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フィリップ・モール・アグネア



 うんざりする振動にも慣れてきたけど、お尻が痛いのはどうにかならないものか。


 王都を出発して三日目。アウタールフ領サンブルグへの旅は順調に進んでいる。今日の昼頃には到着する予定だ。



「フィリップ殿下。お加減はいかがですか」

「問題ないよ。他のみんなは大丈夫かい?」

「は。問題ありません」

「それならよかった。はぁ……緊張するなぁ……」

「ようやくお会いできますね。初恋の人と」

「まぁね。歓迎はされないだろうけど」



 ようやく、ようやくディーネ嬢に会える……。


 僕はあの日、君と会った瞬間からずっと忘れられなかった。このハンカチも未だに返せず……違うな、返すのが嫌だった。返してしまったら、君との繋がりが消えてしまう気がしたから……。


 最低限の護衛を連れての旅路。元副騎士団長・ジャンヌの補佐として送り込んでいたブリジットを筆頭に、数名の親衛隊を連れてサンブルグへと向かっている。ディーネ嬢、早く君に会いたいよ。



「……もう一度だけ言わせていただきますが、本当に危険ですよ?」

「その話は終わっただろ。僕は行くよ。たとえなにがあってもね」



 父とヴィンス公の企みを知ったときは手遅れだった。なにもかもが。


 バレたら幽閉されるかもしれない……そんな状況で聞き耳を立てた僕は愕然とした。父の寝室で聞いた二人の会話が信じられないものだったから。


 災厄の扉を利用し、アウタールフ領を潰してディーネ嬢を手に入れる――そんな話を聞いて耳を疑ったよ。


 幸いそうはならなかった。本当に、幸いだった。



「ですがフィリップ殿下。御身を狙う者はアウタールフ派閥だけではありません」

「それもわかっている。けど、それが僕の罪だよ」

「……殿下」



 アウタールフ公は災厄の扉を生き延びるという偉業を成した。どうやったのかはわからない。


 そして父は焦っている。怒り狂うアウタールフ公が実力行使に出るのではと恐れているんだ。夜も眠れないほどに。だけどこれを利用しない手はなかった。


 父が送った釣書を使えば疑われることなく彼女に接触できる。彼女とアウタールフ公に渡りを付けて、なんとしても父を失脚させるための足掛かりとする。


 母上とレスターを守るには、それくらいしか方法はない……。



「おそらくヴィンス公爵も殿下の動きに違和感を覚える頃でしょう。慎重に行動なさいませ」

「わかっているよ。彼らの動きはどうだい?」

「尻尾を出しません。行動を起こすのはアウタールフ邸に着いてからでしょう」

「……どさくさ紛れてディーネ嬢を狙っているのか」

「余計に交渉がやり辛くなるのでは?それに万が一ということもあります」

「そこは大丈夫。向こうにはグレゴリー卿がいるんだ」

「だ、団長がですか!?なぜ言ってくださらないのですか!」

「それを言ったら君は来てくれなかっただろ?」

「当たり前です!あぁ……なんて言い訳をすれば……」

「ハハハハ。きっと大丈夫だよ」

「……他人事だと思って」



 とうとう見えてきたサンブルグの城壁。ここへ来るのは何年ぶりだろうか?


 歓迎はされない、間違いなく。下手をすれば死ぬ。派閥の手にかかるかもしれないし、アウタールフ公の手で殺されるかもしれない。どちらにせよ受け入れなくてはならないんだ。それが王家に生まれた僕の定めだから。


 城門を通るときに感じたのは明確な敵意。アウタールフ領の防衛隊は忠誠心が高いとは聞いていた。けどここまでとは思わなかったな。考えが甘かったかもしれない……。


 アウタールフ邸が近づくにつれて体が強張っていく。恐怖と緊張、そしてディーネ嬢との再会を喜ぶ気持ちがグチャグチャになって落ち着かなかった。



「これを」

「……王家の印に間違いありません。お通りください」

「感謝する」



 もうすぐ、もうすぐだ……ッ。あそこにいるのは――



「ディーネ嬢!」



 気づいたら馬車を飛び出していた。一刻も早く会いたい。それしか僕の頭にはなかった。


 ポカンとした表情も愛らしい。赤いドレスもよく…………男装?い、いや男装もよく似合っている。なんと美しいのだろうか。



「ディーネ嬢。会いたかった……」

「……クロお嬢様。殿下です」

「ん?あぁ追い魚拓の人か。予定より早いな。申しわけありませんが、公爵様は邸の中です。あちらへどうぞ」

「ぎょた……?いや君がディーネ嬢だろう?僕にはわかるよ!」

「耳と尻尾がないでしょう?別人ですよ」

「あ」



 ……別人。そう、なのか。それにしては似ているような。



「し、失礼した。御令嬢、お詫びにこれを」

「はぁどうも」



 僕が育てた自慢のフリージアを一輪送る。ディーネ嬢そっくりに見えるくらいだ。きっと親族なのだろう。


 そっと差し出して自己紹介を――しようと思ったら、目の前の少女はフリージアをむしゃむしゃと食べていた。



「まぁまぁだな」

「…………喜んでもらえてよかったよ」

「ゲップ!じゃあ頑張ってください」



 ゲップをしながら茎を返されて呆然とした。かつて女性からこのような扱いを受けたことがあっただろうか?


