第四の季節…水 (後編)
雪が音を呑み込んでいるからではない。
この部屋が静かなのだ。
サヴリナはアルメリアにとって教師と言うよりも父親のような存在で、それも厳格な父親であったため、幼い頃はそれなりに好いていたが、学年が上がれば上がっただけ煩わしい障害になってきていた。
黒髪は肩のあたりまで真っ直ぐに伸ばされている。
年齢は容姿を見る限りでは判断付かないが、おそらく、アファンと同じくらいだろう。
水の民の多くがそうであるように、涼やかな顔立ちをしている。
そして、表情は常に静かだ。
おおよそ水の民は、感情を隠すことを得意とする。
サヴリナはまさにその典型。
いつだってアルメリアはサヴリナの思いを推し測ろうとして断念する。
この時も冷ややかな暗闇の瞳の奥を覗き見ようとして、アルメリアは心の底でため息をついた。
アルメリアが彼の部屋に入ってきてから長い間を作った末に、彼は抑揚のない声で言った。
「トムナフーリ学長から許可が出た。お前の、――いや、お前たちの願いは叶えられたというわけだ」
「ありがとうございます」
「だが、アルメリア。心しておくがいい。この学園を卒業すれば、彼は王位に着く。王宮に上がった後もこの学園で彼に接してきたように接すれば、お前が辛い思いをする」
「分かっています」
「永遠に続く時間などない」
「はい」
「お前は情が深いから……」
「心配して下さっているのですか?」
サヴリナの瞳が大きく開かれる。
そうして、ふっと細められた。
「お前は賢い学生だが、出来の悪い子どもだからな」
「今まで何度もあれをするな、あれはやってはいけない、と言われ続けてきました」
「それはさぞかし不満だったことだろう?」
「ええ。それに窮屈でした」
そうか、と呟くように静かに響く。
アルメリアはくすくす笑った。
「――でも、私は幸せでした」
サウィン祭の準備が本格的に始まっている。
直に自分は学園を卒業する。
卒業した者は、めったなことが起こらない限り、学園に戻ることはない。
親または兄姉のような存在であった学園の教師たちとも二度と会うことはないのだ。
そう思うと、別れの近いこの時期の一瞬一瞬はとても大切なもののように思えてくる。
「先生は私にとって大きくて高い壁でした。遠くにいる時は何にも感じなかったんですけど、歩み寄って行くうちにその大きさに気付かされて。――結局、壁を越えられそうにないことが、この学園における唯一の心残りです」
はははっ、と珍しくサヴリナは声を立てて笑った。
「何を言っている。お前はわたしを越えたではないか。お前の望み、そして、意思を貫いた。最後の最後でわたしに逆らい、そうして、逆らい抜いたではないか」
「怒っているのではないのですか?」
「喜んでいるのだよ」
言って、サヴリナはアルメリアの肩に手を置く。
「行きなさい。直に卒業だが、まだお前のやるべきことはこの学園に残っているはずだ」
とん、と背中を押され、アルメリアはサヴリナの部屋を立ち去った。
▽▲
サウィン寮のパーティー会場。
ここの舞台は他の寮とは少し造りが異なる。
舞台の背に下がった幕を上げればガラス張りの壁となっているのだ。
ガラスの向こうはサウィン寮の中庭である。
雪に覆われた中庭は、かろうじて中央の噴水だけが形を表し、後は白の平面と化している。
劇の終盤、ウンディーネの王女が両腕を掲げると、幕が上がり、ガラス張りの壁が観客に露わになる。
パッと中庭がライトアップされ、その光の中をキラキラと何かが舞う。
――氷霧だ。
それは外灯の光に受けて、ダイヤモンドダストのように輝く。
歓声が沸いた。
この演出をいかにできるかで、水のプリフェクトの力量を知れた。
アルメリアの演出は見事に決まり、ウンディーネの王女がノームの王子を海に引きずり込むシーンは多くの観客の心を切なく締め付けた。
▽▲
祭事用の正装に着替えたアルメリアが再び会場に戻ってくると、すでに会場はダンスタイムとなっていた。
マグエヴァがウークベアと踊っているのを見つけると、アルメリアはそっと壁際に寄った。
「今夜の主役が壁の花じゃあ、しらけるだろうが」
不意に声がして振り返ると、プリフェクトの責務として着飾ったルーグがそこに立っていた。
その隣には同様に着飾ったブロア。
アルメリアのガウンは女性用でドレスに近い作りをしているが、ブロアが身に着けているガウンは男性用であり、マントのような作りをしている。
ふわりと青いガウンが空を優雅に舞った。
