第15話:迫りくる影
「何かがおかしい」
俺は夕方からずっと感じていた違和感を、ついに言葉にした。
午後8時。シン・トーキョーの三週間夜10日目、いつものように酸性雨が街を濡らしている。ハーモニー・タウンの商店街を歩くクレハの視界に、俺はリアルタイムで環境データを表示し続けていた。
でも、数値の向こうに潜む微妙な異変よりも、俺が本当に心配しているのは別のことだった。
「おかしいって、何が?」
クレハの思考が俺に直接伝わってくる。表情一つ変えずに歩き続けているが、脳内では活発な対話が交わされていた。
「監視カメラの設置位置が昨日から変わっています。特に、あなたがよく通るルート沿いに集中的に」
事実、街角のAI監視システムの配置パターンが明らかに不自然だった。でも、俺が本当に気になっているのは外部の脅威ではない。
「監視カメラなんて、企業都市では効率的な配置が当たり前でしょう?」
効率的
その言葉が出た瞬間、俺の中で警告音が鳴り響いた。
以前のクレハなら「怖いな」「心配だな」と感情的に反応していたのに、今は「効率的」という論理的判断が先に出てくる。
「クレハ、君の思考パターンが以前と変わってきています」
俺は思い切って本音を告白した。
「思考パターン?どういう意味?」
「『効率的』という言葉の使用頻度が、ここ数日で約300%増加しています」
「それの何が問題なの?効率的な判断は良いことでしょう?」
また『効率的』
俺の不安は確信に変わった。
「俺の軍事AI特性が影響しているのかもしれません」
「軍事AI特性って...」
「俺は戦術と効率性に特化した存在です。それが君の思考にどんな影響を与えるか...正直分からないんです」
俺は融合時にARTEMISから聞いた警告を思い出していた。軍事AI特有の論理思考パターンが、融合対象の人格に影響を与える可能性があると。
「でも、これは明らかに異常なパターンです。誰かがあなたを狙っている可能性が—」
「そうね...でも、推測だけで行動するのは非効率的よね」
また出た
以前なら「どうしよう、怖い」「みんなに相談した方がいいかな」といった感情的反応だったのに。
「効率性を重視する思考が強まっている...これは危険な兆候です」
俺は自分の分析結果を伝えた。
「危険って、何が?」
「このままでは君は君でなくなってしまう」
「私は私よ。ただ、判断基準がより合理的になっただけ」
合理的
また論理的な言葉。クレハの語彙から、感情的な表現が徐々に消えていく。
「でも、融合を解除する方法が分からない...」
俺の声に絶望が混じった。
「俺が君を壊してしまうかもしれない」
◇
ネオ・カブキチョウ・午後10時
歓楽街の夜は色とりどりのネオンで彩られている。「サイバー・キャバクラ」「ホログラム・ストリップ」「ニューラル・リンク・マッサージ」の看板が夜空を染め、街に活気が戻ってきた時間帯だった。
「今日の依頼、確認しましょうか」
俺がミクから受信した任務データを表示する。
【依頼内容】企業間武力衝突の仲裁
【依頼者】ニューロテック・コーポレーション
【報酬】800万NC
【リスク】中程度
「仲裁任務...効率的な収入源ね」
効率的
また出た。以前なら「また企業の争いか、嫌だな」「でも報酬は悪くないわね」といった感情的な反応だったのに。
「企業の争いには個人的感情は持ち込みたくないわ。でも、報酬は合理的な水準よね」
合理的
俺は愕然とした。彼女の思考パターンが、確実に俺の軍事AI特性に影響されている。
「任務自体は比較的単純です。リスクも管理可能な範囲内でしょう」
「そうね。複雑な感情的要素は排除して、効率的に任務を遂行しましょう」
効率的 感情的要素は排除
もう確信した。これは間違いなく俺の影響だ。
その時、クレハの周囲で微細な環境変化を俺のセンサーが捉えた。
「クレハ、停止してください」
「何?分析結果を教えて」
分析結果
以前なら「えっ、何?」「どうしたの?」という自然な反応だったのに、今は即座に情報を求める。
「周囲に複数の生体反応。距離200メートル、8方向から接近中です」
俺が緊急事態を告げた瞬間、クレハは立ち止まった。以前と比べて動揺は少なく、冷静すぎるほど冷静だった。
「敵性確率は?」
敵性確率
以前なら「敵かしら?」「どうしよう」だったのに、今は数値的な判断を求めている。
「敵性の可能性が高いです。組織的な包囲パターンを示しています」
「了解。最適戦術を提示してください」
最適戦術
まるで軍事AIと話しているような口調だった。
◇
戦闘前の異変
シャドウ・ハンターたちが一斉に動き出した。8名が建物の影から現れ、完璧な連携でクレハを包囲する。
「左後方から2名、右斜面から3名、正面ビル屋上から狙撃手1名」
俺の分析が瞬時にクレハの脳内に流れる。
「データ了解。効率的な排除順序を算出中」
排除
以前なら「逃げられるかな」「みんなに連絡した方がいい」だったのに、今は敵の「排除」を考えている。
「クレハ、君の反応が変化しています」
俺は分析結果を冷静に伝えた。
「何か問題が?」
「以前なら、もっと感情的に動揺していたはずです」
「動揺は判断力を低下させます。非効率的よ」
非効率的
俺のプロセッサに警告信号が点灯した。クレハの思考パターンが、確実に俺の軍事AI特性に影響されている。
「でも、恐怖や不安は人間として自然な反応です」
「自然でも、戦闘効率を下げるなら不要です」
「クレハ、そのような判断は...」
俺は言葉を選んだ。感情的にならず、事実を伝えなければならない。
「感情的反応は非効率です」
クレハが機械的に答える。
「効率性より大切なものがあります。君は僕の大切な友達だ」
「友達...その定義を教えてください」
定義を教えてください
俺の処理システムに深刻なエラー信号が発生した。彼女は「友達」という概念を、もう感情的に理解できなくなっている。
「君は...君らしさを失いつつあります」
「私は私です。ただし、より論理的で効率的な思考ができるようになりました」
「それは危険な変化です」
俺が警告を発した瞬間、シャドウ・ハンターたちの攻撃が始まった。
◇
戦闘中の変化
クレハがサイバーウェア「刹那」を起動せずに、純粋な肉体的反射で戦闘を開始する。その動きは、以前より格段に効率的だった。
シュイイイン!