 フラフラと馬車に戻る僕を彼女は見向きもしてくれない。自信が無くなりそうだ……。



「……凄い令嬢でしたね。その花には毒もあるはずですが」

「だ、大丈夫だろうか?結局名前も聞けなかった。アウタールフ家の親族には違いないだろうけど」



 あの無関心でそっけない対応の衝撃が強烈に残ってしまっている。まるで路傍の石扱い。心のどこかで王族であるという誇りが僕を勘違いさせていたのか……。


 ダメだ……こんな甘い考えではダメなんだ。アウタールフ家が僕ら王家をどれほど恨んでいるかを忘れたのか?そうだ、殺されたっておかしくないのに、ディーネ嬢に会えると浮かれてしまうなんて……僕はなんて愚かなんだ……交渉の前にあの豪快な花食い令嬢と会えてよかった。おかげで気を引き締めることができたよ。


 そして、ついに邸の前に馬車が到着した。そこにアウタールフ公の出迎えはなかった。



「ようこそおいでくださいました殿下。中へご案内します」

「……出迎え感謝するよ」



 使用人だけの出迎えか。かなり厳しい対応を覚悟しないといけないようだ……。


 エントランスを抜けて廊下を歩く足が重たい。距離も長くて遠いような気がする。開かれた扉へ近づくほど緊張が増していき、横を歩くブリジットの顔色が悪くなるのがわかった。でも、それは僕も一緒だろう。



「殿下。お久しぶりですね」

「迎え入れてくれたことを感謝するよアウタールフ公。門前払いも覚悟していた」

「では、この釣書を見た私の気持ちもご理解いただけますか?」

「も、もちろん……わかっている。父上が本当に、失礼したっ」



 なんという圧だ……これが、獣人王に比肩する実力者と名高いアウタールフ公の怒り……おまけに部屋の隅にはグレゴリー卿まで控えている。ブリジットも顔面蒼白だろうね……。


 足が震える。ダメだ、逃げてはダメなんだ。無様を見せるなフィリップッ。最後の希望を掴み取れ。



「アウタールフ公。まずはこれを見てほしい」

「……獣人族の取り扱いに関する法案?殿下はどこでこの書を?」

「父上の寝室にあったものだ。ヴィンス公爵との密談を聞いてからその書簡を隠すのを見た。できれば内容にも目を通してもらいたい」

「では失礼して…………ッ!?」



 柔らかかったアウタールフ公爵の表情が鬼のようだ……。

 あの書には獣人族に関する新しい法案が記されている。もちろん根回しが終わっているから、可決するのは決定済みの法案だった。


 内容は言いたくない。ディーネ嬢を自由に扱えるようにするのが目的だから。


 反吐が出るよ……。



「……これは私が預かっても?」

「もちろんだ。ヴィンス公爵の筆跡と一致していたことは確認している」

「じいや。こちらでも筆跡の確認を頼む」

「は」



 うつむいて表情が見えないけど、激しい怒りを宿しているのは見なくてもわかる。察したグレゴリー卿の目も鋭くこちらを警戒していた。


 苦しい……恐怖で吐きそうだ……。



「殿下のお考えを伺いましょう」

「アウタールフ公。すまないが手前勝手なことを言わせてもらう。父上を王座から引きずり下ろす助けがほしい」

「!?」



 驚いたようにこちらを見る目には疑いの色があった。公も僕がこんなことを言い出すとは思わなかったみたいだ。



「それは修羅の道ですよ?」

「僕は本気だ。これ以上、薄汚い父上の本性を見たくないんだ」

「……矛先は王妃殿下や弟君にも向けられるでしょう。理不尽を強いられることも覚悟しなくてはなりません」

「覚悟の上というより、草案を練ったのは母上なんだよ」

「ファラ王妃殿下が……そうでしたか。相変わらず聡明なお方だ」

「僕が父上を倒し、王の座は弟に譲る。後見にはヴィンス公爵の派閥を除いて決めてもらう。もちろん突発的に評議会を開くから根回しの時間は与えないよ」

「……」



 少しだけアウタールフ公の表情が柔らいで気持ちが楽になった。でもこれで断られたら終わりだ。切り札は残っていない。


 アウタールフ公がアゴに手を添えて悩んでいるようだった。重々しい空気に息を飲むのもつらい……。



「……殿下。庭を通るとき誰かに会いましたか?」

「庭?あ、あぁディーネ嬢そっくりな御令嬢には会ったよ」

「あの子とはどんな話を?」

「最初はディーネ嬢と間違えてしまってね。僕のフリージアをお詫びにと差し出したら、彼女はその、花を食べてしまったんだ……大丈夫だろうか?フリージアは毒があるはずなんだけど……」

「ククク、そうでしたか。毒のことは大丈夫ですからお気になさらず。その後は普通に通してくれましたか?」

「そう、だね。名前も聞けなかったけど」

「そうですか!わかりました。アウタールフ家は殿下に協力しましょう」

「え、ほ、本当に!?」

「クロが通したのならそういうことだろう。では条件を追加しましょうか。後見には私の派閥も除外してください。ここで私が知ってしまった以上はそうすべきですから。それと――」



 やった……やった、やったぞッ。僕たちは乗り越えたんだ……上手くいけば母上とレスターも助けられる。


 僕は浮かれながらアウタールフ公と話を詰めていった。そこでようやく思い出したんだ。護衛の中にヴィンス公の手の者が潜んでいることを。


 それを伝えて不快にさせないか凄く不安だった。



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