第33話 諏訪昇
「わしを押さえて、これからどうするつもりや?」
諏訪昇の問いに、大河は掴んでいた腕の力をわずかに緩めた。ただし、逃げられないよう身体は壁際に押さえたままだ。
「諏訪さん。俺は、この抗争を終わらせに来たんです」
「抗争を終わらせるやと?」
「はい。これ以上、うちの仲間に怪我人を出したくありませんから」
諏訪は鼻で笑った。
「わし一人を押さえたところで、蓮組が止まると思うとるんか? うちには九十人近い組員がおる。わしがおらんでも、若頭がおるんやぞ」
「ええ、分かってます。せやから、諏訪さんにお願いがあるんです」
「お願い?」
「極道を引退してください」
諏訪の顔から笑みが消えた。
「……何やと?」
「諏訪さんが引退すれば、この抗争を終わらせるきっかけになります」
「ふざけたこと抜かすな!」
諏訪が身体を捻り、大河の腕を振りほどこうとする。だが、壁際に押さえられた状態では思うように動けなかった。
「わしが何年かけて蓮組をここまで大きくしたと思うとる! 貴様みたいな若造に言われて、はいそうですかと辞められるか!」
「そうですか」
大河はそれ以上、説得を続けなかった。
諏訪を押さえていた腕を離し、数歩後ろへ下がった。
「……何の真似や?」
自由になった諏訪は乱れた服を直しながら大河を睨んだ。護衛たちが動こうとしたが、大河は彼らに目も向けなかった。
その視線は、部屋の壁に飾られていた一本のドスに向けられていた。
「諏訪さん、これ、お借りします」
「おい、勝手に触るな!」
制止する声を無視し、大河はドスを手に取った。
鞘から刃を抜く動きにためらいはなかった。刃先を確かめるように一度だけ目を落とすと、静かに諏訪へ向き直る。
「何をするつもりや……」
諏訪が一歩後ずさった。
大河は答えず、相手の顔を見据えた。
「極道を辞めるか、ここで死ぬか。選べ」
先ほどまでの関西弁は消えていた。
声を荒らげたわけでも、刃物を振り回したわけでもない。それなのに、諏訪は次の言葉をすぐには返せなかった。
「……わしを脅すつもりか」
「選べと言った」
大河の表情は変わらない。
諏訪は護衛たちへ目を向けたが、誰も動こうとしなかった。組長を助けるために踏み込めば、大河が何をするか分からない。
「こんなことして、ただで済むと思うなよ。わしに何かあったら、蓮組の連中が黙っとらんぞ」
「それで?」
「……何?」
「お前の組員が何をしようと、今ここにおるお前を助けられるわけではない」
諏訪の喉が小さく動いた。
廊下では、健太郎が額の血を袖で拭っていた。隣に立つ真二も、普段とはまるで違う大河の様子に目を奪われている。
「……大河さん?」
真二が呼びかけても、大河は振り返らなかった。
諏訪は目の前の刃と大河の顔を交互に見た。何とか言い返そうと口を開くものの、声が出てこない。
長年守ってきた地位を捨てるなど、考えたこともなかった。だが、ここで意地を張り続けた先に何が待っているのか、諏訪には確かめる勇気がなかった。
「……ほんまに、辞めたらええんやな?」
「そうだ」
「わしが引退すると言えば、もう手は出さんのやな?」
大河は答えず、返事を待った。
諏訪は唇を噛み、床へ視線を落とした。護衛たちの前で屈する屈辱よりも、目の前の男から逃れたいという思いが勝っていた。
「……分かった。引退する」
ようやく絞り出した声は、ひどくかすれていた。
大河はしばらく諏訪を見つめていたが、やがてドスを鞘に収め、元の場所へ戻した。
「賢明な判断です、諏訪さん」
その声は、先ほどまでの穏やかな関西弁に戻っていた。
諏訪は返事をしなかった。
◇
「ところで、諏訪さん」
大河は携帯電話を取り出した。