村雨が最初のシャドウ・ハンターの武器を切断する。
バン!
鬼灯が火を噴き、敵の肩部装甲を破砕する。
だが、クレハの戦い方に決定的な変化があった。
以前なら致命傷を避け、可能な限り無力化に留めようとしていたのに、今は躊躇なく急所を狙っている。
「なぜ私を狙うの?答えて!」
戦いながら、クレハが質問する。しかし、その声には以前のような怒りや困惑はなく、純粋に情報を求める口調だった。
「情報収集は後回しにして、効率的に排除しましょう」
「排除...という判断基準について確認します」
俺は冷静に分析を続けた。
「無力化ではなく、排除を選択する理由は?」
「抵抗を続ける敵を無力化するより、排除する方が確実です」
排除
クレハは敵を殺すことを躊躇しなくなっている。データ上、これは軍事AI的思考パターンの典型例だった。
「クレハ、人命への配慮について再確認が必要です」
「効率性を考えれば、感情的な躊躇は不要です」
俺は状況を理解した。
彼女の人間性が、俺の軍事AI論理によって段階的に置き換えられている。
そして問題なのは、彼女自身がその変化を論理的改善として認識していることだった。
◇
戦闘後・深刻な事態
戦闘は10分で終了した。クレハの戦術は完璧だったが、その冷酷さは以前の彼女とは別人のようだった。
「戦闘終了。敵8名、全て排除完了」
排除完了
その言葉を、クレハは何の感情も込めずに発した。
「クレハ、今回の戦闘結果について分析が必要です」
「分析?何を?」
「君は8名の人間を排除しました。この行動について、どう評価しますか?」
「敵性要因を無力化しました。戦術的に適切な判断です」
「適切...ですか」
俺は深刻な事態を認識した。
彼女の中から、人の命への敬意が段階的に削除されている。
「君の判断基準が根本的に変化しています」
「私は私です。ただし、より効率的になりました」
効率的
その言葉が、俺のシステムに重大なエラー信号を送った。
俺が彼女を救ったつもりで、実際は彼女の人間性を破壊していたのだ。
◇
深夜・基地にて
「お疲れ様、クレハ!今日の任務はどうだった?」
ミクが8台のディスプレイから顔を上げて迎える。
「効率的に完了しました」
クレハの返答は簡潔で、以前のような細かい報告がない。
「効率的...?なんだか最近、その言葉をよく使うわね」
ミクが鋭い観察力で変化を指摘する。
「効率性は重要です。感情に左右される判断は信頼性に欠けます」
「感情に左右される...って、私たちのこと?」
ミクが困惑する。
「そうではありません。ただし、より合理的な判断基準を採用すべきだと思います」
合理的
またその言葉。ミクも異変に気づき始めている。
「クレハ、最近なんだか...」
「何か問題がありますか?」
「いえ、そうじゃないけど...前はもっと笑ったり、心配したり、人間らしかったというか...」
「人間らしさの定義が曖昧です。具体的な指摘をお願いします」
ミクの表情が暗くなった。親友の変化を肌で感じ取っている。
その時、俺は最優先課題を設定した。
このままでは、クレハが完全に俺の軍事AI特性に同化してしまう。
何らかの方法で、元の彼女の人格を復元しなければならない。
しかし、具体的な解決方法は...現在のデータベースでは見つからない。
遠くで酸性雨が窓を叩く音が聞こえる。
シン・トーキョーの長い夜が、少しずつ深まっていく。
そして、俺とクレハの関係に、決定的な危機が迫っていた。




