S039 お嬢様勉強会 ~人間原理~
'意思'、'連想'など、結構色々と定義していませんが使っている事に注意してください。
これは哲学講座ではないので結構端折りました。ですが要点は押さえています。
「人は見たいものを見る」
そう言ってエールトヘンは話し出した。
人の思考とは目的を達成するために効率良く最適化されます。競争に勝つためです。一瞬の逡巡が遅れとなり決定的な差を生み勝敗を決し、勝ったものと負けたものの差は大きくなり負ける度に生命の危険に対するリスクが上昇する為、思考はより早くより効率的に考えるように最適化されます。
つまりここにもデファクトスタンダードと同じ欠点があるのですが今回はそれに焦点を当てません。
人の認識方法とは対象を以前に認識した情報と照合して同じかどうかを判定します。その際に何か分からない対象を識別しますが、その識別に使用する情報には優先順位があります。優先順位はより本人の利害に関係するものからになります。これは快感原則に基づき、生命の危機のリスクを下げる事が出来る情報から識別されていきます。見て安全(危険なものではない)か、近づいて安全か、触れて安全か、動かして安全か、そうやってまず生命危機のリスクを下げた後に、有益かどうかを識別し、有益でもなければ放置して問題がないかを識別しようとします。その識別をどこまで追求するかは本人の意思によります。ですが、その意思は社会がそれに属する個人に課す最低限の基準を超える事を要求されます。しかしそれはあくまで要求であり、従うかどうかはその本人に委ねられます。
例えばゴミを考えます。まず、ゴミとは何か、という事で、ゴミではないもの、を連想し、「ゴミではないものではないもの」の集合を形作り、それ以降はその「ゴミではないものではないもの」の情報を照合に利用します。その照合に用いられる情報はその認識を行う個人が認識した事のある物品などの情報で構成され、新たな物品などで情報が追加される事で新たな「ゴミではないもの」」が追加され、また、そこから「ゴミではないものではないもの」の情報が更新されます。その更新により新たな「ゴミ」の情報が定義されます。一方で、その個人が見る事のない物品などの情報はその「ゴミ」の定義にはなく、また、認識する必要性がなければ詳細に識別する必要がありません。では「ゴミ」と「ゴミではないもの」はどうやって分けられたのでしょうか。主には生活において有益な部分を使用し、残った有益ではないもので放置が出来ない(処分が必要な)ものを「ゴミ」、その「ゴミ」を排除して残ったものを「ゴミではないもの」となるでしょう。有益ではないが放置しても構わない、「ゴミではない」ものには有益なものもありますが、無益なものもあります。周囲に生える雑草、石、誰かの所有物、などが該当します。ですがこれらは「ゴミ」ではありません。もちろん単純に決める事は出来ません。コストがかかるためにすぐに処分が出来ない「ゴミ」は処分が出来ないだけで「ゴミではない」という事にはなりません。また、先ほど挙げた雑草も、成長し生活に支障をきたすようになれば草抜きされ「ゴミ」になります。更に、「ゴミ」として認識される事が通常であるものも個人の価値観で「ゴミではないもの」になる事もあります。本来は廃棄されるはずの瓶の蓋だが色がきれいな為に収集対象になる、単なる虫の死骸とも言えるが昆虫標本として価値を見い出せるために収集対象になり「ゴミではない」ものとして扱われる、遺体を焼いた骨はただの骨であるので処分されるべき骨ではあるが遺族からすると墓に収める必要があったり丁重に弔う必要があるため「ゴミではない」、使い古した衣服を「ゴミ」として捨てようとするが他の誰かにはまだ衣服として使用できるため「ゴミではない」と識別される、同じく使い古した衣服を捨てる事にしたが、雑巾として作り直す事が出来るのでまだ「ゴミではない」と認識する、などです。また、肥料を作るために大量の草を用意したが多すぎた為に一部を「ゴミ」とした、料理を作りすぎた為に食べきれず仕方なく「ゴミ」とした、料理の作り方を間違えて不味いものを作ってしまい食べられず「ゴミ」とした、なども考えられます。
このように客観的に認識される情報、それに個人の価値観という情報が加えられます。その価値観が与える条件は個人の主観であり、また、認識されるものは個人にとって危険ではないか、有益であるか等であり、その他の条件は優先順位が下げられ、もしくは考慮されません。
