バカじゃないことを証明せよ-⑦
――記憶を失ったふりをする。
そのためにエチカの知的探究を阻害することについて、小夜子は心のなかで体感百回ほど「ごめんなさい」を繰りかえした。が、およそ一秒後にそんな誠実な所業に走ったのを後悔した。
謝ることなかった。
「はあっ!?」
エチカがまくしたてる。
「てめえなんで雲のなかに突撃した時のことは覚えててこっちにくるまでのことは覚えてないのよ!! んなツゴーのいい頭してんじゃないわよ思い出せすぐに思い出しなさい全てを!!」
と病み上がりの小夜子の胸倉をひっつかみ、昔なつかしブラウン管テレビを叩いて映像の乱れをなおす大老の如く黒くてサラサラヘアーでたいへん都合のよろしい頭を殴打する。
小夜子は切りかえした。
エチカと話していた医者の言葉を使って。
「うう……そんなこと言われても――後遺症ってやつでしょうかね」
ぴた。
エチカの鉄拳が止まる。
作業用の白手袋がいやに眩しいエチカの手が、空中でぶるぶる震えている。
小夜子は頭痛をこらえる風に自分のこめかみを押さえた。
もちろんエチカに殴られた部分である。
的確に押さえる。
「あの雲のなかですごく変な臭いがして、くらくらってなったんです。幻覚も見えた。光とか、亡くなったはずの人の顔が見えたんです」
「…………」
エチカは振りあげていた拳をゆっくりとおろした。
小夜子の服も放す。
細いヘアピンをいくつか使って前髪を掻きあげた額に、布に覆われた人差し指を押し当てて、
「わかった。わーかったわよ」
医者との会話が多分に効いているのだろう。
後遺症。
深刻に交わされていた二人の会話に聞き耳をたてていてよかったと小夜子は自分の采配をほめた。
ほめちぎった。
エチカがイスから立ちあがる。
「なんにしても、あんたはしばらくうちで暮らすことになるのよね」
ベルトを巻いた細い腰をうんとのばして、壁掛け時計をかくにんする。
夜の七時を差している。
「いまからでも採用試験を受けてもらおうかしら。具合がわるいっていうなら、一週間くらい待ってもいいけど」
「試験? テストがあるんですか?」
小夜子はベッドから這い出した。
「それに落ちたらわたし、どうなるんですか?」
「食い扶持をよそで稼いでもらうことになる。住む部屋は貸してあげるけどね、家賃はもらうわよ。受かったら無料」
「めちゃくちゃな!」
フローリングの床に小夜子は飛びおりた。
靴下であるのに気づいて、揃えて置いてあったローファーに足をねじこむ。
「てっきり無条件で雇い入れてくれるのかと……あるいは面接だけとか」
「そういうところもあるけど、私んとこはちょっとやり方がちがうのよ。ばかな人間は雇いたくないからね、なぜならばかは私の邪魔をするから」
「ばっ……」
歌うように言ってエチカは出口に向かっていく。
「いまからでも受けてみるって言うならついてきなさい。ただし、落ちたところで『あの時は不調だったんです』は通用しないわよ」
「のっ……」
はたしてこの時、なぜこんなことを言ってしまったのか。
小夜子自身にもわからない。
それこそ毒の雲につっこんで、頭がどうかしていたとでも説明しないことには。
「のぞむところですよおっ! 受けて立とうじゃありませんか!」
「あんたその性格で損をすることって多くない?」
と言いながらも呆れるでもなく哀れむでもなく同情するわけでもなく笑って、エチカは部屋を出ていった。