「さっき、どうやってここを見つけたんか聞いてはりましたよね」
「……それがどうした」
「今から教えますわ」
大河が番号を呼び出し、電話をかけた。
数回の呼び出し音の後、相手が出た。大河は通話をスピーカーに切り替える。
『近藤か。どうなった?』
「西條さん、今回はほんまに助かりました」
その名前を聞いた途端、諏訪が顔を上げた。
「……西條?」
大河は口元に指を当て、諏訪に黙るよう促した。
「諏訪さんの居場所を教えてもろうたおかげです。あの情報がなかったら、見つけられませんでしたわ」
『何や、もう押さえたんか?』
「ええ。西條さんの教えてくれた場所に、ちゃんといてはりました」
『そらよかった。ほな、これで次は……』
「次の話をする前に、紹介したい人がおるんです」
『紹介? 誰や?』
「諏訪さんです。今、目の前にいてはります」
電話の向こうが静まり返った。
「しかも、さっきからずっと話を聞いてはりました」
『……おい、近藤。どういうことや』
大河は携帯電話を諏訪の方へ向けた。
「諏訪さん。西條さんに何か言うことありますか?」
「……西條」
諏訪の声は低く震えていた。
『く、組長……』
「お前が……お前が、わしの居場所を売ったんか」
『ちゃいます! これは、その……』
「今、自分で認めとったやないか!」
諏訪が怒鳴ると、電話の向こうから慌ただしい物音が聞こえた。
『組長、話を聞いてください!』
「黙れ! わしを裏切りよって!」
大河は諏訪の怒声を聞きながら、通話を終えた。
諏訪はなおも携帯電話を睨みつけていた。組長の居場所を知る者は限られていたが、その中に自分を売る人間がいるとは考えていなかった。
「……貴様、最初から西條と通じとったんか」
「ええ。諏訪さんは、優秀な部下を持ってはりますね」
諏訪は拳を握り締めた。
◇
大河が西條渡と接触したのは、抗争が始まって間もない頃だった。
人目を避けて会った西條は、最初こそ警戒していたものの、大河が諏訪の引退について話し始めると態度を変えた。
「諏訪の親父を引退させるやと?」
「ええ。これ以上抗争を続けても、お互い損するだけですから」
「簡単に言うな。親父が素直に辞めると思うんか?」
「そこは俺が何とかします。ただ、居場所が分からんことには話もできません」
西條は腕を組み、しばらく考え込んだ。
「……仮に親父が引退したら、蓮組はどうなる?」
「若頭の西條さんがおられるでしょう」
その言葉に、西條の目がわずかに動いた。
「ほな、俺が組をまとめることになるんか」
「諏訪さんが引退した後のことは、蓮組の皆さんが決めることです。俺が口を出せる立場やありません」
大河はそれ以上、何も言わなかった。
西條は黙っていたが、やがて椅子の背にもたれた。
「……親父の居場所が分かったら、連絡したる」
「助かります」
大河が頭を下げると、西條は満足そうに頷いた。
その後、諏訪が居場所を変えるたびに情報を集めていた西條から、ようやく確かな連絡が入った。
大河が車内で受けた電話は、その知らせだった。
◇
「さて、諏訪さん。もう一つお願いがあります」
大河の言葉に、諏訪は顔をしかめた。
「……まだ何かあるんか」
「組員の皆さんに、引退することを知らせてください」
「そんなもん、後でわしが……」
「今、お願いします。それと、西條さんのことも伝えてください」
「何やと?」
「組長の居場所を水仙組に教えたんが、若頭の西條渡やったと」
諏訪は歯を食いしばった。
「……組の恥を、わしの口から広めろ言うんか」
「西條さんが何もなかったように次の組長になったら、諏訪さんも納得できんでしょう」
諏訪は何も答えなかった。西條への怒りは収まっていなかったが、自分の引退を組員に知らせることにも抵抗があった。
