第四章 カレーをねだる女 第二節
私は橋本舞子の旦那さんと一緒に、近くのファミレスへ移動した。
昼時を少し過ぎていたので店内は空いていた。
案内されたボックス席へ座ると、旦那さんは水を一口飲み、深く頭を下げた。
「迷惑をかけて本当に申し訳ない」
かなり疲れ切った顔だった。
目の下には隈が出来ていて、まともに眠れていないのが分かる。
私はとりあえずドリンクバーだけ頼み、話を聞くことにした。
「娘を産むまでは、ちょっと軽いところはありましたが、常識的な人間だったんです」
旦那さんはぽつぽつと話し始めた。
「ですが、娘を産んで数か月くらいしてから、少しずつ言動がおかしくなりました」
「最初は育児疲れかなと思ったんです。夜泣きも酷かったし、僕も出来る範囲でフォローしていました。でも、そのうち段々と様子がおかしくなっていって……」
そして、誇大妄想や恋愛妄想のような症状が出始めたらしい。
ママ友の旦那へ勝手に好意を抱き、トラブルになったこともあったという。
「それで以前住んでいた場所には居られなくなりまして……」
旦那さんは苦笑した。
「向こうでかなり揉めたんです。その際、念書を書かされまして。精神科への受診を条件にされたんです」
「そこで統合失調症だと診断されました」
私は黙って聞いていた。
「何度か短期入院もしましたし、通院もしていました。ただ、最近は症状が落ち着いているように見えたので……今は通院も服薬もしていないんです」
その言葉に私は少し眉をひそめた。
旦那さんは続ける。
「入院中や症状が酷い時は、舞子の母親に来てもらって娘の面倒を見てもらってました」
「症状も落ち着いてきたし、娘が一人っ子だと可哀想だと思って、息子を作ったんです」
「娘の時は途中からミルク育児になってしまったので、今度は完全母乳で育てるんだって張り切ってました」
そして少し視線を落とした。
「義母には怒られました。“離婚してから二人目を作ればいいのに”って」
私はその義母さん、かなりまともな人だなと思った。
「離婚を考えた事もあります。でも情もあるし、病気になった妻を放り出したと思われるのも世間体が悪い」
「発症してから欠勤も増えましたし、治療費や生活費で経済的にも厳しい。不景気で収入も減っています」
「せっかく入れた県営住宅なんです。だから、申し訳ないんですが転居はしたくないんです」
旦那さんは深く頭を下げた。
「迷惑はかけないので、どうか我慢してもらえないでしょうか」
私は少し考えてから答えた。
「統合失調症という病気が、完治する可能性のある病気だという事は知っています」
「同時に、それが非常に難しい事も理解しています」
旦那さんは黙って聞いていた。
「ですが、病気に起因して加害の可能性がある以上、私は距離を置きたいです」
「挨拶程度でも、それをきっかけに寄って来られるのでしたくありません」
「冷たいように聞こえるでしょうが、私は自分の家族を守る義務がありますし、守りたいんです」
私はそこで一度言葉を切った。
「それを、他人に台無しにされるいわれはありません」
「今は落ち着いていても、いつ悪化するか分からない病人とは関わりたくないです」
「現時点で積極的に団地から追い出そうとは思っていません。ですが、それは受け入れたという意味ではありません」
「何かトラブルが起きても、“病気だから”で逃げられ、何の補償もされない相手とは関わりたくないです」
旦那さんは力なく言った。
「……どうしたらいいんでしょうか」
私は少し迷った。
でも結局、正直に言うことにした。
「差し出がましいようですが、お義母さんの意見に従って、離婚して子供二人を引き取るのが一番だと思います」
「酷な事を言うようですが、奥さんと、お子さん二人のこれからの人生と、どちらが大切か考えた方がいいと思います」
「離婚するしないに関わらず、一度弁護士へ相談してみてはどうですか?」
「それと、今後また何かあった場合、こちらは引っ越しも考えます。その費用は負担して頂きたいので、その旨を念書にして頂きたいです」
旦那さんはしばらく俯いたまま、
「……分かりました」
とだけ言った。
話を終えて帰宅すると。
――いた。
また橋本舞子が。
しかも鍋持参で。
「カレー、まだあるんでしょ!残ってもしょうがないから貰ってあげる!」
私は少し考えた後、
「分かりました」
と答えた。
台所へ向かい、カレーを用意する。
ちなみに普通のカレーではない。
レトルトの激辛カレーに、さらに香辛料を大量追加した超激辛仕様である。
舞子は嬉しそうに受け取った。
「ありがとう!これからも余り物があったらウチで処分するから遠慮なく頂戴ね!」
「いえ、最初で最後です。後は旦那さんとお話し済みですから、旦那さんから聞いて下さい」
「そうなの?まあ後で聞くわ。また来るわね!これからも仲良くしましょうね!」
ニコニコしながら帰っていく。
本当に話が通じない。
そして最後に、美紅ちゃんがまたきちんと挨拶した。
「おばちゃん、さようなら」
「ちょっと待って」
私は美紅ちゃんを引き留め、小声で耳打ちした。
「あのカレー、大人向けの味付けだから、子供が食べても美味しくないし身体に悪いの。だから貴女は食べちゃダメよ」
「うん!」
美紅ちゃんは素直に頷いた。
それから舞子は来なくなった。
旦那さんとの話が功を奏したのか。
それとも超激辛カレーが効いたのか。
多分、両方だと思う。
ただ、美紅ちゃんが食べていない事だけは祈った。
数日後。
旦那さんが再び訪ねてきた。
「引っ越し代と慰謝料です」
差し出された封筒には百万円入っていた。
私は大輔へ相談し、引っ越すことにした。
一旦、大輔の実家へ同居する事になった。




