第一の季節…風 (前編)
リールは風の季節に生まれ、青い髪を持って生まれた。
その深い青を愛したウンディーネ(水の精霊)は、彼女の誕生を見守るはずであったシルフ(風の精霊)を追い払い、水の守護をリールに与えた。
故にリールは風の民として生まれながらも風の力を持たない少女になってしまった。
水に囚われた娘。
人々はリールのことをそのように呼んだ。
▲▽
門が開く。
新入生たちが列を作って学園に入って来るのを、ブロアは塔の最上階から見下ろしていた。
(あの子だ)
一目で分かるのは髪の青さだけではない。
彼女だけが異質だからだ。
不快なものを見てしまったかのように、ブロアは眉を寄せた。
「そんな顔をするものではないよ」
「ですけどね、先生」
窓から離れ、ブロアが振り返ると、アファンは机に組んだ足を乗せて椅子に反っくり返っていた。
「哀れなリールはそれでも風の民だ」
「いっそ水の民になった方が幸せですよ」
「そうかも知れんが、髪が青い」
「その青がすべての元凶なのでしょう?」
ブロアは口元を歪めて笑った。
青髪は風の民の証。
風の季節に生を受ければ、青髪で生まれてくるものだからだ。
これは両親に影響されない。
火や土、水の民の両親から風の民の子どもが生まれるなど珍しくもなく、ごく普通にあることだ。
子どもは10歳まで親元で育ち、その後は学園に入る。
学園は全寮制であり、その間はもちろん、卒業後も二度と両親と暮らすことはない。
幼くして親子の縁を切る代わりに、同じ民である家族を学園で得る。
それは教師であり、先輩であり、友人や後輩。
ブロアも、もはや顔も朧げな父親よりもずっとアファンを本当の父親のように慕っている。
――が、今回の言い付けだけは頷けなかった。
「わたしの学生の中では君が一番優秀だよ」
「違いますね。優秀なのではなく、私が風の民にしては珍しく真面目だっていうことですよ」
「そう言えば直に新学期が始まるのだけど、わたしの学生たちは最初の授業に間に合いそうかな?」
「知りませんよ。みんな好き好きにあちらこちら世界中を飛び回っていますからね。――私だってプリフェクト(監督生)でなければ今頃フィレンツェの上空でした」
「フィレンツェは良い」
「ええ。良い街です。あの街を東風と共に駆け抜けるのが毎年の楽しみでした」
「それは悪かったね。けど、君にしか頼めないのだよ」
「でしょうね」
風の民は総じて自由気ままだ。
単独行動が主で、他人に合わせることを知らない。
故に、教師という職を選んだアファンは極めて希少な存在であり、プリフェクトなんてものを真面目にこなしているブロアも異端に近い。
「あの子がまさかわたしの担当学生になるなんて」
「面倒くさい?」
「そう。それだ。――他の先生たちはあの子を疎んで一番若輩のわたしに押し付けたのさ」
「そうして先生は私にあの子の世話を押し付けるのですね」
火の民の教師たちは手取り足取りの熱血指導をするのだと聞く。
比べて、風の民の教師たちは、基本放置である。
見よう見真似で勝手に学べ、と。
そういう態度を通す。
もっとも学生の方もサバけており、必要以上を教師に求めない。
ところが、風の守護を持たないリールに限ってはそういうわけにはいかないだろう。
彼女はブロアたちのように風に乗り、世界を駆け抜けることができないのだから。
「あと数年でイーラン先生が職を辞す。もうずいぶんな年だからね。その後釜には君を推薦するつもりだよ、ブロア」
「先生は私に一生この学園で生きろと言われるのですね」
「他にやりたい職でも?」
「花を散らす仕事なんてゴメンです」
それは少女たちの憧れの仕事である。
世界中を駆け回り、咲いた花を見つけては風で散らす。