その際、個人から見て考慮されない領域にある物事は優先順位がついていませんが、仮につける必要がある場合には、よりリスクが低く、より自身の利害に一致したものが優先的に扱われる事になり、よりリスクが高く、より自身の利害に不一致なもの、識別するための条件が複雑なものが優先順位の低いものとして扱われます。ゴミで考えるなら、まず分別しないで済むならそれが一番良く、次に分別が必要ならば出来るなら木材や金属といった程度の分別であればより良く、更に分別が必要なら可燃物、不燃物、プラスチック、金属等で分ける事になり更に分別が必要なら金属の種類などとなります。そしてこの分別で複雑な条件を持つもの、例えば混合物、結合物はより利害に不一致でコストが高くなり、その廃棄手順も複雑になるために廃棄の際に識別して分別する必要がなければ後に回されます。より単純な識別で済むものほど識別されやすく、複数の物質、概念を考慮する必要があるものほど後に回されるという事です。この際に効率が優先されるためどうあるべきかは考慮される事は少なく、より効率良く識別するように意思は偏向しているのでその時点での最も好ましい方法や識別が選ばれる事はなく利害を含めて最も問題の少ない方法や識別が行われます。例えば、本来なら分別してリサイクルするのがシステムとしては負荷が少なくなるが分別するコストが捻出できないために分別せずにまとめて焼却する、というような選択に落ち着くという事です。つまり現実の問題への対処として面倒な事、コストがかかり処理や手順が複雑になるものほど後に回され、その際に本来あるべき処理や手順よりそれより簡単な処理や手順が選択され、そこにある差により解決されない条件は問題として発生しない限りは識別も解決も後回しになる、という事です。つまり、不都合なものはより遠くに遠ざけるように認識は組み立てられます。
それを空間上に配置できたとすれば、自身に近い場所に、よりリスクが低く利害が一致し利益が大きいものが配置され、そこから徐々にリスクが高く利害が不一致になりコストや損失が大きくなる配置になります。自身からより遠いところにより不都合なものが遠ざけられる事になります。これは物を認識する過程において、詳細にしていくとしてもリスクがより低くより利害が一致したものを優先的に識別しようとし、また、識別が単純であるもの程優先されやすい為です。結果として識別出来ていないものでより複雑なものは後回しにされ結果として識別するために抱える問題の条件が複雑なもの程遠くにあるようになります。
しかし考えてみて下さい。この認識における思考は現実に対処するためであり、必要に迫られたから必要なだけ詳細に識別し、現実での競争により選択できない選択肢があり現実での競争により特化した選択を行うだけのものです。それはかつて知性を手に入れる前の獣であった時と同じだと言えます。かつて知性を得てリスクを遠ざけたのですが、その知性により得た環境でもやはり環境に対して受動的に行動せざるを余儀なくされている、と言えます。絶対的な基準では確かに私たちは知性を得て現実へ対処できる能力を高めたのですが、その高めた先での基準における相対的な基準でかつて知性を得る前と同じ対応をしている事になります。つまりどれだけ知性を高めようとも同様のリスクが生じている事に注意する必要があります。しかしそのリスクの度合いは以前に比べて低く、実際にリスクが表面化して生命の危機に直面するという事態に陥るまでの時間はその高めた知性で組み立てられた社会というシステムの強度や精度により長くなります。その間に問題を解決する猶予を、機会を得ているとも言えます。逆に、それだけ表面化しにくくなっているとも言えます。そして表面化したリスクは積算された結果として現れ、それに対処出来なければ社会の崩壊を招きます。つまりいついかなる時も、かつて獣が知性を得て行為行動を変えたように、現実を認識してそれを解決する行動が必要になるという事です。それを怠った分だけ問題は蓄積し、やがて表面化します。
