降伏勧告
「……一人前、増やして」
「あ、ああ……別にいいけど」
突然厨房にやってきたフィリーネは、唐突にそんな命令を下した。
生きてくれて良かった――そう安心したのも束の間。一体何故増やさなければならないのか、そんな疑問は浮かぶけれど、言葉の少ないフィリーネはそれ以上の情報を与えてくれない。
用意していた材料は二十人前だ。それを一人前増やすのは、それほど難しいことではない。野菜で少々嵩増しすればいいだけの話だ。
「一体、何があったんだ?」
「……敵の船長に、食べさせる、から」
「海賊船じゃなかったのか?」
「……ん。海賊。でも、予定が狂った」
ふぅ、と小さく溜息をついて。
リューヤのせいで、とフィリーネは付け足した。
その言葉に、疑問符が脳裏を走る。
別段、竜也は何もした覚えがない。単に、厨房で焼きそばを作っていただけだというのに、一体何が竜也のせいだというのか。
「何がだ?」
「……ん。それじゃ、よろしく」
「あ、え……」
去ってゆくフィリーネの後ろ姿。
結局、何の情報も貰えないままだ。とはいえ、厨房を任されているだけの竜也には関係のないことなのだろう。ならば、竜也は気にせず料理を作ればいい。
焼きそばの試食はしたし、味も問題はなかった。あとは、これを人数分プラス一用意すればいい。
竜也は慣れた手付きで火石を調節し、フライパンへデーロック脂を引く。そして新しい野菜を刻み、少しだけ野菜多め焼きそばの作成に移った。
手際良く、ソースと野菜の絡んだ麺を、皿の上に乗せる。
その皿の数は、四つ。
本来ならば一斉に持っていくのがベストなのだが、焼きそばは熱いうちが華だ。小分けにして、熱々を食べてもらった方がいいだろう。
「完成、と」
まずは、四人分。
竜也はまず、完成した四つの皿とスープをワゴンに載せ、食堂へと続く扉を開いた。
食堂のテーブルを、ジェイク、フィリーネ、エミリア、ヒルデガルトが囲んでいた。
ヒルデガルトの部下は、既に全滅している。その敵地に一人という状況でありながら、落ち着いているのは実力が示すものか。
とにかく今は、料理を待ってから――そう考えながら、フィリーネは竜也の訪れを待つ。
「お待たせしました」
食堂の扉が開く。
そこに立っていたのは、いつも通りの料理長――竜也。
料理を運んできたワゴンの上には、いつも通りに美味しそうな香りの料理が載せられている。
竜也はゆっくりとそこに――ジェイクとヒルデガルトが正面から見据え合ってる座席へ、料理を運んだ。
「本日のメニューは野菜たっぷり焼きそば、それに黒パンを加えたコーンスープです」
竜也はそう紹介しながら、ジェイクの席――そこに座る、ジェイク、ヒルデガルト、エミリア、フィリーネの前にそれぞれ置いた。
まるで宝石のような輝きすら錯覚してしまう、竜也の食事。いつも通りの美味しさと、そして何より、いつも以上の香りがフィリーネを誘惑する。周囲を見ると、ヒルデガルトですらその料理に対して目を奪われていた。
そして、竜也は小さく一礼して。
「ごゆっくりお召し上がりください」
フィリーネから見て右にある、茶色の太い糸に野菜が絡まったもの。
そしてカップに入った、黄色のスープ。
「なぁ……」
「はい、何でしょうか?」
ヒルデガルトが、料理を見つめながら、小さく竜也を呼び止める。恐らく続きを作ろうとしたのだろう、厨房に戻ろうとする竜也は振り返り応対した。
だけれど――ヒルデガルトの言葉は、続かない。
しかしその手はフォークを掴み、茶色い糸――焼きそばを絡めてから、口へと運ぶ。
そして――目を、見開いた。
ヒルデガルトはまず料理を見て。
竜也を見て。
また、料理を見る。