散る瞬間の花が綺麗だと彼女たちは言うが、ブロアは彼女たちほど花に興味がなかった。
それにフローラ(花の精霊)たちの恨みを買うつもりもない。
アファンは椅子に腰を沈めたまま上目遣いにブロアを見やった。
「虫を運ぶ仕事は? 渡り鳥の誘導は?」
「興味ないですね」
「それならやはり教師だ。――その第一歩としてリールの世話を命じる」
ブロアは大きなため息をついた。
「数年後、私も先生のように、机に脚を乗せ、面倒な仕事はすべて学生に押し付けてやりますね」
▲▽
澄んだ空の色を綺麗に染めたような髪が近付いてくるのを見つけ、アルメリアはホッと胸をなで下ろした。
すらりと長身のブロアは遠くからでもよく目に付く。
風に靡く短髪は、彼女がシルフたちに愛されていることの証。
大きすぎない瞳や薄い唇、スッと通った鼻筋は、彼女の容貌を少年っぽくしている。
アルメリアの両隣から感嘆が漏れる。
空を駆けられない者たちにとって風の民――特にこの学園においては風のプリフェクトであるブロアは、彼女たちの憧れの対象だ。
ブロアの瑠璃色の瞳がアルメリアを見出すと、しなやかな身体は真っ直ぐに歩み寄ってきた。
「アルメリア、助かった」
「私も助かったわ」
二人の視線は同時に一人の新入生の方へと向けられた。
黒髪の少女たちに紛れた青髪の少女。
――リール。
「他の風の新入生たちはインボルグ寮に入ったわよ。私たちもこれからサウィン寮に向かうところ。それなのにあの子ときたら……。風の方々は薄情ね。誰一人としてあの子を振り返らなかったわ。さっさと寮の中に入っていったわよ?」
ブロアは肩を竦めた。
「私でもそうする」
共に駆けられる者ならば側に置いてもいい。
けれど、一々振り返らなければならないような者なら捨て去る。
ブロアにも十分理解できる風の民の考えだ。
「引き取ってくれるのよね?」
アルメリアの黒曜石の瞳がブロアを不安げに見上げる。
下級生の世話役も担うプリフェクトのブロアまでもがリールを見捨てれば、いったいリールはどうなってしまうのだろうか。
同じプリフェクトとしてアルメリアは、この哀れな新入生を案じていた。
しかも、リールはウンディーネの守護を受けているのだという。
水のプリフェクトの自分が彼女の面倒を見るべきなのではないだろうか。
薄情な風の民に彼女を任せるよりもよほどその方が安心できるというものだ。
だが、ブロアは爽やかに微笑んだ。
「もちろん引き取りに来たんだ。その子の面倒は私が見ることになった」
「――そう。それなら私が言うべきことはないわね」
リール、とアルメリアは幼い少女を呼んだ。
青髪は足首まで伸ばされている。
だが、ブロアの短髪のようにリールの髪が風に靡くことはない。
「リール、ブロアよ。風のプリフェクト。あなたの面倒を見てくれるわ」
「よろしく、リール」
ブロアは己の腰の高さほどしかない少女に向かって膝を折り、優雅に頭を下げた。
リールの頬が赤く染まる。
側で見守っていたアルメリアも思わず顔を赤らめてしまった。
そんな彼女たちに構わずブロアは立ち上がると、右腕に軽々とリールを抱き上げ、左手に彼女が家から持参してきたキャリーケースを持った。
「じゃあ、アルメリア」
短く言い放つと、ふと視線に気が付いて目を投じる。
水の新入生たちが食い入るようにブロアを見つめていた。
物言いたげなその瞳たちにブロアは柔らかく微笑んで、その場を去った。
▲▽
10歳で入学して、18歳で卒業する。
その8年間で、職とアミ(恋人)を得ることがこの学園の意義である。
最終学年であるブロアには未だにアミはいない。
職の方はどうやら教師に決まりそうであったが、それもアファンとの口約束のみで些か怪しい。