「それから、もう一つ」
大河は続けた。
「水仙組は、蓮組の組員を受け入れる用意があります。これまでの役職や経験も、できる限り考慮する。そのことも伝えてください」
「……わしの組員を、そっちへ渡せ言うんか」
「残るかどうかは、本人らが決めることです。ただ、選べる道があると知らせたいんです」
「ふざけるな! わしに蓮組を潰す手伝いをさせる気か!」
諏訪が声を荒らげると、大河は壁に飾られたドスへ視線を向けた。
それだけで、諏訪の言葉が途切れた。
「……分かった。送ればええんやろ」
諏訪は机に置いてあった携帯電話を手に取った。
幹部たちの連絡先を呼び出し、文章を打ち始める。何度か指を止め、そのたびに大河の顔を見たが、要求が変わることはなかった。
やがて諏訪は、打ち終えた画面を大河に見せた。
そこには、自分が極道から引退すること、若頭の西條渡が居場所を水仙組へ漏らしていたこと、そして水仙組が蓮組員の加入を受け入れ、従来の役職も可能な限り考慮するという申し出が記されていた。
「これでええんか」
「はい。送ってください」
諏訪はしばらく画面を見つめた。
送信ボタンに指を置いたまま動かない。だが、顔を上げると大河が静かに待っていた。
諏訪は目を伏せ、ボタンを押した。
送信完了の表示が出る。
「……これで満足か」
「ありがとうございます」
大河は軽く頭を下げた。
◇
蓮組の幹部の一人が、そのメールを受け取ったのは、組員たちと今後の配置を相談している最中だった。
「……何や、これ」
画面を読み進めるうち、男の表情が険しくなる。
「どうしたんです?」
「組長からや。引退する言うとる」
「はあ? 何の冗談ですか」
「冗談ちゃう。西條の兄貴が組長の居場所を水仙組に教えたとも書いてある」
周囲の組員たちが一斉に顔を上げた。
「そんなアホな話あるかい!」
「組長に確認してください!」
幹部は諏訪へ電話をかけようとしたが、途中で手を止めた。代わりに西條の番号を表示させたものの、そこでも指が止まる。
「……まず、ほかの幹部にも確認する」
別の場所でも、同じメールを受け取った組員たちが騒ぎ始めていた。
組長の引退を信じられない者もいれば、西條への怒りを口にする者もいる。水仙組が組員を受け入れるという一文を読み返し、黙り込む者もいた。
情報は転送や電話を通じて広がっていったが、誰も次に何をすべきか決められずにいた。
◇
「大河さん、これで終わりですか?」
建物を出たところで、真二が尋ねた。
「まだや。諏訪が引退しただけで、蓮組がなくなるわけちゃうからな」
大河は健太郎の額に目を向けた。
「健太郎、その傷、大丈夫か?」
「……はい。血は止まってます」
「無理すんなよ。戻ったらちゃんと診てもらえ」
真二も肩を回しながら、同行した組員の一人を支えていた。
「大河さんこそ、頬、大丈夫ですか?」
「これぐらい平気や。それより、みんなよう頑張ってくれた。ありがとうな」
大河がそう言うと、真二は少し照れたように笑った。
しかし、すぐに表情を改める。
「……それにしても、さっきの大河さん、ほんま怖かったですわ」
「そうか?」
「そうかって……諏訪の組長、完全に震えとったじゃないですか」
大河は曖昧に笑い、車へ向かった。
蓮組にはまだ九十人近い組員がおり、縄張りも残っている。組長を引退させたからといって、抗争が終わったわけではない。
だが、諏訪が自ら送った知らせは、すでに組員たちの間へ広がり始めていた。
「ほな、戻ろか。親父に報告せなあかん」
大河が車に乗り込むと、仲間たちも後に続いた。
車が走り出す。
その頃、蓮組では、組長の引退と若頭の裏切りをめぐって、幹部たちの電話が鳴り続けていた。