アルメリアが気付くと、ブロアがアルメリアに向かって膝を折っていた。
「一曲、お願いできますか?」
紳士のような動作で差し出された手。
アルメリアは息を呑んだ。
ブロアの手を凝視したまま身体を固めていると、ブロアは顔を上げて、ニカッと笑った。
立ち上がり、強引にアルメリアの手を取ると、中央に向かって駆けた。
「待って、ブロア!」
「やっぱり主役はど真ん中で踊らないとな」
「あなた酔っているの?」
「まさか」
曲が変わり、丁度良いと言ってブロアはステップを踏み出した。
慌ててアルメリアもそれに合わせる。
「さっきハルとも踊ったんだ」
「ハルと?」
「そう。男女逆転でね」
「ハルは怒らなかったの?」
「内心では相当……。でも、もう諦めているんじゃないかなぁ」
「今回もまたドレスなの?」
「よく似合っていて、可愛いよ」
ほら、とブロアはステップの流れを乱さず器用に指差した。
青いドレスを着たハルがそこにいる。
「本当によく似合っているわね。……可哀想」
結局一年間ドレスを貫いたことになる。
曲が終わり、互いに礼を取ると、ブロアはその低くした姿勢のまま再びアルメリアの手を取った。
そっとその手の甲に唇を当てられた。
「また、あなたのこと好きになってしまうわ」
「嫌いになるつもり?」
「嫌いになれるわけがないわね」
微笑んで、ブロアはアルメリアの手を引き、ルーグの元へと足を向けた。
いつの間にか、ルーグの旁らにロクマリアが立っている。
彼らに歩み寄りながら、アルメリアはロクマリアに向かって小首を傾げた。
「そろそろパーティーを抜け出す相談でもしているのかしら?」
「大当たり、と拍手喝采してやりたいところだが、そういう気分ではないんだ。悪いな」
「嫌な予感でも?」
「ああ。できるだけ人気のない場所に移動したいな」
「――でも、学園は大勢の王宮騎士に守られているのよ? それに今は水の季節だわ。火の民である彼には身動きの取りにくい時期だと思うのだけど?」
「明日は卒業式だ。卒業したらすぐにでもロクマリアは王宮に入る。そうなってしまえば、あいつにとっては最後。ロクマリアに手出しできなくなる」
「焦っているはずだ」
「もし俺があいつなら、こうするな」
ルーグが腕組みを外して、人差し指を立てた。
「祭りの騒ぎに引き寄せられたと見せかけてオークを放ち、王宮騎士を呼び寄せる。一時的に手薄になった場所から学園内に侵入。そうして、お前を自らの手で消す」
言葉の最後で、ルーグは人差し指をロクマリアの胸に押し当てた。
ロクマリアは頷いた。
「俺もそう思う」
「なら、人気がなくて、尚かつ空から目立つ場所だな」
「空から?」
「前に現れた時、あいつは翼を生やしたオークの背に乗っていた。今回も同じように空から現れるはずだ」
空を自由にできるのは風の民だけだ。
ところが、風の民の多くは王宮遣いを望まず、故に、王宮騎士団において風の民は少数なのである。
王宮騎士の大半は空を飛べない。
――となれば、当然、空から来る。
「あそこがいいだろう」
「ああ、あそこか」
ロクマリアの言葉にルーグが頷く。
ブロアもわずかに考えた後に賛同した。
「いつだったか、そこで花火を上げたな」
「アルメリアが俺に大雨を降らせた」
「あなたが悪いのよ、ルーグ」
「いや、そこまでは記憶にないな」
視線を逸らし、とぼける。
ちゃんと覚えている証拠だ。
アルメリアは肩を竦めた。
そうしてから、ロクマリアに振り返る。
彼は苦笑して、行こう、と短く言い放った。
▽▲
ハラハラと舞っていた雪を、アルメリアは片手を空に掲げて、止めた。
ルーグ曰く、寒さでサラマンダーが縮こまっているらしい。
彼のガウンの下にウジャウジャいるらしいのだが、火の民ではないアルメリアにはその姿を見ることは出来ない。
ブロアのシルフたちも、ロクマリアのノームも、寒さを得意とはしていない。
雪を止めさせろというルーグの要求を退ける気にはなれなかった。
学園の校舎から南に離れたところに小高い丘がある。
ベルティネ祭ではこの丘から花火を打ち上げる。
数年前の夏、幼いルーグがそうしたように。
「よし、ここなら空から丸見えだ」
「いつでも来いって感じだな」
まるで祭りのイベントを待ち望んでいるかのような二人に、アルメリアは腰に両手を当て、ロクマリアは眉を寄せた。
その時だ。
遠くで奇声が響いた。
――オークだ。
布を引き裂いたような奇妙な叫び声。
そうして立ち上った火柱。
王宮騎士がオークと戦っているのだと分かる。