それでもブロアは焦ってはいない。
総じて風の民はたった一人のアミを見出すことを苦手とする質で、ブロアのようにアミのいない者も少なくないからだ。
インボルグ寮に向かう途中、校内から中庭に出たところでブロアは燃えるような赤髪の少年を見つけて破顔した。
「ルーグ!」
ブロアよりも拳二つ分ほど背が高い。
浅黒い肌に、引き締まった筋肉。
鋭い眼は周囲を威圧していたが、ブロアの姿を見つけた次の瞬間には驚くほど表情を和らげた。
「ブロア、お前を捜していたんだ」
「捜していた?」
訝しげに顔を顰めると、ルーグはブロアよりも更に深刻そうな表情をして口を開いた。
「お前のところのロンド。あいつがランシアとアミの契約を結んだんだ」
「知ってる。ずいぶん前のことだな」
「ところがその数日後、ロンドはアヴァロンとも契約を結んだ」
「ランシアとは解約を?」
「いや。つい昨日までランシアは信じていたのさ。ロンドは自分だけのアミだってな」
「二重契約は許されていない」
「そうだ。――そういった事情で、お前の許しさえあれば俺は可愛い後輩のランシアとアヴァロンのためにロンドをぶん殴りに行くところなんだが?」
「残念だな。ロンドなら今ごろグリンデルワルトを駆け回っている。捕まえたらお前の元へ連れて行けばいいのか?」
「ああ、そうしてくれ。できれば俺の怒りが持続している間に頼むな。――それにしても、スイスか。俺には縁がなさそうな場所だな」
ぼそりと零したルーグの言葉をブロアは聞き逃さなかった。
「志望は変わらないか」
「当たり前だ。――お前は?」
ブロアは苦笑した。
つられるようにルーグも笑みを口に浮かべた。
「俺たちの代は変わり者だとよ。誰一人として王宮勤めを希望しない」
「ロクマリアも? アルメリアも?」
プリフェクトを一年間勤め上げた学生は、将来の職として、宮使いという選択肢を選ぶことを許されている。
そして歴代のプリフェクト経験者の多くが王宮に上がっている。
ところが風のプリフェクトであるブロアは王宮に夢が抱けず、火のプリフェクトであるルーグは戦場を駆けることを望んでいた。
「ロクマリアは墓守になりたいんだと」
「墓守? ロクマリアらしい」
土の民は、極端に陽気である者と極端に無愛想な者が半々いるというが、土のプリフェクトであるロクマリアは後者の典型だった。
無口で、いつも冷めた表情をしている。
「アルメリアは?」
「彼女はフィレンツェで雨を降らせる職に就きたいらしい」
「フィレンツェで? ――ああ、フィレンツェは良いところだからな」
「莫迦。アルメリアはお前がフェレンツェを好きだってことを知っているのさ。年に一度必ずお前があの街を駆け抜けることも、な」
ブロアはぐっと息を詰まらせた。
アルメリアの気持ちは嬉しいが、彼女の想いに囚われたくはなかった。
「ブロア。俺のアミになることを断るのなら、せめてアルメリアのアミになってやってくれ。――あいつが可哀想だ」
「お? やっと私を諦めた?」
闇を振り払うように、わざと明るい笑みをブロアはルーグに向けた。
まさか、とルーグ。
「7年前から想いは変わらないさ。俺のアミになれよ、ブロア。共に戦場を駆け抜けようぜ」
ルーグは人間たちの起こす戦争を眺めるのを好んだ。
故に、争いを煽り、火をまき散らす職を志望している。
「風は火を助けるから? ――お前が私をアミにと望む理由はそれだけだからな。それに、私は争いごとが嫌いだ」
「面白いぜ?」
「不快だ」
とりつく島もないブロアにルーグは肩を竦めた。
「まあ、いい。まだ卒業までに一年ある。そのうち気が変わるさ」
「7年間変わらなかったのに?」
「変わる時は一瞬だ」
ところで、とルーグはインボルグ寮のある方角を見て言った。