では物質を伴わない概念はどうでしょうか。そこに論理性の欠如を示したとして、目に見えません。また、その証明は他の概念を根拠として補強したものであるべきですが、実際にそう出来ているかの判断が難しく、個人の心の中の概念を他者が正確に知る事は難しく、また自身の認識の問題でありその間違いに気づきにくいです。つまり、気づけないままに放置する事になります。そこに生じる問題は、"現状の概念が正しい"という前提の元に新たに認識されてしまいます。つまり、現状の概念における瑕疵であってもそれに気づけない場合は別の問題のように認識してしまい、より複雑な、しかし問題としては影響度の小さい問題と認識される事が多いために解決は後回しにされます。つまり、現状に問題のない場合は概念は正しいと肯定されるが、問題が表面化するまでの時間により実際に瑕疵があっても気づかない為に概念自体が間違っている事を認識出来ない可能性があると言うことです。そしてそれは目に見えません。つまり、そこに存在しているはずの問題は、不都合は、より後回しになり、よりリスクがなく利益が大きいものを、より認識したいものを認識して概念を形成していく事になります。
私たちは認識しやすいもの、認識する必要性の高いものから認識し、そこにある認識した概念が本来表されるレベルに到達できない場合に生じる残された問題も新たな問題として別個にして後回しにされますが概念を詳細に識別していく事により、その概念は単純な時には他の概念と分離して識別する事が出来ていましたが、概念そのものの数も増え、概念の精度も上がる事により、他者、他物との影響を考慮する必要性が生じ、関係性、相関性が考慮される事になります。例えば、木材の利用です。木を「資源」として考え扱い生活を豊かにしたとしましょう。しかしその消費量が増大する事で自然のサイクルがその余りや廃材を分解出来なくなっていくと、放置していれば、山に捨てておけば、という考えでは対処できなくなり、「ゴミ」は「ゴミ」だが「人為的に自然のサイクルを模倣するなどの何らかの方法を用いて分解する必要があるゴミ」として再認識してする必要が生じます。また、消費量の増大は資源の枯渇につながり、そこに新たな問題が生じ、「木」はその使用において取り合う事になれば「他者との調整が必要である」事と「無くならないようにする必要がある」事が再認識されます。そしてここで「他者との調整が必要である」事になれば「他者との調整」という概念に木の概念が含まれ、「調整、取引、話し合いの視点から見た木」が考慮されます。この視点から見た木は「資源としてサイズ、材質」等が優先して認識されるでしょうが、「ゴミ」としての認識は優先順位は低くなるでしょう。そして「調整、取引、話し合いの視点から見た木」の概念も識別する必要のある情報で形成され、識別する必要のない情報は考慮されない事になります。そしてその必要性による細分化により「調整」、「取引」、「話し合い」に別個に認識される可能性があります。
こうやって細分化し、かつ詳細になり、互いの概念がそれぞれから見た視点で互いを条件として取り入れ、行為行動の根拠として補強し一つの形を成していきます。
そして最終的に事象の終着点に到達すると仮定します。つまり全事象がそれぞれに与えあう影響においてその条件を変動させる過渡状態からほぼ間違いがないだろうという安定状態へと収束出来たとします。
その時にその概念を空間上に配置できたとしてどのようなイメージになるかを考えます。平面上の二点で考えた場合、一方は自己であり、もう一方が事象の終着点になります。この間は概念の本数だけの意図、繊維で繋がっていると仮定します。イメージとしては筋肉が良いかも知れません。関節と関節の間をつなぐ筋肉を創造すると良いと思います。そして事象の終着点にはそれぞれの概念におけるもっとも不都合なものが集積されるとも言えます。リスクが高く、コストが高く、複雑に問題が絡まりあう状態において、総合評価がもっとも悪いものが事象の終着点に集められます。しかし、それが理想状態になるかと言えばそうなりません。私たちは私たちの認識精度を高める過程で、競争を行い、資源の奪い合いを行い、効率を重視し、それが本来はどうあるべきかを優先する事無く認識していきます。結果として、最適化はされますがその最適化は私たちの知性の限界と資源の限界により受動的になるしかない選択肢から生まれるデファクトスタンダードにより偏向した最適化になります。結果、不都合は不都合として問題は残り、それらの問題が全て事象の終着点に押し付けられ、そこには私たちが認識してきた概念が抱える矛盾により今まで私たちが認識してきた知識では表す事が出来ない不都合、条件が出来上がってしまいます。これを事象の特異点と言います。