王宮騎士の割合を言えば、一番多いのは火の民だ。
水の季節であるこの時期の戦いは、彼らにとって困難を伴うものとなっていることだろう。
ハッとして四人は同時に空を仰いだ。
黒い大きな影。
ゾッとするような気配。
アルメリアは思わず拳を胸元に押し付けた。
「デュース!」
寒々として夜空に響くロクマリアの声。
彼の頭上を数度大きく旋回して、翼を生やしたオークが地面に降り立った。
その背には、錆色の髪とシグナルレッドの瞳を持った少年。
ロクマリアの従兄。
デュースだ。
「――お前だけは許さない」
曇ったような暗い声だ。
月明かりのせいか、顔色がひどく悪い。
恐ろしくさえ見える。
「デュース、もう終わりにしよう。こんなこと……」
「ああ。終わりにするとも。ロクマリア、お前を殺してな」
すっと剣を鞘から抜くデュース。
ロクマリアの横で、ルーグも剣の柄に手を掛けた。
「お前など認めるか! お前に玉座をくれてやるものかーっ!」
デュースが地面を蹴ってロクマリアに突進してくる。
ルーグはロクマリアの躰を押しやり、デュースと剣を交える。
キィーン、と鋭い音が響いた。
ちっ、と舌打ちが鳴る。
オークが翼を羽ばたかせた。
風が刃となってルーグを襲った。
すかさずブロアは片手を左から右へと空で薙ぎ払った。
風がぶつかり合い、相殺する。
「凍れ!」
アルメリアの声が低く響いた。
オークの悲鳴が上がる。
みるみるうちにその躯は凍り付いていく。
パァン。
銃声。
そして、氷が砕け散る音が辺り一帯にキラキラと響いた。
「くそっ!」
デュースはルーグを剣で押しやると、四人から距離を取った。
「許さない。許さない。お前だけは絶対に。殺してやる!」
「デュース!」
「お前さえいなければ俺が王だ。――いや、お前より俺の方がずっと優れている。ディアントスがお前を選んだなど、何かの間違いだ。俺が王なんだ!」
様子が可笑しい。
デュースはガクリと顔を俯かせると、ガタガタと躰を震えさせた。
錆色の髪が逆立つ。
丸めた背中が異様に盛り上がり、あり得ない形に変形していく。
「いったい何が……」
ガツン、とルーグの剣が音を立てて地面に突き刺さる。
四人とも愕然としてデュースの躰の変化を見守っていた。
――いや、違う。
あまりのことに、身動きが取れなくなっていたのだ。
「オークに変化している!」
誰よりも早く我に返ったのは、アルメリアだった。
耳まで裂けたデュースの口の毒々しい赤を見て、アルメリアは震えた。
背中に現れた大きな瘤。
倍以上に膨れ上がった躰から伸びた六本の腕は、異様に長く浅黒い。
オークは上体を前に倒し、六本の腕と二本足で蜘蛛のような姿勢を取った。
見開かれたシグナルレッドの瞳。
光に反射しているのではなく、自ら輝いて、不気味な光を放っている。
ぐぐぐぐ……と、低い唸り声が地響きのように響く。
「炎よ!」
ルーグが右手を振り降ろした。
だが、炎はオークに火傷一つ負わせられない。
「切り裂け!」
ブロアの風が刃となってオークを襲う。
だが、これもオークの躰に届く前に、何かに弾かれて、消えた。
――何か。
その正体はすぐに露わになった。
暗く深い闇だ。
オークの躰を包むようにそれはうねりを上げている。
そして、次の瞬間。
触角のように、太く長い縄となり、ロクマリアに向かってきた。
ルーグが剣を手にそれを薙ぎ払う。
ブロアも風で、アルメリアも氷で刃を作り、それを裂こうとした。
だが、それは実体のない闇。
どうすることもできなかった。
「ロクマリア!」
ついにデュースの闇はロクマリアを捉えた。
両腕の自由を奪い、両足の動きを止め、ロクマリアの首をじわりじわりと締め上げていく。
「死ね!」
腹の底に響くような声。
それは、憎悪の塊。
「くっ」
苦しげな響きがロクマリアの口から漏れる。
すると、不意に眩しい光がロクマリアの躰を包み込んだ。
彼の右手に刻まれたディアントスが輝いている。
すっと逃げるように闇の触角がロクマリアから離れた。
ロクマリアは首元を手で押さえ、驚いたように辺りを見回した。
「ウィスプ(光の精霊)だ」
えっ、とアルメリアたちも辺りを見回す。
だが、眩しいばかりでそれらしい姿は見えない。
ロクマリアだけが見えているようだ。
彼を愛するウィスプたちの姿が。
「光よ、哀れな存在を導き給え」
ウィスプたちに教えられるまま、ロクマリアはディアントスをオークに向けて掲げた。
すると、オークの背後にオークの闇より更に深い闇が生まれる。
