第5話 看板
カイルが看板を作ってきた。航海用の廃材で、と言っていたけれど、丁寧に磨かれた木肌は嘘をつかない。手で触れると、するりと滑らかだった。何度もやすりをかけた手触り。
「……これ、廃材じゃないでしょう」
「廃材だ」
カイルは私の視線を避けるように、黙々と看板を壁に取りつけ始めた。釘を打つ手つきは慣れたもので、金槌が正確にリズムを刻む。船乗りの手は器用だ。帆の修繕も、甲板の補修も、全部自分でやるのだろう。数分もかからず、看板はしっかりと壁に固定された。
看板には「ハーヴェン仕立て屋」の文字。その下に、小さな船の絵が彫ってあった。
帆を張った船。波の上を滑るように走る、小さな一隻の帆船。
「……この船」
背筋がざわついた。どこかで見たことがある。いや、見たことがあるどころじゃない。
「なんだか、昔私が描いた絵に似ている」
子供の頃、祖母の仕立て台の脇で、端切れの裏に描いた船の絵。帆が大きすぎて、波が三角で、お世辞にも上手とは言えない絵。でも、あの頃の私はあの絵を気に入っていて、仕立て台の脚に貼りつけていた。
「そうか?」
カイルは工具を片づけながら、こちらを見もしなかった。
(……偶然、かな)
偶然だろう。二十年も前の子供の落書きを、誰が覚えているだろうか。でも、あの絵の帆の形と、看板の船の帆の形が、妙に重なる。あの独特のふくらみ方。左に少しだけ傾いた角度。
……気のせいだ。そう思うことにした。
「カイル、ありがとう。すてきな看板です」
「……ああ」
耳の先が、また少し赤い。夕日のせいだと思うことにした。何もかも夕日のせいにしている自分に、少し笑いそうになった。
◇
仕立て屋は順調だった。開店から三週間。最初は港町の住人だけだった客が、今では隣町からも来るようになっていた。
きっかけは、漁師の妻マルタが教会の集まりで私の仕立てた服を着ていったこと。隣町の農家の奥さんが「その刺繍、どちらで?」と聞き、翌週には仕立てを依頼しに来た。そこからまた口伝えで広がり、気がつけば注文が十件を超えていた。
特に評判だったのは、刺繍だった。
祖母から教わった港町の伝統的な波模様に、公爵家の十年間で身につけた貴族好みの繊細な技法を組み合わせた。港町の素朴な力強さと、宮廷の優美さ。相反する二つが出会って、どこにもない独自の刺繍になった。
「ロゼッタ様の刺繍は別格ですわ」
隣町の商家の夫人がため息混じりに言った。日曜礼拝用のショールに波と花を組み合わせた刺繍を入れたものだ。藍色の絹地に銀糸で波を走らせ、その合間に白い小花を散らした。
「こんな美しい仕事、王都でも見たことがありません」
褒められて、また固まった。両手で針を握ったまま、何と返していいか分からなくなる。
(……慣れなきゃ。褒められることに、慣れなきゃ)
十年間、褒められなかった。「当然」「嫁として当たり前」「私が教えたおかげ」。それしか聞かなかった。だから、素直な称賛を向けられると、身体が固まる。喉が詰まる。耳が熱くなる。
あの屋敷が奪ったのは、時間だけじゃなかった。「ありがとう」を受け取る練習をする機会すら、奪われていたのだ。
(……でも、ここなら取り戻せる。少しずつでいい)
笑顔を返した。ぎこちなくて、きっと不格好だったけれど、陶器の微笑みではなく本物の笑顔だった。
◇
その頃、公爵家では、使用人の離脱が始まっていた。
メイベルからの手紙は読まないと決めていた。決めていたのに、今朝届いた封筒を、つい開けてしまった。
『奥様。お元気でいらっしゃいますか。お伝えすべきかどうか迷いましたが、厨房のリーナと、洗濯場のジョセフが辞めました。「奥様がいない屋敷では働けない」と。残った者たちも動揺しています。ヘレーナ太夫人は使用人に厳しく当たるばかりで、状況は悪くなる一方です。
私はまだここにおります。奥様が残してくださった帳簿を、できる限り守ろうと思います。どうかご無理はなさらず。お元気でいてくださるだけで、私は十分です。 メイベル』
手紙を読み終えて、そっと折り畳んだ。
(リーナ。ジョセフ……)
二人とも、私が面接して採用した子たちだ。リーナはパイ生地を作るのが得意で、ジョセフは歌いながら洗濯物を干す陽気な青年だった。リーナの焼いたアップルパイは義母も黙って食べていた。ジョセフの歌声は中庭まで響いて、洗濯日は屋敷が少しだけ明るくなった。
鳩尾が重くなった。彼らに申し訳ない気持ちがある。でも、私が戻ったところで、何も解決しない。問題は私がいるかいないかではなく、あの屋敷が誰の仕事も正当に評価しなかったということだ。私がいた十年間も、いなくなった今も、本質は同じ。
手紙を引き出しの奥にしまった。返事は、書かないでおく。書いたら、情が引っ張る。
◇
その日の夕方、仕立て屋の前に見慣れない女性が立っていた。
上品な旅装。髪をきちんとまとめ、目立たないが質の良い外套を羽織っている。港町の住人ではない。立ち姿に隙がなく、背筋の伸ばし方に教育が見える。
女性は店の中を覗き込み、飾ってある刺繍のショールに目を留めた。
「……まぁ、素敵なお店。この刺繍は、ここのお方が?」
「はい、私が手がけました」
女性が一歩店内に入った。ショールを手に取り、光に透かして織り目を確認する。その仕草は、布の価値が分かる人間のものだった。
「美しい。波の曲線と花弁の配置が、とても独創的ですわね。宮廷の技法と、この土地の伝統が混ざり合っている」
(宮廷の技法と分かるということは、)
この人は、ただの旅行者ではない。
「お目が高い。ありがとうございます」
「ふふ、またお伺いしますわ」
女性は微笑んで、それ以上は何も言わずに去っていった。名前も名乗らなかった。
去り際に、外套の裾が風でめくれた。裏地に、小さな紋章が刺繍されていた。金糸で織られた獅子と百合の紋章。あれは確か──いや、見間違いかもしれない。
(……まさか、ね)
看板の船の絵が、夕日を受けて長い影を落としていた。カイルが彫った小さな船。私が二十年前に描いた船と、同じ形の帆。
偶然だと、まだ思っている。でも、偶然にしては、なぜだか心が温かかった。
明日はカイルが航海から戻る日だ。あの刺繍糸の在庫を確認しておこう。新しい糸で、次はどんな模様を生み出せるだろう。