これを3次元に考えた場合、自己は中心点として表され、そこから概念が伸び、要因となるものが枝、結果となるものが節点となり、互いが互いに条件として情報を補強し合いながらつながり拡張していき一つの球状を形作るでしょう。もしこれが理想状態であるならば球表面が事象の終着点として矛盾なく整合するでしょうが、私たちは私たちの認識限界のために、やはり一点に不都合な問題を集積させ、特異点を認識してしまいます。これが私たちの認識限界です。
例えば「光」は魔導学において「波のような粒子のようなもの」として表現されます。ですがそうでしょうか。それは私たちが私たちの持つ感覚器と認識方法の限界により偏向したものではないでしょうか。つまり「光」とは「私たちが波のような粒子のようなものとしてしか認識できないもの」が正しいと言えるのではないでしょうか。わたしたちが見ているもの、認識するものは私たちの限界によりクリッピングされ私たちに都合良く見えている事を理解する必要があります。なぜならそう見ているのですからそう見えるのは当然です。そしてそう見る事しか出来ないのです。そして、現状においてそれ以上の識別を必要としないためにその定義のまま問題がなく、また詳細に識別される必要性がない状態を維持しているとも言えます。
例えば「成功」の反対は「成功ではない」、「失敗」の反対は「失敗ではない」ですが、認識方法により「成功と失敗」という対で認識したほうが良いために私たちはその対を使用します。認識において、成功を定義して「成功」を考え、それ以外を「成功ではない」と定義し、「失敗」を定義し、「失敗ではない」を定義し、その照合情報で「成功」か「失敗」が重要であるからその対を使用する事を選択し、その方法の経験を積み、その思考の情報強度を遺伝子に蓄積してよりその方法を選択していきます。これは私たちが私たちに都合の良い見方を選択している事になります。
また、私たちは「成功」と「失敗」を「表と裏」、「1か0」などで表す事があります。では成功と失敗はそれ以外では表されないのでしょうか。
事象をマトリックスで表す事が出来たとしましょう。m次元のマトリックスで、ある試行が行われる結果が表現されるとします。そこに現れる組み合わせの内、自分たちに都合の良いものを「成功」、都合の悪いものを「失敗」と定義づけたとします。では、そこにある割合は「1か0」のようにそれぞれ50[%]でしょうか。私たちは数ある組み合わせの内、特定の、一部の組み合わせを必要とし、それはほとんど発生しません。その中の極僅かなものが条件を満たし「成功」とみなされます。つまり「成功」と「失敗」は元々50[%]ずつに分けられるものではありません。しかし、「成功と失敗」を「1と0」で表す時にその情報は欠損します。これは分かりやすい欠損ですから私たちはそう簡単に誤りません。しかし目に見えない概念で高度なものはどうでしょうか。私たちは気づかないうちに、情報の一部が欠損した情報を「正しい」と認識していないかを疑う必要があります。そして、この二つの「成功と失敗」の認識を細分化していった先で、この二つはお互いに矛盾を持たないように条件を揃える必要があり、それが証明できなければ互いに矛盾を抱えたままになります。
私たちの認識は、概念定義は常にその危険を含みます。その問題の最終的な押し付け先が事象の終着点になります。
しかし、もし全ての概念を矛盾なく整合させる事が出来たとすればそれは特異点を持たない完全な球体として表されるでしょう。しかしそのためには私たちが私たちの行為行動を俯瞰して観測できる必要があります。ある問題に対処するために、それが表現されるマトリクスより少なくとも1次元高いマトリクスの認識能力が必要である事を意味します。なぜかと言えば、私たちは見たいものを見ます。そのマトリクスで表された結果は見たいものだけを見たものであり自身に都合の良い視点での結果に過ぎません。先ほどの吊り橋効果を考えましょう。吊り橋効果という概念により与える効果が分かりますが、それを行った結果がどのように影響されるのかはそこに含まれていません。その行為行動がそれを含む系にどのように影響を与えたかを知る必要があり、吊り橋効果を知るだけのマトリクスでは足らず、少なくともそれを含む大きなマトリクスを認識出来る必要があり、それが出来るなら、例で挙げたように他者との利害関係を把握でき'して良いかどうか'を認識できますが、それが出来ない場合吊り橋効果だけを見て自身に利益が出るように使う事が出来ます。そして、その小さいマトリクスを扱うだけであるならそこから発生する問題は解決される事はありません。自身の狭い視野、小さいマトリクスを通した視点で見た世界にはその問題は映り込まないのです。