ぱくぱくと口を開こうとしているけれど、全く言葉が出てこない。まるで言葉を失ってしまったかのように、その様子は不審にすら思える。
だけれど、フィリーネにその気持ちは、強く理解できた。
あとは――ジェイクの仕事だ。
既に、竜也にはヴォイド号壊滅の危機を救ってもらった。さらに、このように敵に対しての交渉における食事の提供までしてくれた。
「ヒルデガルト」
だからそう、一口食べるごとに不審な行動をし、まるで飲み込むのがもったいない、とでも言うかのように激しい咀嚼を続けるヒルデガルトを、ジェイクはそう呼び止める。
あれ? 俺無視なの? という非難の混じった目で竜也がジェイクを見るが、ジェイクは全く目もくれずに黙殺した。
「……何だい」
「手前は……こんなにうめぇもん、食べたことあるか?」
「……」
ヒルデガルトは答えない。それも当然か。
答えなど分かりきっている。
ヒルデガルトの反応から、明らかに初めて食べたものだ。そして、その味に感動していた。明らかに、以前に食べた者の反応ではない。
現実、エミリアは「おいしー♪」と嬉しそうに頬をほころばせている。
それは、未知の衝撃。
美味しいものを食べる。その行為が幸せに結びつく喜び。
ヒルデガルトは顔を伏せ、少しだけ表情を歪ませて目を逸らす。
たっぷり十秒ほどかけてから、呟いた。
「……無い」
そして、次の食事を口に入れて。
ヒルデガルトは震えながら、ジェイクを見た。
「こんな美味いもん、食ったことない。アタイがよ……今まで食ってたもんってのは……何だったんだい」
そんなヒルデガルトの独白は、ここにいる全員がかつて味わったもの。
「こんなもん、食っちまったら……もう、食えないよ……」
フィリーネにも覚えのある感覚。
何の疑問もなく食べていた生ゴミスープが、ただのゴミに変わった瞬間の記憶。
もう、フィリーネはあのスープを飲むことなどできないだろう。
だから――ヒルデガルトの気持ちが、痛いほど分かった。
「で、だ」
そこで、ジェイクが口を開く。
船長として、やるべき筋は通さねばならない。
だからこそ、ジェイクは問う。
「一応、交渉してぇんだが?」
拒否するならば、全力で戦う。
恐らく、ジェイクは負けるだろう。そしてヴォイド号の全てが奪われ、殺されるだろう。
それでも、引くことはできない。海賊として。
ジェイクはじっとヒルデガルトを見据える。ヒルデガルトは大きく溜息をついて、その視線を竜也に向けた。
「なぁ、兄さん」
「へ?」
唐突に話を振られた竜也が、そう間抜けな返事を返す。
そして真剣な眼差しで、竜也を見据えた。
「腐るほどよ、財宝くれてやんよ。欲しけりゃ、女もあてがってやる。アタイでもいい。あんたの欲しいもん、全部用意してやるから……ウチに来ないかい?」
「……は?」
それは、唐突なヘッドハンティング。
船長であるジェイクの目の前で行われるという、マナーなんて何一つない行動。
しかし、ジェイクはただ嘆息だけ返しただけだった。
竜也の返事なんて分かっているから。
竜也はジェイクの――家族だから。
「いや、悪いんだけど……」
「駄目かい? あんたの希望、全部叶えるよ。アタイの体で良けりゃさし出してやんよ」
「……俺は、ヴォイド号の料理長なんで」
竜也の返事に、ヒルデガルトは笑い声を上げた。
まるでその結末など、分かりきっていたかのように。
気付けば――フィリーネも笑っていた。
「そうかい……じゃあ、仕方ないね」
「……んで、俺との交渉には入ってくれんのか?」
「あー……もう必要ないだろう?」
くくっ、と乾いた笑い声と共に。
ヒルデガルトは、己の鉄腕をテーブルにつけ、ゆっくりと頭を下げた。
竜也に向けて。
「え、ええっ!?」
