序章〜第一章 帰郷
序章
蚕は、繭の中で自分の吐いた糸に閉じ込められて死ぬ。
そのことを、黒沼鞠子はこの村に戻ってくるまで知らなかった。知る必要もなかった。東京で数字と信用だけを相手に生きてきた二十六年間、彼女にとって虫の生死などというものは、決算書の脚注ほどの意味も持たなかったからだ。
だから彼女は気づかなかった。自分の吐いた「優しさ」という名の糸が、すでに一人の男の喉に幾重にも巻きついていたことに。
第一章 帰郷
黒沼の家は、村の外れの山あいに、時代に取り残された形でそのまま残っていた。
かつてこの土地は「養蚕の村」と呼ばれ、黒沼家はその頂点に立つ旧家だった。だが化学繊維の時代が来て、蚕を飼う家は一軒、また一軒と減り、今ではこの谷にただ一軒、繭蔵に灯りをともす家が残るのみだった。
鞠子が実家の門をくぐったのは、東京での仕事――正確には、彼女が「立て直した」と自称し、実際には多くの人間の信用を踏みにじって崩壊させた投資案件――から逃げるようにして、三年ぶりのことだった。
呼び戻されたのには、理由があった。半年前に亡くなった祖母の遺言には、一風変わった条項があった。遺産の分割は、相続人全員がこの家に集い、顔を合わせた上での協議によらなければならない――そう明記されていたのだ。書面のやり取りだけでは、手続きは一切進まない。しかも、四十九日の法要から半年以内にその協議が調わなければ、遺産の相当部分は黒沼家とは縁もゆかりもない地元の財団に寄付されるという、念の入った期限つきだった。
顧問弁護士の久保利彦から、その話を聞いたのはさらに一週間前のことだ。相続の手続きさえ合理的に進めれば、この寂れた山村の土地と山林は、想像以上の額に化ける。鞠子はそれを、悲しみでも郷愁でもなく、純粋な計算として受け止めた。
「懐かしいでしょう、鞠子さん」
久保はそう言ったが、鞠子の胸にあったのは懐かしさではなく、値踏みだった。
家に着くと、既に座敷には二人の親族が顔を揃えていた。
一人は、祖母の次男――鞠子の叔父にあたる黒沼倫太郎。都内で小さな不動産会社を営んでおり、開口一番、「早く現金化して分けるのが一番合理的だろう」と、鞠子と似たような算盤を弾く男だった。
もう一人は、祖母の長女で、鞠子には伯母にあたる黒沼志乃。隣町に嫁いだが、盆と正月には必ずこの家に戻り、蔵の手入れを見守ってきた人だった。彼女だけは、倫太郎の提案に頑として首を縦に振らなかった。
「この土地も、蔵も、売ってしまえばそれで終わりだと思っているんでしょう。だけど、ここで生きてきた人たちがいるのよ」
志乃はそう言って、鞠子と倫太郎を交互に睨みつけた。だが鞠子には、その言葉もまた、時代錯誤な感傷にしか聞こえなかった。
「懐かしむのは結構ですけど、伯母様。相続税の申告期限は待ってくれませんから」
鞠子が涼しい顔でそう返すと、志乃は何かを言いかけて、結局は口をつぐんだ。久保が間に入り、その日の協議は継続審議ということでひとまず収まった。
重苦しい座敷を出た鞠子の値踏みの目が、蔵の前で足を止めた。
古い繭蔵――白壁の黒ずんだ、二階建ての土蔵。その扉が開け放たれ、薄暗い中に、汗にまみれた背中が見えた。
つづく。




