第8話 褪せた糸
港に、見覚えのある馬車が停まっていた。
ランベール家の紋章。金の獅子を象った車体の装飾。あの馬車には何度も乗った。社交界の夜会に向かう時、領地の視察に行く時、いつも隣に座るのは冷たい沈黙だった。
足が止まった。仕立て屋に向かう途中の坂道で、足の裏が冷たくなった。
(まさか、)
まさか、ではなかった。
仕立て屋の前に、ヴィクトルが立っていた。
長身の体躯。整えられた金髪。仕立ての良い外套。二ヶ月ぶりに見るその姿は、記憶の中とほとんど変わっていなかった。ただ──顔色が悪い。目の下に隈がある。ヴィクトルがこんな顔をしているのを、見たことがなかった。
「ロゼッタ」
名前を呼ばれた。十年間、何千回と聞いた声。
胸が、痛まなかった。
不思議なほど、何も感じなかった。潮風が頬を撫でただけだった。
「……旦那様。いえ──ヴィクトル殿」
呼び方を変えた。ヴィクトルの眉がぴくりと動いた。
「ここにいたのか。こんな……こんな田舎の港町で、何をしている」
「仕立て屋を営んでおります」
「仕立て屋?」
ヴィクトルの声に、驚きと侮蔑が混ざっていた。公爵夫人が仕立て屋。彼にとっては想像の外だったのだろう。
「くだらないことを。ロゼッタ、戻れ。お前がいないと領地が回らん。定期市は崩壊し、使用人は辞め、社交シーズンの差配も、」
「それは、私の問題ではありません」
遮った。静かに、でもはっきりと。
ヴィクトルが言葉に詰まった。十年間、私が彼に逆らったことは一度もなかった。提案はした。助言もした。でも拒否は、初めてだった。
「お前……」
「ヴィクトル殿。一つだけ、お見せしたいものがあります」
長袖をまくった。
左手首に巻かれた結い糸が、露わになった。
白い糸。完全に白い糸。夫婦の絆を示す色は、跡形もなく消えていた。ただの白い紐が手首に巻きついているだけ。
「この糸がいつから白かったか、ご存知ですか」
ヴィクトルの目が、糸に釘付けになった。
「いつ、から……」
「少なくとも五年は経っています。もしかしたら、もっと前から。正確には覚えていません。覚えていないくらい、ゆっくりと、色が消えていったので」
声は震えなかった。不思議なほど、落ち着いていた。
「五年間、私はこの白い糸を長袖で隠していました。真夏でも薄手の長袖を選んで、誰にも見せずに。旦那様──いいえ、ヴィクトル殿。あなたは一度でも、私の手首を見ましたか。一度でも、この糸の色を確かめましたか」
沈黙。
ヴィクトルは何も言えなかった。答えは分かっている。見ていない。確かめていない。妻の手首に巻かれた結い糸の色を、十年間一度も。
「私は道具ではありません」
声が硬くなった。唇が勝手に動く。十年間封じ込めていた言葉が、丁寧語の殻を破って溢れ出す。
「帳簿を書く道具でも、招待状の道具でも、紅茶を淹れる道具でもない。もう──誰かのために自分殺すような生き方は、しないんです」
語尾が崩れた。「ございません」ではなく「しないんです」。公爵夫人の言葉遣いから、港町の娘の言葉に戻りかけている。自分でも気づいた。でも、もう直さない。
ヴィクトルの顔が、目に見えて強張った。何か言おうとして、言えなかった。白い糸が、彼の弁舌を封じていた。
「功労離縁の手続きを、教会に申し立てます。十年以上の婚姻と、貢献の証拠はすでに揃えてあります」
「功労……離縁? 何だそれは」
「古い法律です。ご存知なくても無理はありません。ほとんど使われていない制度ですから」
ヴィクトルが一歩踏み出した。私は一歩も引かなかった。
「ロゼッタ、考え直せ。俺たちは、」
「『俺たち』は、とうの昔に壊れていました。この糸が、その証拠です」
白い糸を掲げた。朝日に透けて、ほとんど見えなくなった。
ヴィクトルは、それ以上何も言えなかった。唇を引き結び、拳を握りしめ──踵を返した。
数歩歩いて、振り返った。
「……あの報告書は、全部お前が書いていたのか」
「はい。十年分、全て」
ヴィクトルの顔が歪んだ。何の感情かは読み取れなかった。怒りか、屈辱か、それとも、ようやく気づいた何かへの恐れか。
馬車に乗り込む背中に、私は何も声をかけなかった。かける言葉はもう、持ち合わせていなかった。
◇
馬車が去った後、路地の影からカイルが出てきた。
いたのだ。最初から。
カイルの顔は無表情だった。いつもの無表情。でも、手が、震えていた。拳を握りしめた右手が、小さく、でもはっきりと震えている。
(……怒っているのかしら)
ヴィクトルに対して、だろうか。それとも、。
「カイル」
「……ああ」
「見ていたの?」
「たまたま。通りかかった」
嘘だ。でも、追及しなかった。
しばらく沈黙が続いた。海鳥の鳴き声と、波の音だけが響いている。
「カイル……あの」
「俺は」
カイルが口を開いた。珍しいことだった。自分から話し始めるなんて。
「俺は、平民だ」
唐突な言葉に、最初は意味が分からなかった。
「船乗りで、学もない。公爵家とかああいう世界のことは何も分からない。お前の、ロゼッタの隣に立てるような人間じゃない」
ああ。そういうことか。
この人は、身を引こうとしている。私がヴィクトルを追い返すのを見て、次は自分が退く番だと思っている。
鼻の奥がつんとした。悲しさではない。怒りでもない。もっとぐちゃぐちゃな、名前のつかない熱。この人まで離れようとするのか。薪を置いて、窓を直して、布を持ってきて、全部やっておいて、今更「俺は平民だ」って。
「身分がなんだっていうの」
口をついて出た。完全に、港町の言葉だった。「ですか」でも「ですの」でもない。子供の頃に使っていた、飾り気のない言葉。
「十年、身分に縛られて、私は、っ」
声が詰まった。涙が出そうになった。深呼吸をした。
「もう、自分で選ぶよ。誰に言われたからでもなく、制度がどうだからでもなく。自分の足で立って、自分の心で、選ぶの」
カイルの手が、震えたまま止まった。
何か言いたそうな目。でも、言わなかった。まだ。まだ言えないのだ。不器用すぎて、大事なことほど言葉にならない人。
それでいい。今は。
「……帰るか」
「……うん」
並んで坂道を上った。肩が触れそうで触れない距離。夕日が二人の影を長く伸ばしていた。
仕立て屋の窓に、あの看板が見えた。カイルが彫った船の絵。私が二十年前に描いた船。
今なら少しだけ分かる。あれは偶然じゃなかった。
でも、確かめるのは、もう少し先でいい。今は、隣を歩いているこの温もりだけで、十分だった。
夜、一人でドレスの刺繍を進めた。功労離縁の書類に署名してから、針を持った。手は震えていなかった。




