019 衰家は嗤う
「良い御子に恵まれますよう、家臣として心から願う所存に御座います」
そう言って男は去った。
たいした皮肉だ、とつくづく思う。
寝室を立ち去る時に言うものでもない。
そして情事の後に言う一言でもない。
夫は優しかった。
優しく、民に分け隔て無く接し、民からも慕われた。
税を軽くし、融資を行い、商いを盛んにもさせた。
商法を正し、刑法を整え、平民からも多くを登用して皇宮へと仕えさせた。
だがその優しさが裏目に出た。
それは料理人のほんの些細な夢から始まった。
料理人がより大きな権力を欲し、料理人が料理人ではなくなった。
毒見役がより多くのものを欲し、毒見役が毒見役ではなくなった。
そんな些細な夢から始まった。
賄賂により懐柔された料理人はいつもと違う隠し味を料理に仕込み、毒見役は中和剤を服用して毒見を行った。
結果、毒見役は死んだ。
夫を道連れにして。
治療師の魔法は効かず、死体から検出された毒物は新種の毒だった。
七希毒と称されたその毒は7種の成分の混合毒であり、それぞれは無害であり、長期に体内に蓄積されるも自然に体外へ排出されるはずだった。
気づかれぬよう7回の食事に分けて盛られた毒は確実に命を奪った。
7種の成分が混合された時に魔法は成立し、その急激な作用は特殊な魔法でよってのみ解毒でき、その方法は帝国にはなかった。
治療師と言えども毒の判別が出来なければその成分を中和できず、わずかに緩和しただけに留まり、ほんの数分でもの言わぬ骸になった。
毒見役は効果を遅らせる薬を飲んでいたそうでしばらくして死んだ。もっとも、毒見役として役に立たなかったのだから死罪は確定だが。
毒殺を追及すべく捕らえようと調理場になだれこんだ衛兵が見たのは料理長を含めた料理人達と思われる消炭だけだった。
死体も残らぬように焼かれ、ほんのわずかに残った消炭は誰の陰謀かも示す事はなかった。
恐らく最後の食事を作った時点で殺されたのだろう。
死霊術を使って魂を呼び出したが料理長の魂だけは無かった。
そのため彼は逃走したと判断され、追手が差し向けられたが行方不明のままであった。
捜査により料理長の遺した手記が発見された。
彼は反皇帝派に属し、暗殺に成功すれば侯爵に成れる約束をしていたそうだ。
毒見役も同様ではあるが、それに加えて後宮にいる妃の一人を手にいれるのが目的であったそうだ。
それら2人は夫が推進した平民登用により皇宮へと使える事になった、市井で超一流と称された人物だった。
超一流の薬師と料理人。
彼等の腕前は超一流だったのかも知れないが、その心は容易く誘惑に負けたようだ。
名君になるはずだった。
だが優しすぎた。
人の心に潜む闇を軽く見過ぎていた。
皇宮の腐敗と軍部の粛清を目指した優しくも強き皇帝はささいな夢の為に散った。
そして残されたのは私とあの子。
まだ若く成人していないあの子を守る事だけが私には残った。
だからあの子の為に私は覚悟を決めた。
政治を知らぬ身でも対等に渡りあえるようにする為に宰相を味方に引き入れた。
この身と引き換えに。
1人引き入れれば後はもう良心の呵責もなかった。
後見人として宰相を。
基盤として西部伯を。
中枢の抑えとして大元帥を。
財力基盤として大商人を。
帝国そのものを抑える為に龍煌12星の一人を。
他にも功績を挙げた者達もいたが、結局は10の指に足りる数だけが残った。
誰が帝位継承権を持つ子を得るか。
そのレースに残る者は皆実力を持つ者だけになり、結果としてあの子が帝位に就くまでの時間を稼いでくれる。
他の子がいようと、親族が盾突こうと次の皇帝になるのはあの子だ。
数年だ。数年だけで良い。
あの子が身を守れるようになるその時まで。
「ハハッ・・・」
彼方を見つめながらただひたすらに想いを馳せる彼女は泣き顔のまま顔を上げ、涙も流さずに歪に嗤う。
部屋を後にした宰相ジュアハルトは満面の笑みを湛えていた。
ズールドアの前皇帝は暗愚であった。
優しく、民に分け隔て無く接し、民からも慕われた。
ただそれだけであった。
貴族の何たるかを知らず、軍の何たるかを知らなかった。
平民など掃いて捨てる程にいるにも関わらず、皇帝はそんな連中を登用した。
利権を奪われた貴族は不満を表わした。
軍部は綱紀粛正により自由な裁量で動けなくなった事に不満を表わした。
結果、皇帝の行った計画そのものを過ちであった事にすればよい、と共謀した。
皇帝の行った平民登用を逆手に取れば、いかに我々が有能で選ばれた民であるかを平民共は知る事が出来るだろう。
皇帝の行った平民登用ではないコネによる登用であれば、裏切りなどなくいかに軍部がうまく回るかを平民共は知る事が出来るだろう。
あの料理人や毒見役を見れば分かる。
そうして我々は優位を得た。
もっとも、あの毒を手に入れてくれたのも商人だ。
実に役に立ってくれる。
今日も実に役に立ってくれた。
唇に含んだ粉末は唾液と共にあの女へと摂取され、これからも徐々に蝕むだろう。
いずれ、私無しでは生きられなくなる。
その後で良い。あの無能な皇帝の息子を殺すのは。
今はまだあの女に失脚されては困るのだ。
私の子が出来るまでは。
女帝として君臨して貰わねば私の野望は成し遂げられない。
単純な戦争では私に不利だ。
こうやって国を壊さず徐々に作り変える事であの野蛮な連中の思惑に乗らずに上手く立ち回れる。
出し抜かれず、抑え、だが、常に権力の中心に居座る。
それこそが私に、いや、皇帝に相応しい。
しかし9人か。いまだに9人。少な過ぎても多過ぎても面倒だがそれでも9人。
ライバルは少ない方が良いし、誰の子か気に病まれずに済むのだが。
しかし、うまくいけば次の皇帝は私の子か。悪くない。
長きに渡り宰相を輩出する家でしかなかったが、これからは皇家になれる。
誰を畏れる事もなくその男は声も出さずに静かに嗤う。
後に'九尾の狐'と称された皇后ネルナタリアの後宮を後にして。