【序章】粛清
夜は、静かすぎるほど静かだった。
アレクシエル家の屋敷は、いつもと変わらぬ佇まいを保っている。
灯りも、巡回も、警備の配置も。
――変わっていないように見える。
だが、感情を見るまでもなく分かった。
空気が、違う。
人の感情が、削ぎ落とされている。
(……来た)
嫌な予感は、外れない。
最初の悲鳴は、音にならなかった。
正確には、音になる前に潰された。
屋敷の奥。
使用人の詰所。
感情が一つ、急激に弾け、そして消える。
次々に。
抵抗はない。
警告もない。
ただ、処理されていく。
「零!」
アレクシエルが僕の腕を掴む。
彼の感情は、冷静だ。
だが、底に怒りがある。
「分かってる……」
逃げるべきだ。
理屈では分かっている。
だが――
屋敷の中心で、二つの感情が強く灯った。
ゴルディム。
サミエム。
「行くぞ」
止める言葉は、出なかった。
廊下を駆ける。
血の匂いが、空気に混じる。
広間に辿り着いた時、既に勝負はついていた。
ゴルディムは、立っていた。
剣を持っている。
だが、構えてはいない。
その前に、黒装束の者たち。
数は多くない。
だが、質が違う。
「……来たか」
ゴルディムは、こちらを見て、静かに言った。
恐怖はない。
覚悟だけが、そこにあった。
「父上……!」
サミエムの声は、震えている。
彼は、剣を握れていなかった。
選ばれた者の姿ではない。
ただの、怯えた息子だ。
「動くな」
黒装束の一人が告げる。
声に、感情はない。
命令を実行するためだけの器。
ゴルディムは、ふっと息を吐いた。
「……あいつが生きていればな」
誰にともなく呟く。
亡き妻の面影が、感情の奥に浮かぶ。
厳格で、頑なで、
だが、子供たちの自由を誰よりも願っていた女。
「私が間違っていた」
ゴルディムは、剣を床に置いた。
「家を守ることと、
縛ることを、取り違えていた」
その瞬間。
術式が、発動した。
音もなく。
光もなく。
ただ、結果だけが現れる。
ゴルディムの胸が、貫かれていた。
感情が、消える。
サミエムが、声にならない叫びを上げた。
「な……なんで……」
涙が溢れる。
「俺、選ばれたんだろ……?」
問いは、誰にも向けられていない。
答えは、最初から決まっている。
黒装束が、サミエムに近づく。
彼は、逃げなかった。
逃げ方を、知らなかった。
「……嫌だ……」
震える声。
「俺、ちゃんと……」
最後まで、言葉にはならなかった。
刃が振るわれる。
感情が、弾けて、消える。
二つ。
父と兄。
それだけで、十分だった。
空気が、凍りつく。
その場に、クラウソラスはいない。
だが――
確かに、彼の意思だけが残っていた。
見せしめ。
報復。
そして、宣告。
――次は、お前だ。
「……行くぞ」
アレクシエルが、低く言う。
僕は、何も言えなかった。
感情を見る力が、今ほど残酷に思えたことはない。
怒りも、悲しみも、後悔も。
すべてが、鮮やかすぎる。
屋敷を後にする時、僕は理解した。
縁談を壊した代償は、
命だった。
そして。
クラウソラスという男は、
必ず殺す。
それだけが、胸に残った。




