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十年尽くした妻が消えた朝、公爵家は紅茶の淹れ方すら分からなかった  作者: 九葉(くずは)
第1章

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第6話 社交の季節

 王家の紋章入りの封筒が、港町の仕立て屋に届いた。私は三度、宛名を確認した。


「ロゼッタ・ハーヴェン様」


 ハーヴェン。旧姓だ。功労離縁の正式手続きはまだ済んでいないけれど、この宛名は、送り主が私の現在の状況を知っているということだ。


 封を切る。指先がわずかに震えた。


『ロゼッタ・ハーヴェン様。このたび、年末の王宮夜会にて着用するドレスの仕立てをお願いしたく、お手紙を差し上げます。先日、私の侍女があなたのお店を拝見し、その刺繍の技に深く感銘を受けました。つきましては、 マルグリット王妃』


 手紙を持つ手が、完全に止まった。


(王妃……陛下が?)


 あの日、店の前に立っていた上品な女性。あれは王妃付きの侍女だったのだ。外套の裏地に見えた紋章は、見間違いではなかった。


 テーブルの上に手紙を置いて、椅子に座り直した。膝が笑っている。王宮夜会のドレス。それも王妃のご依頼。これは、公爵夫人時代にもなかった仕事だ。


(できる? 私に?)


 自問した。答えは、できる。技術的には、間違いなくできる。十年間、王都の社交界で最高級の衣装を見てきた。生地の選び方、縫製の基準、どんな刺繍が王宮の照明の下で映えるか、全て知っている。


 それと、祖母から受け継いだ技がある。港町の波模様。二つを合わせれば──王都のどの仕立て屋にもない一着が作れる。


 深呼吸をした。


「……お引き受けします」


 返事の手紙を書き始めた。万年筆のインクは、もう震えなかった。


 ◇


 その日の夕方。カイルの船が港に帰ってきた。


 二週間の航海だった。南の島々を回って交易品を積んでくる航路。船着き場で荷下ろしをするカイルの姿を、仕立て屋の窓から見ていた。


(……見ているだけで、別に意味はない)


 自分に言い訳しながら、針の手を止めていたことには気づかないふりをした。


 日が暮れた頃、カイルが仕立て屋に来た。手に小さな包みを持っている。


「向こうで見つけた。使えるなら」


 包みを開けた。


 色とりどりの刺繍糸。赤、金、銀、そして、見たことのない深い翡翠色。南方の島でしか採れない染料で染めた糸だ。細く、しなやかで、光を含んで輝く。


「カイル、これは……」


「向こうの染め師に頼んだ。港で時間があったから」


 さらりと言う。でも、染め師に頼んで糸を染めてもらうには時間もお金もかかる。「港で時間があった」なんて嘘だ。航海中の港での停泊時間は荷の積み下ろしで忙しいはず。わざわざ染め師を探して、交渉して、仕上がりを待ったのだ。


(……この人は、本当に)


 糸を手に取った。指先に吸いつくような質感。この翡翠色があれば──王妃のドレスに、誰も見たことのない色彩を入れられる。


「ありがとう。……すごく、嬉しい」


 声が少しだけ詰まった。カイルは「ああ」とだけ言って、窓枠に凭れた。


 二人の間に沈黙が流れた。でも居心地の悪い沈黙ではなかった。店の中に残る布と染料の匂いと、窓から入る潮風が混ざっている。カイルがいると、この店がほんの少しだけ温かくなる気がする。


 ふと気づいた。カイルの手の甲に、古い火傷の痕があった。航海中にロープで擦れたのだろうか。赤黒い線が手首まで走っている。


 十年間、海の上で戦ってきた手だ。


 その手が、私のために看板を彫り、薪を割り、窓を直し、糸を買ってきた。言葉にしない代わりに、全部その手でやってくれた。


(……気のせいだってば)