「入学式が終わればすぐにインボルグ祭だ。インボルグ祭を取り仕切るのは風のプリフェクト。つまり、お前だ。――例年になくものすごい祭りを期待しているからな」
「まさか。期待されても困る。例年通り行うつもりだ。――例年通りの歌をアラウダ(歌姫)が唄い、例年通りの劇をやる」
「今年の風のアラウダは誰だ?」
「ハルだ。可哀想だが、劇では女装して貰う」
「少しはアレンジしたらどうだ?」
「面倒だ」
にべもない。
まさにブロアは風の民だ。
ルーグは苦笑した。
「確か、シルフの王女の美しさを妬んだウンディーネの女王が彼女を攫うって話だったよな?」
「そう。娘を攫われたシルフの王は、勇気あるシルフの青年に泣きつく。そうして青年は、ウンディーネの女王が化けた海の怪物に今にも食われそうになっていた王女を救い、無事連れ帰るっていう単純な話だ」
「例年通りプリフェクトがシルフの青年を演じるのか?」
ああ、とブロアは頷いた。
「シルフの王はイーラン先生が、シルフの王女は例年通りアラウダが。――つまりハルに演じて貰う」
「ウンディーネの女王も例年通り?」
「水のプリフェクトに友情出演して貰う。嫌な役だ。アルメリアには相応しくない。――インボルグ祭が終われば、次はベルティネ祭の番だ。ベルティネ祭の劇では私が友情出演することになるだろうし、次のルグナザド祭ではルーグが、サウィン祭ではロクマリアが。どれも嫌な役だけど、これもプリフェクトの仕事だからな」
嫌な役とブロアが言ったのは、この劇が前の季節を次の季節が呑み込むという意を含んだ劇だからだ。
ウンディーネは冬を司り、シルフは春を司る。
ウンディーネの王女の死は冬の終わりを意味し、シルフの青年の勝利は春の訪れを意味した。
ベルティネ祭か、とルーグがぼやいた。
「火のアラウダが決まらないんだ」
「歌の上手い子がいない?」
「そうじゃない。みんな上手い。けど、ずば抜けてもいない」
「適当に最上級生から選べばいい」
「ピンと来ないんだ。それに、誰もが納得できる者を選びたい。なぜあの子なんだ、と詰め寄られるのは勘弁だ」
「火の民はすぐに向きになるからな。自分が一番だと信じて疑わないし」
「そうなんだ。他人のことをなかなか認めないくせに、一旦認めると急に熱狂的なファンになる」
「そうして、自分勝手に神格化した像と少しでも異なってくると、攻撃的になる」
手に負えない、と二人は同時に零した。
自分たちのことを冷静に分析してみせるルーグも確かに火の民としては異端なのだろう。
今年のプリフェクトたちは変わり者ばかりというのもあながち間違ってはいない。
ふと可笑しくなって笑うと、ルーグは眉を寄せた。
「どうでも良いが、お前たち風の民は自分の身形にもう少し興味を持ったらどうだ?」
「何のことだ?」
「その子のことだ」
ルーグが指し示したのはブロアの腕の中で小さくなっていた少女だ。
ブロアは驚いてリールの姿をまじまじと見下ろした。
薄汚れたローブ。
灰色?――いや、元々は藍色だったようだ。
ブラシの通らなさそうなボサボサの髪。
足首まで長いのは、生まれて一度もハサミを入れたことがないからではないだろうか。
顔を覗き込めば頬に泥が付いている。
そう言えば、何やら臭う。
眉を顰めたブロアにルーグは呆れた。
「まず風呂に入れることだな。髪も切ってやるといい。――おそらく、そのキャリーケースに入っている服は服じゃない。ボロ切れだ」
「どういう意味だ?」
「分からないか?」
鋭く光るルークの瞳。
だが、その奥に哀しみが見えた。
親に疎まれた子。
ブロアの脳裏にその意味が浮かんだ。
「最悪だ」
風の日に生まれながらシルフの守護を得られなかった。
