、同じ生死でも時間の流れ方が違うから観測者より先に死ぬ、つまりは腐る、と結論づけます。

これは本来、特定の状態遷移はそれぞれ別個であるものを、強引に同一とみなす事で焦点を変え他の基準にその影響を吸収させていると言えます。つまり、注意したい概念を観測しやすく扱いやすく出来るように変換し、その変換の影響、逆変換を他の概念にかけている、とも言えます。これにより、今回の例では"生死が同一であるという概念を基準として世界"を表現しているのです。

これを物質を使って表したとします。伸縮性があり曲がる事が出来る棒があり、一本は直棒、もう一本を円弧に沿った曲棒だとします。この2本の端同士をつなぎます。今、時間を表すものが直棒だとし、生死の概念が曲棒だとします。これを曲棒になっている方を直棒に変えたとしたらそれまで直棒だったものが曲棒になってしまいます。このように変換されてしまうのです。そして、それはあくまで見方の違いであり、世界そのものが変わったわけでもないのです。

しかしこれは生死の基準が観測者です。他者との間に相違が生じますので使用できる範囲が限定され、それで全てをうまく説明できるかと言えば疑問が残ります。もし仮にりんごを基準にした場合に齟齬があると、それぞれが"観測者から見たりんご"と"りんごから見た観測者"という2つの違ったものになってしまいます。変換する際に情報が欠損される不可逆変換であった場合、この2つは違うものになります。そして変換は大抵は必要な情報のみを変換するため、りんごから見れば観測者は生まれる時は木に成っていると考えるかも知れませんし、観測者から見ればりんごは出産によって生まれるかも知れないと考えるようになるかも知れません。

さて、世の中には時間と空間は歪むものであり絶対的な基準ではない、とする理論があります。相対性理論です。これはここまでに述べた考えから生じます。光速度不変、という根拠のない根拠を絶対的な基準とするために、他の基準に影響を与える事でそれが正しいように変換したものでしかない、という事です。

ではなぜ光が基準でなければならないのか。それは私達が光より優れた基準足り得る"私達を取り囲むものの中で客観的に、誰にも影響されず公平なもの"を見つける事が出来ないからです。私達は光より速いものを認識出来ず、光より空間に満ちて偏りを生じさせないものを認識出来ないからです。ですが同時にその光に近い速度で動く物体との関係性には矛盾が生じます。

光より物体が速い場合を壁と球で考えてみます。物体が光よりはるかに遅い場合は、長い壁が動いている状態と考え球を斜めにぶつけても同じ位置から同じ角度で同じ力だと反射角は一定になり、その球を発射する機械を複数個ほど壁と並行に並べると反射した先に等間隔で到着し、同時刻に発射した球は同時刻に反射した球を観測するラインに到達します。物体が光より速い状態では、四角い物体が動いている所に、球を連続で発射してぶつけると考え同じ位置から同じ角度で同じ力でも反射角は変わります。その球を発射する機械を複数並べて発射したとしても接触する角度が違うために反射角は変わり、物体とぶつかるかどうかも分かりません。結果としてその物が見えるかどうかの保証がありません。また、散乱した光があたかも複数の物体があるかのようにみせかけるかも知れません。人が物の長さを認識するには認識出来るだけの受光した光の連続性が必要になります。

では物事を簡単に考えるために主観時間で考えます。ある物体が進行方向に対して10区間に区切られたとします。その物体が横切るとして、その物体に球をぶつけるために、ある定位置に機械を設置し、

同じ位置から同じ角度で同じ力で球を発射したとします。物体の10区間全てに球が1個当たる速度で物体を移動させたとします。すると反射した球を観測するラインには10個の球が届き"10の長さ"を観測出来ます。では物体の速度が2倍になったとしましょう。すると物体に当たる球は5個に減り"5の長さ"しか観測出来ません。もし球が光であった場合、それを受光する目には物体の長さは本来の半分しか知覚出来ません。しかしもし光が絶対的な基準であり、相対的な影響は絶対に存在しないと仮定した場合、"空間が縮んだ"としか説明出来ません。しかし"空間が縮んだ"と、"空間は相対的なもので縮む"、と定義づけさえすればその理論上には矛盾はなくなります。

概念定義の問題点は、それがその定義を覆す矛盾にぶつかるまではそれが正しいと認識し続ける事が出来る、という点です。しかしそれが客観性を持つためには他の理論や論理性と整合性を保たなければならない。しかし、光の場合、客観性を有するには他にどのような基準を設ける事が出来るでしょうか。それがこの理論の矛盾を否定しきれない原因です。それを行うには無限大の無限大を知覚するにも等しい、パラダイムシフトが必要です。私達という物体と光の速度という関係性を、光と粒子Xとの関係性として扱う事が出来て初めて、空間、時間が歪むのか歪まないのかを明確に知る事が出来ます。この確認には相対性理論は役に立ちません。なぜなら相対性理論の根拠を検証するために相対性理論は使用できないからです。

