枯渇病と空想禁止法
かつて、戦争が起こるまでは、この世界には空想に満ちていた。
それは、空想士という自分の想い描いた空想を現実にする力を持つ人々が、自らの空想を披露し、楽しませていたものだ。
時に、人々の目は幻想の世界を目にして。
時に、人々の耳は天上の音楽を耳にして。
時に、人々の手は見たこともない世界に手を伸ばして。
空想士は互いに切磋琢磨することで、独自の空想を磨き上げ、旅に出ては新しき空想を思いつき、大切なものを教え、空想士の地位は大きなものとなっていた。
しかし、世界は戦争の災厄に巻き込まれる。
災厄は、大きな炎のうねりとなり、憎しみが黒き雷となり、悲しく泣き叫ぶ涙はスコールとなり、怨念は空の泣き声となって地上に鳴り響いた。
その悲しみを引き裂くために、王国はある一つの決断を下した。
空想士による、戦争の早期解決である。
戦争に導入された空想士の力はとてつもないほど発揮された。
ノアは伝聞でしか知らないが、数多くの空想士が戦争で活躍し、数多くの敵を屠った。
そして、その力によって戦争は終結へと向かった。
痛々しい傷を残した戦争は、《空想戦争》と呼ばれ、人々の記憶に残ることとなった。
だが、それでも戦争が終結したことで、人々は大いに喜んだ。
これから世界はきっと平和になる。
これから世界はきっと良くなる。
終結したその日は、国中を挙げての大騒ぎで、戦争から解放された空想士たちは労われ、また、自分の武勇伝を空想士人に伝え語り、生きる喜びを説いた。
戦争が終わって平和が戻ってくる。
そう確信したのも束の間——世界にある病気が蔓延し始めた。
最初、その病気の正体が何もわからないままだった。
人が突如ボーっとするだけであり、まるで、何もかもに疲れたかのように立ち尽くす人形のような立ち居振る舞いをするだけ。一見するだけなら、あんな大変な戦争があったんだ、気が抜けるのも仕方がない風に捉えられなくもなかった。
けれど、それは静かに蔓延していった。
一人、また一人とそういう人間が増えたことで、ようやく、人々の間に何かがおかしいという認識ができた。
王国が、その病気がどういうものかを調査し始めたのも、その頃だ。
しかし、いくら調査してもその原因は掴めず、なのに一方では病気にかかる人間が増えるばかりであった。いつしか、その病気にかかった人間をこう呼ぶようになった。
《虚ろい人》と。
それがきっかけなのか、どうなのかはわからないが、《虚ろい人》になった者の共通点が少しずつ見えてきた。
何より決定的だったのは、空想士が空想を発現できなくなったことだろう。
それにより、この病気の本質は『人から空想が失われた故の結果』と推測され、事実、病気にかかったものは、何一つ空想をすることができなくなっていた。
それが——《枯渇病》。
ある意味では、死よりも恐ろしい——空虚なる生を送るだけの病気。
一度発症すれば最後、治す方法は今も見つかっていない。
救いにもならない救い話というならば、数々の推論と治療を重ねた結果、原因は《空想戦争》にあると突き止めたことであろう。戦争以前と以後を境目に虚ろい人が出始めたからだ。
ならば、発症者を抑えるために空想の使用を禁止し、これ以上の虚ろい人を出さないようにと王国が空想禁止法の法案を施行したのであった。
◆
「空想とは力であり、モノであり、有限であるもの。《枯渇病》が世界に現れてきてからというもの、そういった見方が強まったからね」
レオンは、物語を読みつつ独り言を呟くように話す。
「一つ、空想士による空想を禁止する。
一つ、人々の空想を喚起する華美な物語に類するものを禁止する。
禁止令の概要は、大まかに言えばこんなところかな」
それが公布された時のことを思い出すだけで、ノアは自分の胸が締め付けられる。
ただ改めてレオンに言われたことでノアはドキリトしてしまったことがある。
——そういえば、私のやっていることって、禁止令に引っかかっているのでしょうか?