それは、その者を疎ましく思うだけの理由となる。
シルフの守護を得られなければ風の力を使えない。
風の力を使えなければ、将来何の職にも就けない。
生きていく術がない。
それは、存在の否定を意味するからだ。
「しゃべれるか確かめた方がいい。数の数え方も知らないかも知れない。物の名前もな」
ブロアは暗闇に落ちる思いでリールを見つめた。
▽▲
インボルグ寮。
キャリーケースをサロン(談話室)の扉の前に投げ置くと、ブロアはリールを抱えたまま浴場に急いだ。
入浴時間外だったが、構わない。
それを取り締まる役はブロアが担っているのだから。
湯を張った浴槽に幼い躰を投げ込む。
リールが奇声を上げた。
「風呂に入ったことがないのか?」
明らかに、暖かい水に驚いている。
湯を知らないのだ。
「大丈夫だ。落ち着け。――そう、そこに座って」
ローブを脱がせ、下着は自分で脱ぐよう言う。
既にずぶ濡れになってしまっている靴と靴下を脱がすと、シャンプーに手を伸ばした。
「でっかい犬を洗っている気分だよ」
リールの頭にシャンプーをぶち撒け、ゴシゴシと髪を洗い出した。
二時間かけてリールを洗い上げると、ブロアは再び幼い躰を抱き上げて寮の廊下を駆けた。
親友ブリガの部屋の前まで来ると、自分の運の良さに感謝した。
「ブリガ!」
勢いよく扉を開くと、まさに旅行から帰ってきた彼女が窓枠から足を降ろしたところだった。
「良かった。おかえり」
「ただいま。やっぱりパリは良いわ。今度ブロアも一緒に行かない?――え? なに、その子……?」
ブロアの腕の中を見て、あからさまに嫌そうな顔をする。
だが、それも仕方がない。
リールの出現に、それまでブリガを取り巻いていたシルフたちが一斉に去ったからだ。
風の民は身の回りからシルフがいなくなることを恐れる。
シルフがいなければ力が使えないからだ。
ブロアを愛するシルフたちも先程から遠巻きにブロアとリールの様子を哀しげな瞳で見守っている。
「その子がリール? あの?」
「そうだ」
「ずぶ濡れじゃない」
「風呂に入れたんだ。ひどく汚れていたから。――ブリガ、髪を切れる?」
「いつもあなたの髪を切っているように?」
「この子に似合うように」
ブリガは腕を組んで、長く唸った。
ルーグは風の民の美意識について意見したが、風の民の皆がブロアのように容姿に無頓着であるわけではない。
むしろ花を好む風の少女たちは、まるでフローラのように可憐で、おしゃれに余念がない。
ブリガもそんな少女たちの一人だ。
「できないことはないわよ。それに、ブロアの頼みなら嫌だなんて言えないし」
「頼むよ」
ブロアは椅子を引き寄せると、幼い身体を座らせた。
仕方ないわね、とブリガ。
腕まくりをすると、ハサミを取りに洗面所に向かった。
「シルフが側にいてくれたら、ハサミくらい持ってきて貰えるのに。――その子の側にいるウンディーネって、ずいぶんと嫉妬深いのね」
ブロアは苦笑した。
それはシルフにはない感情だ。
執着心の薄いシルフたちは追い払われるままに去るし、また去る時に振り返らない。
ブリガの手がリールの髪を滑る。
その青さにブリガは改めて感嘆の声を漏らした。
「南の方の国でこんな色をした海を見たことあるわ」
切ってしまうのが勿体ないと幾度か手櫛で梳く。
だが、思い切ったかのようにハサミに指をかけた。
慣れたもので、ブリガの手際は良かった。
腕の方もなかなかで、背中に届く長さに切り揃えられている。
前髪も短く、今まで隠されていた瞳もちゃんと見える。
「はい、できた」
可愛い、可愛い、と言ってブリガはリールの頭を軽く叩いた。
「あとは服だな……」
ブロアはブリガの部屋をぐるりと見回し、部屋の主と視線が合うと、気まずそうにニタリと笑みを浮かべた。
