第7話 嵐の夜
三日、帰ってこなかった。
カイルの船が出航してから、予定では五日で戻るはずだった。南方の島との短い交易航路。天候が安定している季節で、危険はないと聞いていた。
五日目の朝、港に船の姿はなかった。
六日目も。
七日目──今日も。
仕立て屋の窓から海を見ている自分がいた。針を持っているのに、手が動かない。王妃のドレスの刺繍を進めなければならないのに、目が海に吸い寄せられる。水平線に帆影を探している。
(……何をしているの、私は)
自分に問いかけた。答えは分かっている。分かっていて、認めたくない。
港の漁師たちが言っていた。南方の海域で嵐が発生したらしいと。大型の嵐で、航路上の船は全て避難しているか、足止めを食っているかだと。
足止め。そう、足止め。きっとどこかの港で待っているだけ。カイルは港町一の船長で、嵐の判断なら誰より優れている。大丈夫。大丈夫。大丈夫に決まっている。
大丈夫。
大丈夫よ。
……大丈夫なわけがなかった。手が震えている。針を持つ指先が、こんなに震えたのは、公爵家を出た朝以来だ。大丈夫と言えば言うほど、嘘の味がする。
◇
気がつけば、港にいた。
夕方の港は風が強かった。髪が乱れ、ショールが翻る。波が高い。白い飛沫が桟橋の板を叩いている。
水平線を見つめた。灰色の空と灰色の海が溶け合って、境界が分からない。
(……帰ってきて)
心の中で呟いた。誰にも聞こえない声で。
(お願いだから、帰ってきて)
自分がこんなに誰かの帰りを待つ日が来るなんて思わなかった。十年間、公爵家で待っていたのは「旦那様が食卓に来る時間」であって、心が震えるような待ち方ではなかった。あれは義務だった。これは、。
(これは、何?)
答えが出る前に、水平線に何かが見えた。
帆だ。
小さな帆のシルエットが、灰色の海の向こうに現れた。近づいてくる。ゆっくりと、しかし確実に。
あの帆の形は、。
「北風号……!」
走った。桟橋の端まで走った。足元の板が波で濡れていて滑りそうになったが、構わなかった。
船が近づいてくる。帆は一部が破れ、船体には嵐の痕跡があった。でも、浮いている。ちゃんと浮いて、港に向かっている。
船首に、男の影が見えた。日に焼けた肌。海風で乱れた黒髪。
カイルだ。
船が桟橋に着いた。ロープが投げられ、漁師たちが係留を手伝う。カイルが甲板から降りてきた。疲れた顔。唇が乾いて、目の下に隈がある。三日分の髭が顎を覆っている。
目が合った。
カイルが足を止めた。
「……散歩か?」
かすれた声で言った。
「え、ええ、たまたま。たまたま港の方に」
嘘だ。大嘘だ。朝からずっとここにいた。でもカイルは何も言わなかった。嘘だと分かっているはずなのに、追及しない。
(……ずるい人)
ずるい。見抜いているくせに、泳がせてくれる。
カイルの横を通り過ぎる時、マントから潮と雨の匂いがした。嵐の中を走ってきた船の匂い。生きて帰ってきた匂い。
肋骨の内側で、何かが大きく揺れた。
(……ああ。これは、)
これは、もう「気のせい」では済まない感情だ。
港で待っていた。たまたまじゃない。散歩でもない。カイルが帰ってくるのを待っていた。三日間、ずっと。仕立ての手を止めて、水平線ばかり見ていた。
十年間、旦那様の帰りを待つ時には一度も感じなかったこの胸の痛みを、何と呼べばいいのだろう。
◇
同じ頃。王都のランベール公爵邸で、小さな地獄が進行していた。
マリアンヌ・セレストが応接間に座り、涙を流していた。目の前にはヴィクトルが、疲れた顔で椅子に沈んでいる。
「私を正妻にしてくださるって、そう仰ったじゃありませんか」
「……言った覚えはない」
「でも、もうあの方はいらっしゃらないのでしょう? なら私が、」
「お前に何ができる」
ヴィクトルの声は冷たかった。マリアンヌの顔が凍りつく。
「来月の社交シーズンの招待状は書けるか? 領地の収支報告は? 使用人の管理は? 今朝、厨房の新人が砂糖と塩を間違えた。たかが砂糖と塩だ。それすら、誰も気づかない」
マリアンヌは唇を噛んだ。帳簿も料理の管理も、やったことがない。ヴィクトルの愛情だけが拠り所だった。でもその愛情は、今、別の名前を呼んでいた。
「……ロゼッタに戻ってきてほしい」
ヴィクトルがそう呟いたのは、無意識だったかもしれない。でもマリアンヌは聞いていた。
「……っ」
涙が溢れた。今度は悲しみではなく、屈辱の涙だった。
マリアンヌが部屋を出た後、ヴィクトルは一人で書斎に入った。引き出しからロゼッタの書き置きを取り出す。もう何度も読んだ紙。折り目がすっかりくたびれている。
『長い間お世話になりました。お体にお気をつけて。』
十年の結婚の、最後の言葉。
(……「お世話になりました」、か)
ロゼッタは「愛していた」とも「恨んでいる」とも書かなかった。ただ「お世話になりました」と書いた。まるで、退職届のように。
その事実が、ヴィクトルの胃の奥を冷たく抉った。
(俺は……あいつにとって、何だったんだ)
答えは知っている。でも、認めるのが怖かった。
◇
港町に、朝が来た。
昨夜はほとんど眠れなかった。嵐の海から帰ったカイルの姿が、まぶたの裏にこびりついている。疲れた顔。かすれた声。でも生きていた。無事だった。
(……私、あの人のことを)
認めてしまいそうで怖い。認めたら最後、もう友人には戻れない。十年間、感情を押し殺すことだけ上手になってしまった私には、この気持ちの扱い方が分からない。
仕立て屋の窓を開けた。朝の海は嘘のように穏やかで、カモメが水面を掠めて飛んでいる。
港に、カイルの船が停泊しているのが見えた。帆の修理をしているのだろう。小さな人影が甲板で動いている。
(……近いうちに、話があると言っていたっけ)
カイルが帰港した時、最後にそう言っていた。何の話だろう。船の修理の相談かもしれないし、交易の話かもしれない。深い意味はないかもしれない。
でも、「話がある」と言ったカイルの目は、いつもの無表情と少しだけ違った気がする。
何が違ったのか、はっきりとは分からない。ただ、あの目を思い出すだけで、心臓がひとつ余計に鳴った。
窓辺に置いたカイルの翡翠色の糸が、朝日を受けて静かに光っていた。その色を見つめていた。




