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消えたはずの記憶― ススキノの小さなバーでの記憶 ―  作者: akira


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第2話 思い出してはいけない人

その女は、間を置かずにまた来た。


前回よりも、少しだけ早い時間。


ドアを開ける動きに、迷いがない。


「いらっしゃい」


声をかけると、女は頷く。


席も同じ。


座り方も同じ。


だが——


目だけが違う。


何かを決めてきた目だ。


「何にしますか」


聞く。


「前と同じで」


すぐに答える。


グラスを出す。


氷を入れる。


酒を注ぐ。


差し出す。


女は、すぐには飲まない。


手で包むように持つ。


「……昨日、思い出したんです」


ぽつりと言う。


「何をだ」


「その人のこと」


やはり来たか、と思う。


ここまでは、自然な流れだ。


「……どこまでだ」


女は、ゆっくりと息を吐く。


「少しだけ」


目を閉じる。


言葉を探すように。


「……冬でした」


静かに言う。


「雪が降ってて」


ここは、すすきのだ。


珍しい話ではない。


だが、その“雪”は、


今のものではない。


記憶の中の雪だ。


「この店に来る前に」


続ける。


「少しだけ歩いて」


笑う。


「寒いって言いながら」


その光景が、少しずつ形になる。


「……ここに入った」


カウンターに触れる。


確かめるように。


「……隣にいた」


そこまで言って——


止まる。


「……」


女の指が、わずかに震える。


何かに触れかけている。


だが、同時に——


“止められている”。


そんな感じだ。


「……顔は」


聞く。


女は、首を振る。


「まだ、見えない」


だが、前より近い。


確実に。


「……名前は」


今度は、少し間がある。


そして——


「……言えない」


はっきりと言う。


思い出せない、ではない。


“言えない”。


そこに違いがある。


「……どういうことだ」


女は、ゆっくりと目を開ける。


「分からないんです」


正直な声。


「でも」


グラスを強く握る。


「思い出そうとすると」


少しだけ顔を歪める。


「……ダメになる気がする」


その感覚は、正しい。


危険なラインに来ている。


「……それでも」


続ける。


「知りたいんです」


まっすぐな言葉。


逃げない。


だから、ここに来ている。


「……そうか」


短く返す。


それ以上は止めない。


ここは、止める場所じゃない。


気づく場所だ。


女が、一口飲む。


目を閉じる。


呼吸が、少しだけ深くなる。


「……あの人」


小さく言う。


「笑ってました」


その声に、少しだけ温度がある。


「私が何か言うと」


続ける。


「いつも、少し遅れて笑うんです」


その癖。


具体的な記憶。


「……優しい人だな」


言うと、女は頷く。


「はい」


迷いなく。


「すごく」


その言葉だけは、揺れない。


「……でも」


ふと、表情が変わる。


少しだけ曇る。


「最後の方は」


そこで止まる。


言葉が出ない。


だが、分かる。


そこに“理由”がある。


消えた理由が。


「……何があった」


静かに聞く。


女は、すぐには答えない。


長くはない沈黙。


だが、重い。


「……」


そして、ぽつりと。


「私が、忘れたんです」


その一言で、空気が止まる。


「……」


女が続ける。


「意図的に」


はっきりと言う。


「……どうしてだ」


女は、目を伏せる。


「分からない」


だが、その言い方は、


完全な無知ではない。


「でも」


小さく言う。


「忘れないと、ダメだった」


その確信だけが残っている。


だから——


消えた。


完全にではなく、


形だけが。


名前も顔も。


だが、感情は残った。


「……そういうことか」


小さく呟く。


女が顔を上げる。


「何か分かるんですか」


答えない。


これは、自分で辿るしかない。


「……どうする」


代わりに聞く。


女は、少しだけ考える。


そして——


「……思い出します」


静かに言う。


「全部」


迷いはない。


だが——


「……覚悟はあるか」


一応、聞く。


女は、わずかに笑う。


「ないです」


正直に。


「でも」


グラスを持つ。


「このままの方が、気持ち悪い」


それもまた、本当だ。


「……そうか」


短く返す。


それでいい。


女が、一口飲む。


目を閉じる。


その瞬間——


カウンターの端、


空いているはずの席に、


ほんの一瞬だけ、


影が座る。


はっきりとは見えない。


だが——


“誰か”がいる。


女の隣に。


女の呼吸が、少しだけ変わる。


「……いる」


小さく言う。


目を閉じたまま。


「……そこに」


手を伸ばしかけて、止まる。


触れない。


触れてはいけない。


そんな感覚。


「……」


その影は、何も言わない。


ただ、そこにいる。


「……ごめん」


女が、ぽつりと言う。


理由は分からない。


だが、その言葉は、


ずっと前に言うはずだったものだ。


遅れて、ここに来た。


影が、わずかに揺れる。


それだけだ。


「……」


やがて、女が目を開ける。


影は、もうない。


席は空いている。


最初から、誰もいなかったように。


だが——


空気だけが違う。


「……今の」


女が言う。


「いましたよね」


答えない。


答える必要はない。


「……顔、見えなかった」


小さく言う。


「でも」


グラスを持つ手が、少しだけ震える。


「分かりました」


その一言に、すべてが含まれている。


名前も、顔もまだない。


だが——


“誰だったか”は分かった。


それで、十分だ。


「……また来ます」


女が立ち上がる。


前よりも、少しだけ軽い動き。


「ああ」


短く返す。


女は、ドアへ向かう。


開く。


夜の空気が入る。


そして——


出ていく。


ドアが閉まる。


静けさが戻る。


カウンターを見る。


さっきまでの席。


何もない。


だが、グラスが一つ、


わずかにずれている。


触れていないはずなのに。


「……」


小さく息を吐く。


思い出すということは、


戻すことじゃない。


“もう一度向き合うこと”だ。


それができる場所が、


ここだ。


それだけでいい。



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