バカじゃないことを証明せよ-⑥
◇
「死を取りあげることはしないんじゃなかったのかい?」
低い男性の声が紡ぐそのせりふのつづきを、小夜子は言えると思った。
有名な哲学者の言葉だ。
「それは残酷なだけだからと」
「たまにはいいかなって思ったのよ」
嘆息するついでの調子でエチカが言った。
小夜子はうすく目を開ける。
幸いにもエチカはこちらに背を向けていた。
角度から、自分はどこかに寝かされているらしいとあたりをつける。
鈍っていた感覚が徐々に鮮明化していく。
やわらかい感触。ベッドだろうか。
病院――ではない。
すくなくとも小夜子の知っているような、薬品臭さと潔癖な白につつまれた施設ではない。
茶色く雑多な景色は、どこかの公共機関というよりも、生活感にあふれた家屋の一部であることを印象づけた。
紙の匂いがする。
本がたくさんあるのだ。
「とにかく、すこしとはいえあの雲の毒気を吸ったんだ。後遺症は覚悟しておいたほうがいいよ――きみもね」
「私はへーきよ。何度か調査におりてるし、そのへんはわきまえてるわ」
エチカはベッドのそばで一人の男と話していた。
王様ではない。
白衣と帽子をつけている。
ふくよかな体型で、ロマンスグレーの頭髪をうしろに髷にして結った、五十代ほどの男性だ。医者だと小夜子は判断した。
彼と目が合う。
(やばい)
とっさに目を閉じ、狸寝入りをつづけようとして、おそるおそるもう一度ひらく。相手がこちらの覚醒に気付いていないかをたしかめる。
ぱちんっ。
医者は小夜子にウインクをしてサインを送った。
(ばれてる)
へたなアイコンタクトを「エチカにはバレないように図らってあげるよ」という意味に受け取って、小夜子は寝たふりをつづけることにした。
コト。
サイドテーブルに医者がなにかを置く。
「薬はここに置いておくよ。効きがわるかったら自分で作ってくれ。私の調合よりきみのがいいだろうからね」
「体質ってのがあるでしょーが、どれがだれに特別いいかなんてわかんないわよ」
つかれたような息とともにエチカは吐き捨てた。
わかれの言葉を告げて医者が部屋を出る――
寸前で、彼は思いついたように質問した。エチカに。
「ああそうそう、彼女の記憶に損傷があった場合、送り帰すのはできなくなっちゃうわけだけど、その場合きみどうするんだい、引きとるの?」
「そうならないことを祈るわ」
「もしもの話をしているんだよ」
「ようすを見るわよ。それで――そうね、あとのことは、未来の自分にまかせるわ」
「あいかわらずだね」
医者は今度こそ退室した。
小夜子は目を閉じたまま考える。
病み上がりの頭を高速で回転させる。
(送り帰す……送り帰すってどういうこと? たぶんそれってわたしをもとの世界にもどすってことだと思うんだけどでも記憶に損傷があったらできないって言ってた!)
ベッドに大人しく横たわる小夜子は、頭のなかでしか動くことができなかったしそれでよかった。
もしも肉体まで動いていたら不審な挙動になっていただろう。どろぼうくらいなら「この女の子とくらべたらオレのほうがマシか」とほっとさせることができる自信がある。
胸中で眉をひそめたかと思えば「いやあああ!」とムンクの叫びばりに顔を溶けさせ、かと思いきやいきなり諸手をあげて狂喜乱舞するのだ。
そして狂気乱舞しながらふたたび思いなやむのだ。小夜子は。
(あのお姉さん――エチカっていったっけ。訊いたら教えてくれるのかな、それとも黙秘権を行使する? 知られたらつごうのわるいことだもんね……)
エチカは小夜子の来訪を歓迎していない。
だからどう出るだろうか、と小夜子は相手の出方をうかがいたく、またこっそりと目を開けた。
ばちん!
と音が聞こえたと錯覚する。
それほどまでにきっぱりと、小夜子の視線はエチカの双眸を捉えてしまっていた。
金色の瞳。
(うっ!!)
「ああ、起きたんだ」
立ったまま寝台の少女をながめていたエチカは、彼女が気づくなり距離をあけた。
「なにをしようとしていたんですか」
「ようすを見てたのよ。あんまり苦しそうなら注射の一本でも打ってやろうかと思ってね」
「ひっ! 麻薬!?」
「どうやったらそんなキケンな発想ができんのよ」
エチカは近くの書きもの机からイスを引っぱって腰掛けた。
大きなデスクのうえには実験器具やら書物やらメモ書きやらぐしゃぐしゃの紙やらが山みたいになってとっちらかっている。
(きたなーい)
「からだ起こせる? どっか痛むとかはない?」
「特には」
ふしぎなくらいに身体はかるかった。
ひょっとすると、雲に落ちるまえより健康なのではないかとうたがうほどに。
上体を起こして小夜子はベッドに座った姿勢になる。
衣服はワンピースから変わっていない。
杖に寄りかかるようにしてイスに座るエチカが、こちらの状態に満足をしたらしく話しをはじめる。
「ったく、いきなり投身自殺なんてしないでよ。いくら大事な宝物が手元からとんでったからってさあ」
「自殺じゃないです」
小夜子は弁解した。
ほんとうにちがうのだ。
「町が雲の上にあるなんて知らなかった。あの鉄柵をこえたところにも道路があるって思ったんです。そりゃあ、多少の段差は覚悟しましたけど。でも道の下に雲があるなんてどうやって予測つくっていうんですか? あんなふうに落ちていくなんて……想像もつきませんよ」
「――そうか、じゃあ、あんたがもともといた世界ってのは、いうなれば〈地上〉ってやつなのね」
エチカは興奮気味に言った。
「やべっ」と小夜子は自分を叱咤する。
なぜなら
「サヨコ、あんたのいた場所のことを教えてくれる? 理由の一つは、あんたをもとの世界に送り帰すため――といっても、こっちは私の準備もあるし、実は仔細なんてかんけいないのよね。だって座標さえあんたの脳みそから読み取れればいいんだもの。だから重要なのはもう一つの方の理由よ。私が興味あるから」
(なにそれ)
小夜子は目を白くした。
エチカは相手の反応など気にせず質問攻めにする。
「地上って、ふつうまっくろな毒にまみれてて息できないんじゃないの? ガスマスクとかつけて生活してるとか? でもあんたは薄着だし、なんにもつけてなかったわよね……からだの構造がちがうのかしら」
早口になってまくしたてながら身体をぽんぽんさわってくるエチカに、小夜子は思案顔をする。
さっそく採血をしようと注射器を探しにいく段になって、必死に呼び止めて座りなおさせた。
注射はきらいだ。
薬もきらいだ。
そしてそれとおなじくらいにいやなのが、
(うう、家に帰るってこと。いやだ、わたし、あの場所には帰りたくないのに……)
となれば――
金色の両目に期待の灯を秘めてさきほどの質問の答えを待つエチカに、小夜子は首をめぐらせた。
ぎぎぎ。
と重い音が聞こえる。
知識欲ゆえにあれこれと問いただすエチカに、心底もうしわけないと胸中で自分の不甲斐なさを猛省しながら――
「わ……」
小夜子は返事をした。
「わすれました」