子供達に読み聞かせをしている行為は果たして法律違反なのか。
あまり法律に詳しくないノアは内心冷や汗をかいた。
そんなノアの心を知ってか知らずか、レオンは苦笑しながら言葉を足す。
「自己所有している物語程度なら問題ないのだけれど、流通や買い付けが取り締まれるようになって、商人たちの数もめっきり減ってしまったからね」
そこまで聞いて、ノアもレオンが村で倒れていた理由がわかった。
商人や旅人が少なくなって、必要な物資が購入できなくなっていたのだ。
「おかげで様で、こうやって食料の買い付けもままならなくなって行き倒れる始末だ。いや、本当に昔とは時代が変わったものだと実感するよ」
一昔前ならば、道行く行商人相手に食料と交換できたものだったが、現在は状況がまるで違っている。こんな田舎まで何度も足繁く通う商人なんて大しておらず、それをあてにしていたレオンは、途中で食料が尽きてしまったのだ。
「あれ? 昔はって、レオンさんは旅をして長いんですか?」
「ん? そうだね。どれくらいになるかな。何せかれこれ気ままな旅暮らしをしているから、もう数えるのも面倒になってきたからね」
ということは——レオンさんは、空想士だったんですか?
その言葉が喉まで出かけたが、ギリギリで飲み込む。
会って間もないこともあるが、レオンが空想士だとわかってもノアにはどうすることもできないからだ。
ならば一人の旅人として歓迎をしよう。
それがこの村の習わしであると静かに心の中で決めた。
「でも、何か旅って憧れちゃいます。昔は私も王国に住んでいたんですけど、戦争が始まる前にこっちに移ったものですから」
「旅は良いものだよ! と、無責任に言いたくはないけど、世の中の楽しいこと、美しいもの、悲しいこと、汚いもの、自分が見たいものだけ見られるとは限らないのが旅の醍醐味だと、私は思うよ」
「えと……、大変ってことですか?」
「経験っていうことだよ」
たった一言。
経験と言ったレオンの薄い笑みは、旅の労苦を経験した老父のようでもあるし、まだ見ぬ未開の地へ挑む開拓者のようにも見えた。
「何かを感じるということは、空想を生み出す時の源泉になり、そして、経験というのは空想に深みを与えてくれる半面、新しい空想を生み出しづらい欠点もあるけどね」
経験は新しい空想を生み出しづらい。
なるほど、そういう意味ではノアは自身の経験が足りない。
だから、自分の物語は未熟なのだろうと思ったが、
「そういう点では、ノアさんの空想には若々しい力強さがひしひしと感じられたよ」
「あ、ありがとうございますっ!」
レオンがそう言ってくれて、素直に嬉しいと思た。
「そういえば、親御さんはいつぐらいに帰ってこられるのかな? 娘さんに命を助けられたから、挨拶の一つでもしたいのだけれど」
ドキリ。
先ほどまで朗らかに笑っていた時と違い、ノアの顔には苦笑が貼り付けられた。
「あ、えーと……。両親は、先の戦争で亡くなりました」
あはは、と場を和ますように誤魔化したら笑いを聞いて、レオンは悪いことを聞いてしまったというように額に手を当てる。
そして、レオンは息を一つ吐いて言う。
「そうだったのかい。あれは……ひどい出来事だったからね」
「で、でも、私は落ち込みはしたんですけど、へっちゃらなんです! 村の皆がいてくれましたし、二人からは両腕から溢れるぐらいの愛情をもらいましたから!」
嘘ではない。
両親が他界したのは、数年以上も前のことであり、村の皆の助けもあって立ち直ることもできたのだから。
しかし、そんなことを知らないレオンが親のことを尋ねてくるのは当然で、変に気に病んでほしくはなかった。
「うん。わかるよ。君がどういう生き方をしてきたのか——君の空想を見ればわかる」
彼の空色の目が、優しくノアを包み、
「そうでなければ、こんな温かい空想をすることはできないからね」
そっとレオンが紡ぐ言葉が、ノアの心に毛布をかけてくれる。
——なんで、何でこの人はこんなにも誤解なくわかってくれるのでしょうか?