アルメリアはゾッとして両腕で己を抱き締めた。
「何、あれ……?」
「シェイド(闇の精霊)だ」
「シェイド? あの闇が?」
どうやらこちらもロクマリアだけにはその姿を見せているらしい。
暗黒はすっとオークに近寄り、あっという間にその躰を呑み込んでしまった。
跡形もない。
オークが最期に上げた悲鳴のみ、アルメリアの耳に残された。
「――終わったな」
呟いて、ルーグは遠くから駆け付けてくる王宮騎士たちの姿を見つける。
ロクマリアの肩を軽く叩くと、ルーグは先に立ち、丘を降り始めた。
ブロアもアルメリアも後に続く。
「オークになるくらいに欲しいものだとは、俺には思えない」
背中から追ってきた呟きに三人は振り返る。
「その通りさ。王位なんて、そんなもんさ。――けど、だからと言ってくれてやれるものでもない。デュースはお前を殺そうとした。だから俺たちは戦った。そうして、デュースはシェイドに喰われた。そういうことだ」
「ロクマリア、帰ろう。明日は卒業式だ」
「卒業式が終わったら、今度はあなたが私たちを王宮に連れて行ってくれる番ね」
「俺、王宮で何ができるんだろう?」
「私は騎士団にでも入ろうかなぁ。あちこち行けそうな気がするし」
「やっぱり私は女官かしら? でも、最初は下働きよね? 床磨きとか皿洗いをするのかしら?」
前を歩き出した三人に、ロクマリアは苦笑する。
「何を言っているんだ。三人とも俺の側にいるに決まっているだろう? ――とりあえず一緒に勉強だな」
「勉強?」
怪訝そうに振り返る三人。
ロクマリアは続けた。
「一から政を叩き込まれる俺に、お前たちは付き合うんだ」
「げっ」
顔を引きつらせるルーグ。
ブロアも眉間に皺を寄せている。
アルメリアだけは不敵に微笑んだ。
「あら、それ面白そうじゃない」
「どこがだよ?」
「四人で一緒にいられるところがよ」
ぐっとアルメリアが片手を空に掲げると、再びヒラリヒラリと雪が舞い始めた。
寒空を仰いで、ぽかんとルーグが言う。
「――確かにそれもいいかもしれないな」
▲▽
この時ばかりはプリフェクト以外の者もガウンを着る。
ただし、彼らはアカデミックガウンを着、プリフェクトのような派手さはない。
宝石をふんだんに縫いつけたガウンを身に纏ったプリフェクトたちは壇上にあり、それぞれ下級生の送辞に対する答辞を読み上げる。
そして、トムナフーリから手渡された卒業証書を片手に四人が壇上を降りると、厳かな式は終わった。
▲▽
分厚くて重たいガウンを脱ぎ捨てると、すっと心が軽くなった気がする。
学園の正門の前で、アルメリアは学友たちを見送った。
マグエヴァの身体を抱き締めて、どうか、と彼女の幸せを願う。
慕ってくれた下級生たちの手を一人一人握って、微笑む。
最後に振り返った時、サヴリナと視線が合った。
アルメリアは彼に向かって、ゆっくりと深く頭を下げた。
惜しまれながら正門を出ると、大きくて立派な馬車が止まっている。
その扉には黄金色のディアントスが描かれている。
馬車に繋がれた六頭の白い馬には大きな翼が生えており、額には一本の長い角が生えている。
初めて見るその生き物はユニコーン(一角獣)と呼ばれる生き物で、王家の者のみに仕える生き物だという。
馬車の前に立つ男がロクマリアに向かって優雅な礼を取った。
彼はロクマリアを迎えに来たのだ。
「この馬車に乗ったら、王宮に行けちゃうのね」
「行けちゃうな」
「なんだよ? 怖いのかよ、二人とも?」
「ブロアは怖くないの?」
聞き返されてブロアは、うーん、と低く唸った。
「怖いとは思わないな」
「俺は少し怖いかな。どうなるんだ、俺!……って感じでさ」
「私もよ。――でも」
「ああ、でもさ」
迎えの男と会話をしているロクマリアをちらりと見やって、ルーグは言葉を続けた。
「俺がいて、ブロアがいて、アルメリアがいて、おまけにロクマリアまでいれば、何だってどうにかなるさ」
遠く。
はるか遠くに薄ぼんやりと影を見せる王宮。
クリスタルパレス(水晶宮)という別名を持つその城は、今の自分たちにとって未知の世界だ。
背後には慣れ親しんだ学園がある。
――だが、後戻りはできない。
前へ。
前へ進むしかない。
会話を終えたロクマリアがゆっくりと振り返った。
アルメリアは微笑んで、ブロアとルーグと共に、彼の元へと歩み出した。
【第四の季節 おわり】
ボイスドラマは、↓こちら。
http://kaido.nomaki.jp/index3.html