「小さい頃に着ていた服って、取って置いていたりしないよな?」
「しないわね。アルデにあげちゃったもの」
「なら、アルデに聞いて……」
「たぶんアルデの手元にもないわよ。先日、ドゥヌムやテウタが着ているのを見かけたから」
「……」
ブロアが言葉を失うと、ブリガは柔らかく微笑んだ。
「私が後輩たちに聞き回ってあげるわ。ブロア、今日のあなたは忙しいんじゃないの? ――明日は入学式よ?」
「そうなんだ。実はこれからイーラン先生のところに行って明日の予定を確認しなければならないんだ」
「大変ね、プリフェクトって」
ブリガのその言葉が明日の確認に対するものではなく、リールの世話に対する言葉であることは明らかだった。
▲▽
藍色の分厚いガウン。
無数に飾られた石はラピスラズリーで、胸元には大きなサファイア。
ゆったりとした帽子にはブルートルマリンが飾られており、手にした杖の上には大きなアクアマリン。
これが風のプリファクトの入学式用の衣装である。
とにかく豪華に飾り立てられてブロアは式に出席した。
隣の席にはルーグ。
彼もブロア同様大いに着飾らされている。
胸元のルビーが重いのか、気が付くとそれを弄っている。
ルーグの隣にはロクマリア。
土のプリファクトの衣装は白と決まっており、土の民の髪色は銀。
胸元を飾る宝石はホワイトダイヤであり、その白づくしの装いに、ロクマリアの志望職を知らないものは神々しさを感じて目を逸らす。
だが、ロクマリアのことを幼い頃から知っているブロアたちは、墓守をしたいと言った彼の言葉を思い出して、その白装束が死者を感じさせられて仕方がなかった。
そして、アルメリア。
黒いガウンが時折輝くのは、散らされた黒曜石が光を反射するから。
胸元にはブラックパール。
長く伸ばされた黒髪は、口さえ開かなければ、彼女をお淑やかに見せている。
厳かな雰囲気の中、式が進められていく。
学長トムナフーリが祝辞を述べ、4人の新入生代表が宣誓し、アラウダたちが唄う。
ルーグが火のアラウダを未だに選びかねていることから、現在アラウダは3人しかいない。
大概アラウダには見目も良く、歌声の綺麗な少女が選ばれるものだが、ブロアが選んだアラウダはハルという名の13歳の少年だ。
声変わり前の澄んだ歌声。
歌い始めをわずかに聞いただけで、ブロアが彼をアラウダに指名したということは、学園中の有名な話だ。
アラウダの衣装はそれぞれの色のドレスで、ハイウェストの流れるようなドレープが綺麗なロングドレス。
ここで討論の的となったのは、ハルにドレスを着せるか否かだ。
冗談ではなく真剣に交わされる討論に、最初に嫌気が差したのはハル本人だった。
――着ればいいんだろう。着れば!
ブロアが止める間もなく、そう言い捨てた彼は、サロンから飛び出して行った。
こういった事情の上、新入生たちの前に現れたアラウダたちは3人揃って可憐な姿だった。
式が終わり、プリフェクトの引率でそれぞれの寮に戻った新入生たち。
その中からリールの姿を見つけると、ブロアは幼い手を引いた。
「リールの部屋はこっちだ。私と同室ってことになった。――嫌?」
リールは頭を左右に振った。
出会ってから丸一日が過ぎたが、未だにブロアはこの少女の声を聞いていない。
(しゃべれないのか?)
言われた言葉は理解できているようだ。
知識として知らない物はいくつかあるらしいが、まるで分からないわけでもない。
ブロアはそっとリールの咽に指を触れさせてみた。
咽に異常はなさそうだ。
では、しゃべれないのではない。
しゃべらないのだ。
「君の信頼を得るのはなかなか難しそうだな」
苦笑して、ブロアはリールの頭をくしゃりと撫でた。