 何度目の「気のせい」だろう。いい加減、自分の言い訳のレパートリーが尽きてきた。


 ◇


 一方、王都では社交シーズンが始まっていた。


 秋の大夜会に向けた招待状の差配。これはロゼッタが毎年一人で取り仕切っていた仕事だった。


 百を超える貴族家に送る招待状。席順の決定。テーブルの配置。料理の手配。楽団の選定。花の種類と色の組み合わせ。全てに暗黙のルールがあり、一つでも間違えれば外交問題になりかねない。


 公爵家は派手に間違えた。


 招待状の日付を二種類印刷してしまい、半分の客が一週間早く来る事態が発生した。席順では格上の侯爵家を格下の席に置き、先方から「侮辱か」と抗議が来た。ヘレーナが自ら差配しようとしたが、五年前にロゼッタに全権委任していた事実を忘れていた。いや、忘れたふりをしていた。


「私が教えたはずでしょう! なぜ誰もできないの!」


 ヘレーナが使用人たちの前で声を荒げた。


 沈黙。


 誰も答えなかった。使用人たちは目を伏せ、唇を噛んでいた。答えは全員が知っている。教えたのはヘレーナではない。全てを取り仕切っていたのはロゼッタだ。ヘレーナは五年前から名前だけの監督で、実務は一切ロゼッタに任せていた。


「ヘレーナ様」


 メイベルが静かに口を開いた。


「招待状の格付け、席順の決定、料理と花の手配──全て、ロゼッタ様がお一人でなさっていました。引き継ぎの書類もございません。ロゼッタ様の頭の中にだけ、あったことですので」


 ヘレーナの顔から血の気が引いた。


 その場にいた使用人全員が、メイベルの言葉に、沈黙で同意した。


 格下の席に割り当てられた結果、秋の夜会で公爵家のテーブルは端の方に追いやられた。かつてはホールの中央を占めていたランベール家が、今は壁際だ。


 ヘレーナはその夜、一言も口をきかなかった。


 ◇


 港町の仕立て屋に戻ろう。


 王妃からの依頼を受けてから、私は毎晩遅くまでドレスの構想を練っていた。デザイン画を何枚も描き、布地の組み合わせを試し、刺繍のパターンを考える。


 藍の絹地をベースに、カイルが持ってきた翡翠色の糸で波を走らせる。金糸で光の帯を入れて、銀糸で花弁を散らす。海と空と光をドレスに閉じ込めるような──そんな一着にしたい。


 針を持つ手が、久しぶりに高揚している。帳簿を書いていた十年間、忘れていた感覚だ。布と糸に触れている時の、この胸の高鳴り。


 窓の外に海が見える。月明かりに照らされた波が、銀色に光っている。


(きれい……)


 このドレスが完成したら。王妃が纏ったら。夜会のホールで、あの翡翠色が照明を受けて輝いたら。


 私の名前で、私の仕事として、人に届く。


 初めて。


 その想像だけで、針を持つ指先に力が入った。


 テーブルの上に、カイルがくれた翡翠色の糸が月光を受けて静かに輝いていた。この色を見るたび、あの人が南の港で染め師と交渉している姿が浮かぶ。


 不器用で、寡黙で、何も言わない人。


 でも、その不器用さが、今の私には、何より誠実に見えた。

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― 新着の感想 ―
どういう設定なの。ガバすぎんだろww こんなざるに家を出て、特に変装もしてないなくて、バレない方がおかしい。使用人も手紙だしてるしね。 そして何でその辺の針子にいきなり王妃が依頼するのw しかも自筆…
自分がロゼッタの身になったら、と考える能力があれば「無責任」という言葉は出て来ないと思うけどね。 なんで自分を10年間虐げてきた家のために引き継ぎ書なんて作らなきゃならん?それは責任感があるんじゃなく…
業務を属人化させて他人には回せないように仕向けておいて私有能でしょってやるのはハッキリ言って最低の害悪ムーブなんだけど最近そういう主人公多いなあ…
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