【暴食の章】未踏の理由
王都を出てから三日。
舗装された街道はいつの間にか消え、馬車の車輪は土を噛むようになっていた。
背後を振り返れば、食都の影はもう見えない。
代わりに広がるのは、緩やかな丘陵と、どこまでも続く原野だ。
「……静かすぎるな」
サミエムが呟いた。
確かに、人の気配が薄い。
交易路として完全に捨てられているわけではないが、往来は極端に少ない。
感情の色を探る。
遠くに点在する人影から滲むのは、
警戒、諦観、そして――避けるような感情。
(この道、嫌われている)
理由はまだ分からない。
だが、意図的に使われていない道だ。
「アルシャルノ山に近づいてる」
ヘリオが地図を畳みながら言った。
「……山自体は、普通の地形だ。
少なくとも記録上はな」
「記録上、ね」
サミエムが皮肉げに笑う。
「未踏って話だったな。
それで“普通”は無いだろ」
ヘリオは否定しなかった。
夕方、僕たちは小さな村に辿り着いた。
山の麓に張り付くように建てられた集落だ。
家の数は少ない。
畑はあるが、耕作は最低限。
生き延びるためだけの村。
宿代わりの酒場に入った瞬間、
空気が変わった。
視線が集まる。
警戒と、怯えと、――嫌悪。
旅人に向けられるものとは、明らかに違う。
(……山だ)
感情の色が、こちらではなく、背後に向いている。
アルシャルノ山の方角だ。
「アルシャルノ山に用がある」
ヘリオが、敢えてはっきり言った。
一瞬、酒場が静まり返る。
次の瞬間、
年老いた男が低く笑った。
「……またか」
嘲りでも、怒りでもない。
ただ、疲れ切った声だった。
「何度目だろうな。
“踏破する”って連中を見るのは」
「生きて戻った者は?」
僕が聞く。
男は、答えなかった。
代わりに、別の女が言った。
「戻った者はいるよ」
希望がよぎる。
だが、続く言葉で、それは砕けた。
「……話せる形で、戻った者はいない」
沈黙。
酒場の空気が、重く沈む。
「原因は?」
サミエムが問う。
誰も、すぐには答えなかった。
やがて、子供を抱いた女が、ぽつりと呟いた。
「金色の熊」
「……熊?」
「熊の形をしてるだけだよ」
女は、震える手で胸元を押さえた。
「毛並みが、金色に光ってる。
夜でも、はっきり見えるくらい」
感情を見る。
――恐怖。
だが、それ以上に濃いのは、諦め。
「討伐隊は、何度も来た」
最初の老人が続ける。
「帝国の兵も、傭兵も、冒険者もだ。
数は関係なかった」
「強い、ってだけじゃないな」
ヘリオが言う。
「……ああ」
老人は頷いた。
「傷を負わない。
逃げもしない。
ただ、山に入った者を“消す”」
消す。
殺す、ではない。
言葉を選んでいる。
「死体は?」
「見つからない」
その瞬間、背筋に冷たいものが走った。
(……魂が、残らない?)
僕の職業が、脳裏をよぎる。
「だから未踏なんだ」
サミエムが低く言った。
「誰も、越えられない」
老人は、首を横に振った。
「違う」
「?」
「越えられないんじゃない。
越える理由が、見つからない」
その言葉は、妙に重かった。
「命を賭けてまで、
あの山に入る意味がない」
酒場の誰もが、同じ色をしていた。
生き延びるために、
諦めることを選んだ人間の色だ。
夜、宿の部屋で、僕は一人考えていた。
未踏。
金色の熊。
消える討伐隊。
そして――
マモンの、あの笑み。
(価値を示せ、か)
理解した。
この山は、試練ではない。
ふるいだ。
命を賭けられる者だけが、
次へ進める。
窓の外。
闇の向こうに、アルシャルノ山は黒く佇んでいる。
まだ、何も知らない。
だが、確かに感じる。
あの山には、
この世界の何かが、歪んだ形で眠っている。
それが何であれ――
明日、僕たちは足を踏み入れる。