さて、以上の事を踏まえて「人間原理」を考えましょう。
「強い人間原理」とは「知的生命体が存在し得ないような宇宙は観測され得ない。よって、宇宙は知的生命体が存在するような構造をしていなければならない」というものです。これは対象を見る主観の話でしかありません。自分から都合よく見ればどのようにも解釈でき、どのような主張も成功する、という事です。さて、例えば庭に草が生えたとしましょう。それを見たとして、草に対して支障もなければ放置するでしょう。ではその草が、「自分が土や空気を認識するからこの場所はあるのだ」と考えたとすれば、観測者はどう思うでしょうか。つまりは「強い人間原理」とはその程度のものなのです。その草が生える前から土は存在し、空気も存在します。その草が観測する前から存在し、草が生えたからと言って存在するようになったわけではありません。これは言葉を錯覚しているものでもあります。「知的生命体が存在し得ないような宇宙は観測され得ない」という部分を「知的生命体が存在し得ないような宇宙は、その知的生命体から「宇宙」として認識されず宇宙は観測され得ない(が、いない知的生命体から観測され得ないだけであり宇宙そのものは存在する)」と解釈されるものを拡大解釈を以て「知的生命体が存在し得ないような宇宙は観測され得ない(。よって、私たちがあるから宇宙は存在出来ているのだ)」と誤誘導している事になります。
「弱い人間原理」とは「宇宙の年齢が偶然ではなく、人間の存在によって縛られていることを示す」というものです。さて、私達は宇宙を俯瞰できません。なぜならその外に出る事が出来ないからです。そしてその宇宙内部の情報しか得られず、また、その中で自分たちに認識可能な制限のある情報を、自分たちの利害により優先順位をつけ認識します。私達が見る宇宙の諸条件は私たちが存在する空間上を表す条件でしかなく、私達は私達の観測する範囲以外を知る事がない。その私達が見る私達が見たい視点で抽出した情報と、私達が観測できるのは私達の生存に適した条件になっている宇宙の一部である事が合わさり、それをあたかも「私達の為に都合の良い条件が揃っているのは私達が特別な存在で私達の為に宇宙があるからだ」と錯覚すると言うことです。
ここでグラデーションマップを考えてみましょう。色が徐々に変化して平面空間上に全ての色が表現されるものです。その中の一点を認識しましょう。その点を仮に私たちの宇宙、もしくは私達のいる惑星と考えましょう。するとどうでしょう。私達のいる点の周囲には私達のいる場所に近い情報を持つ点しか存在していません。それは、私達が、その点が特別だからそうなっているのでしょうか。ここでグラデーションマップという状況を導入しているからそう解釈できるともとらえる事が出来ますが、私達の宇宙に明確な断層と呼べるものは近くに存在せずあったとしても認識出来ていないかもしれません。しかしでは宇宙がどのようなものと認識すればよいのか、と言う点において、今挙げた形態である事も否定しきれません。その場合、私達は私達近傍の空間を私達の宇宙だと認識し、私たちの宇宙に存在する情報では知り得る事の出来ない情報で構成される「私達の宇宙以外」を知る事は出来ないと言う事です。「赤」は「赤」とその近い色は知る事が出来ても「青」や「緑」は認識出来ない。それを知る事が出来ない為です。ここでその点がそれほどの極端な情報で構成される事は稀だ、という仮定は否定します。「赤」と「青」と「緑」の混ざった点ならそれぞれの情報を抽出出来るはずだ、と考える事も出来ますがそれは俯瞰情報であり、その点から見てその情報はありません。その点から認識する情報は、自身がどのような色か、でありその色を仮に「赤」と決めればそれが「赤」であり、「青」や「緑」の情報を知る事はないのです。私達の認識する情報以外を私たちの認識する情報から導き出せるのは「私達の認識する情報ではない」事だけであり、それがどのようなものでありどう証明出来るのかは分からないのです。「赤」ではない色を考えたところで、それは不定です。また、「赤も混ざっていない」事を証明する事も出来ません。