「ヴォイド号、料理長」
「あ、あの、何で……」
「アタイの名はヒルデガルト、二つ名を『鉄腕』。この首に五百万の懸賞金が掛かってる札付きだが、あんたの下で働きたい。この船の末席に加えてくれ」
それは、唐突な帰順。
竜也の料理に、それだけの価値がある――この女は、そう判断したのだろう。
「え……えええ!?」
「どういうつもりだ?」
「こんな美味いもん食っちゃ、もう他のメシは食えない。料理長、あんたの指示には全て従う。下働きで構わないさ。戦いになれば、最前線に出してくれて結構。寝る場所も雑魚寝でいい。雑用だって喜んでやる。だから、アタイにこの船でメシを食わせてくれ」
「お、おい……?」
「あー……そういやもう、この船は厳しいだろうし、アタイの船をそのまま使うといいさ。名前なんかは特につけてないから、好きにつけておくれよ。ついでに、アタイの船にある財宝は全部持ってって構わんよ」
五百万の賞金首と、巨大なガレオン船、それに加えて財宝。
己の首に賞金が掛かるというのは、海賊においてある種のステータスである。少なくともこの近辺で、ヒルデガルト以上の賞金が首に掛かっている海賊など片手で数えられるほどだろう。
強力な部下にお宝が手に入ると思えば素晴らしい提案に思えるが。
だけれど。
「何故、俺の下じゃなくリューヤの下につくってんだ?」
「アタイは、あんたに負けたとは思わない。アタイが負けた相手は、この料理だよ。アタイは、アタイを負かした相手にしか従わない」
「……船と財宝は貰い受ける。だが、手前の参加は断ると言ったら?」
相手は『鉄腕』ヒルデガルト。悪名高い海賊である。
ジェイクの寝首を掻いて、そのままヴォイド号の実権を握るような真似をしかねない。そうなれば、ジェイクのみならずクルー全ての命が危ういだろう。
しかし、ヒルデガルトは何の躊躇いもなく答えた。
「この首を斬りな」
「な!?」
「これでも五百万の賞金が掛かってんだよ。この首にもそれなりの価値がある。断るっつーんなら、この『鉄腕』ヒルデガルトの首をやろうじゃないか。財宝も合わせりゃ、それなりの額になるさ」
「手前、何を……」
冗談を――そう続けようとして、やめた。
ヒルデガルトが、あまりにも真剣な表情を浮かべていたために。
それは断られた場合、本気で命を差し出すつもりだということだ。
「ここのメシが食えない人生なんざ、生き地獄だよ」
知ってしまったからこそ、逃れられない。
本当に美味しいものを食べてしまったから、もう戻ることはできない。
だから。
「だから、断るんなら、アタイの首を斬りな。せめて、この味を覚えているうちに、冥土へ送ってくれ」
ああ、それから――と、ヒルデガルトは更に続ける。
「もしもアタイを採用してくれんなら……そこの嬢ちゃんは、魔術師だろう? 奴隷の契約を交わしてもいい。内容は絶対服従と反逆の防止でいいだろうさ。相手は料理長以外に認めないがね」
「あ、あの……なんで俺に……?」
「……本気か?」
「ああ、本気さ。もしも駄目だって言うなら……殺してくれ」
本気の眼差し。
あまりにも澄んだ、悪党とはとても思えない眼差しに、ジェイクは肩をすくめた。
そして諦めたように微笑んで、嘆息。
「……待遇は、下働きからだ。戦闘部隊に参加してもらうぜ。平時はリューヤの指示に従え」
「ああ、任せな!」
揃った返事に、わっ、と食堂が盛り上がる。
誰かが酒樽を開き、祝いの宴を開くと言い出した。どうやら、既に飲んでいる輩もいるらしい。
そしてそのまま、宴が始まった。
「……え?」
自分に部下ができて、しかもそれが最強クラスの女海賊だということを理解できず、混乱の渦中に竜也を置き去りにして。