第9話 夜会
その夜、王宮の大広間で最も視線を集めたのは、王妃でも令嬢でもなかった。
港町の新領主夫人──エリオットの姪にあたるクラーラが、大広間に足を踏み入れた瞬間、ホールのざわめきが一度途切れた。
深い藍色の絹地。裾に向かって広がる翡翠色の波模様の刺繍。金糸の光の帯が腰から肩へと流れ、銀糸の小花が夜空の星のように散りばめられている。照明の揺らめきを受けて、ドレスは生き物のように色を変えた。海の青、空の緑、夜の金──全てが一着のドレスに閉じ込められていた。
私の、作品だ。
王妃の依頼で仕立てたドレスは、クラーラの体型に合わせて微調整したものだった。王妃からは「私が着るのではなく、夜会で最も映える方にお渡しなさい」という粋な提案があったのだ。
ホールの隅で、私はそれを見ていた。正式な招待客ではない。王妃の計らいで「仕立て屋として」入場を許されたのだ。目立たない黒のドレスに、自分で刺繍した小さな波模様のブローチだけを付けて。
ざわめきが戻ってきた。今度は、称賛のざわめきだった。
「あのドレスは、どちらの仕立て屋?」
「見たことのない刺繍ですわ。宮廷風なのに、どこか、海の匂いがする」
「港町のハーヴェン仕立て屋ですって。元ランベール公爵夫人の、」
囁きが広がっていく。私の名前が、社交界の中を泳いでいく。「公爵夫人」としてではなく──「仕立て屋のロゼッタ」として。
王妃が微笑んだ。高い位置の席から、クラーラのドレスを見つめて。その視線が一瞬、ホールの隅にいる私を捉えた。小さく頷いてくれた。
(……ああ)
目頭が熱くなった。泣いてはいけない。ここは王宮の大広間で、私は仕立て屋として立っている。でも、十年間、誰かの陰に隠れていた仕事が、初めて私の名前で評価された。
隣にいた貴婦人が、クラーラのドレスを指さしながら連れに囁いた。
「あの刺繍、港町の仕立て屋ですって。元公爵夫人が始めたお店だそうよ」
「まぁ。公爵夫人を辞めて仕立て屋を? なんて、素敵な方かしら」
その言葉が、そっと胸に染みた。「素敵」と言われたのは、仕立ての腕ではない。私の選択を、人生を変える決断を、「素敵」と言ってくれたのだ。
◇
ホールの反対側に、ヴィクトルがいた。
公爵家のテーブルは壁際だった。かつてはホールの中央にあった席が、今は端の方に追いやられている。隣のテーブルは空席が目立ち、ヴィクトルの周りには誰も寄ってこなかった。
社交界は残酷だ。力のある者には群がり、翳りが見えた者からは一斉に離れる。
ヴィクトルは杯を手にしたまま、クラーラのドレスを見ていた。いや──ドレスではなく、その刺繍を見ていた。あの波模様。港町の波模様と、宮廷の繊細な技法が融合した、唯一無二の刺繍。
あれを作ったのが誰か。ヴィクトルにも分かっただろう。
その時、背後から声がかかった。
「ランベール」
国王リオネルの声だった。
ヴィクトルが振り返り、深く頭を下げた。
「陛下」
「最近の領地報告書の質が落ちたな。以前はもっと緻密だったが、何があった?」
公の場での指摘。周囲の貴族たちが耳をそばだてた。
ヴィクトルの顔から血の気が引いた。「以前の報告書」は、全てロゼッタが書いたものだ。今ヴィクトルが自分で書いている報告書は、数字の精度も分析の深さも、以前の半分にも及ばない。
「……改善いたします、陛下」
「頼むぞ。かつてのランベール領は、我が国の税収の柱だった。その柱が傾くのは困る」
国王は穏やかに、しかし、誰にでも聞こえる声で言った。
ヴィクトルが小さく頭を下げた。その肩が、かすかに震えていた。
周囲の貴族たちの視線が、冷たかった。同情ではない。品定めだ。弱った者を値踏みする、社交界特有の目。ヴィクトルにとって最も堪えがたい種類の視線だろう。
公爵家の空席だらけのテーブルと、クラーラのドレスに群がる貴婦人たち。その対比が、全てを語っていた。
◇
夜会の終盤、私はホールの外に出た。
中庭の回廊を歩く。夜風が涼しくて、火照った頬に気持ちいい。月が高く上がっている。噴水の水音が、遠くの楽団の音楽と混ざり合っていた。
教会からの使者とすれ違った。功労離縁の申し立ては教会の審議にかけられ──ロゼッタの十年間の貢献の証拠、帳簿の写し、商人たちの証言書、使用人たちの嘆願書が認められ、本日付で正式に成立したという知らせだった。ヴィクトルの同意は、必要なかった。
手首の白い糸に触れた。
もう、解いてもいい。
左手で右手首の糸の端をつまみ、ゆっくりと解いた。白い糸がするりとほどけて、手のひらの上に落ちた。
十年間、ずっと巻かれていた場所。手首に薄い痕が残っている。日焼けのムラのような、かすかな線。
(……終わった)
本当に、終わったのだ。
糸を手のひらの上で見つめた。白い、何の色もない糸。十年前は鮮やかな朱色だったはず。でもその朱色を、もう思い出せない。
回廊の先に人影があった。
門の外──正確には、王宮の正門の脇に、一人の男が立っていた。
カイル。
平民のカイルは、王宮の中には入れない。入れないのに、門の前で待っていた。夜会が終わるのを。私が出てくるのを。
私が出てくるかどうかも分からないのに、待っていた。
「……カイル?」
小走りで近づいた。カイルは相変わらず無表情だった。でも、マントのポケットに突っ込んだ手が、落ち着きなく動いている。
「待って、いたの?」
「ああ」
それだけ。それだけだった。
でも、その「ああ」に、声が少し震えていた。夜の冷気のせいか、それとも、。
「……帰るか、ロゼ」
ロゼ。
子供の頃の呼び方。十年間、一度も使わなかった愛称。
息を呑んだ。
「ロゼ」と呼ばれたのは、八歳の夏以来だ。祖母の仕立て屋の前で遊んでいた頃。「ロゼ、見て、今日こんなでっかい貝拾った」と、泥だらけの手で貝殻を差し出してきた男の子。
目頭が、また熱くなった。今度は堪えなかった。
「……うん。帰ろう」
王宮の門を背にして、二人で歩き出した。夜の街路に、靴音が二つ並んで響いた。
振り返った。
門の向こうに、大広間の明かりが見えた。あの中に、壁際で一人座っているヴィクトルがいる。あの明かりの中に、私の十年間があった。
でも、もう振り返るのはこれで最後だ。
前を向いた。隣にカイルがいた。ただそれだけで、冬の夜が少しだけ温かかった。