そして、宇宙がビッグバンから始まったと仮定しましょう。宇宙は周囲へと拡散し、様々な状態へと変化するでしょう。その中の一時空間上に、稀に私達のいう「生命」が存在出来る条件が成立する事もあるでしょう。さて、その時間周辺、空間周辺はその生命がその時間、空間を認識したから存在しているのでしょうか。それは単に「その生命が自身の周りを認識して定義した「宇宙」というものがその生命が存在しなければ定義そのものが存在しない」だけでありその生命がいなければ「宇宙」が存在しないわけではないのです。「宇宙」を見る時、それは私達が認識でき、私達が定義した「宇宙」であり、「宇宙」そのものではありません。
また、そこから考えを進めて、例えば毎回「光」を「私たちが波のような粒子のようなものとしてしか認識できないもの」と冗長に言う事から、効率を考えて「波のような粒子のようなもの」と省略して表現してしまうかも知れませんが、まず最初に「私たちが波のような粒子のようなものとしてしか認識できないもの」と教えて理解させた後に効率を上げなければ誤認識の原因になると言う事でもあります。
「以上から、人間原理というものが、科学でもなく哲学でもないという事が分かりましたでしょうか。そこにあるのは主観であり、また私達の認識能力の限界が生じさせる錯覚であると言えます。そしてこれは知性による産物とは呼びにくく、私達が私達の存在を無条件に認めて自身の存在を脅かすリスクから来る不安を遠ざけるための安心を得るためのものであり、人間賛歌だと言うことです。偉い学者が言うのだから正しいのだろう、という無保証の信頼に依存する説であると言えます」
エールトヘンは締めくくった。そこにマスター・ララが話を付け足す。
「なぜ人間原理が必要か。それは錯覚させて詐欺をするためです。魔導学のように見せかけて主観で決めたものが成立する、と錯覚させ、また、それが主観で決められたものでしかない、という事を識別できない相手を騙すため、もしくはそういった人物の識別を行うために存在しています」
「マスター・ララ。今はまだその話は早い。まずは基礎を固めてからでなければ混乱してしまう。段階を踏まなければ」
「しかし、エールトヘン。仮にそれを教える前に私達が死に、伝える事が出来なければお嬢様はそれに対する対処が出来なくなる可能性がある」
「それでもだ。私はお嬢様に出来る限り高い能力を有して欲しいと思っている。それには理解のために教える段階を決め、混乱する事なく積み重ねさせる必要がある。だから、今はまだ早い。対処だけでは単なる条件反射のセットを覚えるだけになりそこからは高い知性は生まれない。目の前の状況に対処して終わりというようなやり方ではなく、お嬢様自身がそれを考える機会を得、そこから自身の思考で答えを得て欲しいのだ」
「分かりました。エールトヘン。教育係であるあなたを尊重しましょう。しかし覚えておいてください。詐欺をする連中には私達の事などどうでもよい事なのです。私達がどう思おうが、そこに付け入る隙があればそれをついて襲い掛かってくる。あれはそういった存在です」
「もちろん分かっている。ハイエナやジャッカルのようなものだとは認識している。だからといってその対処に追われて可能性を失う事は正しいとは思えない。守る側は育て構築する事とそういった防衛を同時に行う必要があり、攻める側はそういった事は考えずに単に自分の利益だけを見ていればよい、というのも重々承知している。それでもやはりまだお嬢様の周囲に危険は少なく猶予はある。それに急ぎすぎだと思うのだが?お嬢様のお歳を考えてみてくれ」
それ以上はマスター・ララも何も言わずに黙る。
ローレンシアはエールトヘンとマスター・ララの口論を他人事のように見て、ローラは話が終わったとばかりにお茶の準備を開始する。
それを横目になぜか疲労困憊なローレンシアはせめてお茶請けは甘いものだと良いな、と思いつつ、自分は食べれない事に気づいて溜息をついた。
概念のワープだとかについても書いていないですがこれ以上長くするのもどうかと思ったのでこれだけにしておきます。
また、人は自身の生存のために良く分からない状況、ものに不安を覚え、より確かな、形のあるものに縋りたがる、という部分も省きました。この辺は2次的なものですので。
ジョージ・エリスの裸の特異点が、科学によるものではなく自分達の認識限界から来るものだという事が私なりの解釈です。