出会ってそんな時間も経っていないのに、彼の一言一言がすっと心に入る。
「種は、新たな花を紡ぎ、そして、また新しい種をまいて、どこだろうと強く強く太陽に向かって咲き続ける。これは君の『向日葵と風の旅』にあった一説だね。起伏のない平坦なストーリー。だけど、読むものに新しい力を湧かせてくれる希望に満ちている」
ノアの目の前の風景が変わる。
そうだ、『向日葵と風の旅』を生み出したのは両親が死んで間もない時で、悲しくて下を向いていた頃だ。それをギルが無理やり家から引っ張り出して、夏に咲く向日葵畑に連れ出して、そして、上を向いた時にできた空想だ。
夏の暑く突き刺さる日差しが眩しくて、泣きそうなほど一面の黄金色がきれいで。父や母が生きていた時に、一緒にそこでお弁当を食べたのを思い出して作った空想。
その風景が、目を閉じても広がって見える。
そして、ポンとレオンの手がノアの頭を撫でた。
「空想は嘘をつかない。だから、君がこうして今も空想を生み出すことは、とても尊いことなのだと、私は思うよ。今までいっぱいがんばってきたのだね」
微笑んでくれたレオンのその姿は、兄のような、父のような、そんな雰囲気が醸し出され、ふっとノアを表情をほころばす。
「クスッ。レオンさんは……すごいですね。何でもお見通しみたいな感じがして。それも、経験で身についたことなのですか?」
「おっと。また悪い癖が出てしまったな。昔から、私はわかったようなことを言うから、気をつけるべきだと注意されていたのだけど……気に障ったかな?」
そんなことはない。
ノアは首をぶんぶんと横に振る。
「いえ、ありがとうございます。私元気が出ました!」
「それならば良かった」
ノアは肩の力が一気に抜けた気がした。
励まされたのではないけれど、それでも自分の中で何かが変わったのがわかる。自信なのかもしれないし、そうでないのかもしれない。
だけど、確実に、はっきりとわかることがあった。
空想は——素晴らしいものなのだと。
「いいお話を聞かせてもらったお礼に、お茶のおかわりはいかがですか?」
「おやおや。それじゃあ、いただきます」
「はい!」
椅子から立ち、台所に向かってお湯が残っているポッドをとって、紅茶の葉を変えて新たにお湯を注ぎ始めた。そろそろ夕餉の時間でもあるし、ギルや子供たちを招待して簡単なパーティを催すのも楽しいだろうと思いつつ、そういえばと、レオンがどうしてこの村に来たのか聞いていなかったのを思い出した。
「あ、そういえば聞きそびれたんですけど、レオンさんはどうして——」
尋ねようとした瞬間——「バン!」っと、勢いよくノアの家の木造の扉が勢いよく開かれた。
大きな音にびっくりし、どうしたのかと思って玄関を見ると、そこには全力でここまで走ってきたのだろう、大きく呼吸を繰り返すアルアがいた。
すると、アルアは今にも泣き出しそうな顔をしながら、ノアの服を強く掴んだ。
「ノア姉ちゃん大変だよ! ギル兄がっ! ギル兄がっ……!」
「ど、どうしたの、アルア!? そんなに急いだりして!」
尋常じゃない様子のアルアに、ノアはただらないことが起きているのを感じる。
落ち着くのも束の間、アルアは息切れした顔を上げ、最悪の言葉をノアに告げる。
「《枯渇病》にかかった!」
何を言っているのかわからなかった。わかりたくなかった。
知りたくもない、聞きたくもない。
だから、ただ戸惑いの声ぐらいしか上げられなかった。
「えっ……」
いつだって現実は見たくもないものを見せつけ、そして奪っていく。
温かい空想をいくらしても、現実は厳しさだけを突きつけてくる。
現実は、両親だけでなく、大切な幼馴染さえ——奪っていくのだ。