例えば、覗けば歪んで見える望遠鏡があったとして、歪んで見える物体の形を予測し、それが実際に予測した形だったと確認出来ても、その望遠鏡を使って覗いた世界がありのままの世界だと実証したわけではないのです。

光時計があったとして、その説明により生じる時間の流れの違いはそれも先程の例にあるように光速度不変という根拠のない根拠が原因で生じています。

速度が光速に近づくにつれ質量が増すという事も同様です。

等価原理と称して重力と加速度が同じであると定義付けているのは、重力の発生機序を知らずとも重力を扱えるようにグロスとして扱う事にしただけであり、実際には重力を統合出来たわけではないです。

これは電磁気トンネルを考えてみましょう。円筒形のトンネルがあり、その中心を通るように水平に板状の物質が床として存在し二分しているとします。トンネル外周には電磁コイルが巻かれており、トンネルの断面である円の中心に磁性体が置かれているとします。外部の電磁コイルに電流を流すと磁性体が円筒形の長さ方向へ移動し始めます。もし仮にこのトンネルの中に観測者が居て磁性体を観測したとします。磁性体は突如動き出し、観測者から見ればあたかも何かの力が働いて動いた、と見えます。トンネル内部からは電磁コイルは見えません。電磁コイルに電流を流した結果として磁性体に力が作用した、という事はその観測者からは分からず、突如、力が発生しすぐに伝わったように見え、それは重力が発生と同時にすぐに伝わる事と同じに見えるでしょう。始点が分からず、情報がないからです。そしてその磁性体が移動した方向と逆方向に観測者が磁性体に力をかけて停止させたとします。この時、観測者から見てよくわからない力を観測者なりに分析しようとすれば、それは力学的な作用を元に分析するでしょう。磁性体を動かした力が電磁気力であったとしても観測者には分からず、そして現状で必要なのは力学としての分析になるからです。こうして、電磁気学と力学をグロスとして扱い、磁性体の動作を決める事が出来ます。そこに電磁気力としての発生機序は必要なく、電磁コイルに流れる電流が一定であり発生する力が一定ならば力学的視点から電磁気学は必要ないのです。そして、発生機序が分からないために、発生した力は時間的なロスを持たずに伝わったという扱いをしなければ分析も出来ない事になります。これと同じ様に重力を考え、重力とは何か、を解明する事なく理論に適用した、というものが等価原理です。

これと同様に不確定性原理も、対象となるミクロの世界での動きが私達に対してはるかに速い為に正しく観測出来ず、おおよそこの範囲にある、という事だけ分かれば利用出来る範囲に適用するものであり、どちらも実用科学であり、純粋科学ではありません。

このように実用性を重視して作られた理論はその成立過程で都合の悪い情報は削ぎ落して実現可能な可能性のみで形作られます。そのため、理論をピントが合った焦点だとして、その理論を基に発展される理論はぼやけます。通常、理論の発展は発展した理論が新たな根拠として提示されるのですが、元々があいまいさを含むために発展した理論全てが現実味を帯びるかを保証しません。

しかし理論を発展させようとする時、ほとんどの者は相対性理論というものを通して見た世界しか知る事が出来ず、それの代わりになる視点を持たず、また、その視点を新たに構築できるだけの知識を持たない場合が多いです。そのため、ミクロの世界を扱おうとする際に相対性理論を通してしか見る事が出来ずそこにあるあいまいさを排除する事が出来ません。ありのままの世界にはない、理論を成立させるために必要な制限が相対性理論に存在すると、その制限から逃れられないのです。これを"括られる"と表現します。



そこでエールトヘンは一度仕切り直す。


「ですのでお嬢様。お嬢様がおっしゃられたお話にあった過去へとタイムスリップするというのは幻想でしかなく、残念ながら出来ません。過去に戻る事と等価な事として、やり直しがあります。失敗した事の影響を取り除くか軽減するために同じ問題に挑み成功させる事でそれ以降は成功した結果で状況を良くしていく事が出来ます。社会の成長と崩壊はこれにあたります。リソースがある限りは繰り返す事が出来、成功させた時点から状況は改善されます。さあ、お嬢様。先日うまくいかなかった事をもう一度試しましょう。マーガレットも協力してくれます」


電磁気トンネルは、ソレノイドってやつと同じです。見方を変えれば加速器とも言えます。加速器の中にいて加速器を知らずに粒子を見れば、いきなり加速して何の力が加わったのだ、となります。


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