表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
十年尽くした妻が消えた朝、公爵家は紅茶の淹れ方すら分からなかった  作者: 九葉(くずは)
第1章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/38

第7話 嵐の夜

 三日、帰ってこなかった。


 カイルの船が出航してから、予定では五日で戻るはずだった。南方の島との短い交易航路。天候が安定している季節で、危険はないと聞いていた。


 五日目の朝、港に船の姿はなかった。


 六日目も。


 七日目──今日も。


 仕立て屋の窓から海を見ている自分がいた。針を持っているのに、手が動かない。王妃のドレスの刺繍を進めなければならないのに、目が海に吸い寄せられる。水平線に帆影を探している。


(……何をしているの、私は)


 自分に問いかけた。答えは分かっている。分かっていて、認めたくない。


 港の漁師たちが言っていた。南方の海域で嵐が発生したらしいと。大型の嵐で、航路上の船は全て避難しているか、足止めを食っているかだと。


 足止め。そう、足止め。きっとどこかの港で待っているだけ。カイルは港町一の船長で、嵐の判断なら誰より優れている。大丈夫。大丈夫。大丈夫に決まっている。


 大丈夫。


 大丈夫よ。


 ……大丈夫なわけがなかった。手が震えている。針を持つ指先が、こんなに震えたのは、公爵家を出た朝以来だ。大丈夫と言えば言うほど、嘘の味がする。


 ◇


 気がつけば、港にいた。


 夕方の港は風が強かった。髪が乱れ、ショールが翻る。波が高い。白い飛沫が桟橋の板を叩いている。


 水平線を見つめた。灰色の空と灰色の海が溶け合って、境界が分からない。


(……帰ってきて)


 心の中で呟いた。誰にも聞こえない声で。


(お願いだから、帰ってきて)


 自分がこんなに誰かの帰りを待つ日が来るなんて思わなかった。十年間、公爵家で待っていたのは「旦那様が食卓に来る時間」であって、心が震えるような待ち方ではなかった。あれは義務だった。これは、。


(これは、何?)


 答えが出る前に、水平線に何かが見えた。


 帆だ。


 小さな帆のシルエットが、灰色の海の向こうに現れた。近づいてくる。ゆっくりと、しかし確実に。


 あの帆の形は、。


「北風号……!」


 走った。桟橋の端まで走った。足元の板が波で濡れていて滑りそうになったが、構わなかった。


 船が近づいてくる。帆は一部が破れ、船体には嵐の痕跡があった。でも、浮いている。ちゃんと浮いて、港に向かっている。


 船首に、男の影が見えた。日に焼けた肌。海風で乱れた黒髪。


 カイルだ。


 船が桟橋に着いた。ロープが投げられ、漁師たちが係留を手伝う。カイルが甲板から降りてきた。疲れた顔。唇が乾いて、目の下に隈がある。三日分の髭が顎を覆っている。


 目が合った。


 カイルが足を止めた。


「……散歩か?」


 かすれた声で言った。


「え、ええ、たまたま。たまたま港の方に」


 嘘だ。大嘘だ。朝からずっとここにいた。でもカイルは何も言わなかった。嘘だと分かっているはずなのに、追及しない。


(……ずるい人)


 ずるい。見抜いているくせに、泳がせてくれる。


 カイルの横を通り過ぎる時、マントから潮と雨の匂いがした。嵐の中を走ってきた船の匂い。生きて帰ってきた匂い。


 肋骨の内側で、何かが大きく揺れた。


(……ああ。これは、)


 これは、もう「気のせい」では済まない感情だ。


 港で待っていた。たまたまじゃない。散歩でもない。カイルが帰ってくるのを待っていた。三日間、ずっと。仕立ての手を止めて、水平線ばかり見ていた。


 十年間、旦那様の帰りを待つ時には一度も感じなかったこの胸の痛みを、何と呼べばいいのだろう。


 ◇


 同じ頃。王都のランベール公爵邸で、小さな地獄が進行していた。


 マリアンヌ・セレストが応接間に座り、涙を流していた。目の前にはヴィクトルが、疲れた顔で椅子に沈んでいる。


「私を正妻にしてくださるって、そう仰ったじゃありませんか」


「……言った覚えはない」


「でも、もうあの方はいらっしゃらないのでしょう? なら私が、」


「お前に何ができる」


 ヴィクトルの声は冷たかった。マリアンヌの顔が凍りつく。


「来月の社交シーズンの招待状は書けるか? 領地の収支報告は? 使用人の管理は? 今朝、厨房の新人が砂糖と塩を間違えた。たかが砂糖と塩だ。それすら、誰も気づかない」


 マリアンヌは唇を噛んだ。帳簿も料理の管理も、やったことがない。ヴィクトルの愛情だけが拠り所だった。でもその愛情は、今、別の名前を呼んでいた。


「……ロゼッタに戻ってきてほしい」


 ヴィクトルがそう呟いたのは、無意識だったかもしれない。でもマリアンヌは聞いていた。


「……っ」


 涙が溢れた。今度は悲しみではなく、屈辱の涙だった。


 マリアンヌが部屋を出た後、ヴィクトルは一人で書斎に入った。引き出しからロゼッタの書き置きを取り出す。もう何度も読んだ紙。折り目がすっかりくたびれている。


『長い間お世話になりました。お体にお気をつけて。』


 十年の結婚の、最後の言葉。


(……「お世話になりました」、か)


 ロゼッタは「愛していた」とも「恨んでいる」とも書かなかった。ただ「お世話になりました」と書いた。まるで、退職届のように。


 その事実が、ヴィクトルの胃の奥を冷たく抉った。


(俺は……あいつにとって、何だったんだ)


 答えは知っている。でも、認めるのが怖かった。


 ◇


 港町に、朝が来た。


 昨夜はほとんど眠れなかった。嵐の海から帰ったカイルの姿が、まぶたの裏にこびりついている。疲れた顔。かすれた声。でも生きていた。無事だった。


(……私、あの人のことを)


 認めてしまいそうで怖い。認めたら最後、もう友人には戻れない。十年間、感情を押し殺すことだけ上手になってしまった私には、この気持ちの扱い方が分からない。


 仕立て屋の窓を開けた。朝の海は嘘のように穏やかで、カモメが水面を掠めて飛んでいる。


 港に、カイルの船が停泊しているのが見えた。帆の修理をしているのだろう。小さな人影が甲板で動いている。


(……近いうちに、話があると言っていたっけ)


 カイルが帰港した時、最後にそう言っていた。何の話だろう。船の修理の相談かもしれないし、交易の話かもしれない。深い意味はないかもしれない。


 でも、「話がある」と言ったカイルの目は、いつもの無表情と少しだけ違った気がする。


 何が違ったのか、はっきりとは分からない。ただ、あの目を思い出すだけで、心臓がひとつ余計に鳴った。


 窓辺に置いたカイルの翡翠色の糸が、朝日を受けて静かに光っていた。その色を見つめていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
報告書も帳簿も読めなければ領地経営する理解出来ない当主に家臣に塩と砂糖を確認すら出来ない料理人。 当主から使用人まで、一般家庭以下の人間しか揃っていない公爵家って、ある意味すごいですw
>来月の社交シーズンの招待状は書けるか? 領地の収支報告は? 使用人の管理は? 家臣にやらせるか自分でやれよ。 招待状と使用人の管理はママンの領分かもしれんが、領地の収支報告はどう考えても仕えている…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