表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
十年尽くした妻が消えた朝、公爵家は紅茶の淹れ方すら分からなかった  作者: 九葉(くずは)
第4章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

40/40

第40話 四つ目の鋏

 産後一月。


 仕立て屋の窓を開けた。海風が入ってくる。潮の匂い。カモメの声。メイベルが一階で朝食を作っている音。ヘレーナさんが離れで刺繍をしている気配。この家の朝には四つの命の気配がある。五つ目が揺りかごの中で眠っている。


 揺りかごの中でリゼが眠っている。カイルが作った揺りかご。木の香りがする。小さな手が掛け布の上に出ていて握ったり開いたりしている。夢の中で何かを掴んでいるのだろうか。それとも放しているのだろうか。


 仕立て台に向かった。一ヶ月ぶりに針を持つ。指先が布に触れた瞬間、身体が思い出した。この感触。布の織り目が指先に語りかける。何を縫うべきか布が教えてくれる。一ヶ月の空白はあったけれど、十年の空白に比べれば何でもない。


 注文は溜まっていた。メイベルが一ヶ月分の受注を帳簿で丁寧に管理してくれていた。隣町の農家の嫁入り衣装、港町の漁師の妻の晴れ着、王都の貴婦人のショール。全部私の手で。私の名前で。


 針を持つ手は、もう震えていなかった。


 ◇


 昼過ぎ、ヘレーナさんが仕立て屋に来た。


 手に小さな包みを持っていた。布に包まれた細長いもの。その形を見た瞬間、身体が反応した。仕立てをやっている人間なら布越しでも分かる。鋏の形だ。刃の長さ、持ち手の角度、重さの配分。間違いない。


「ロゼッタ」


 名前を呼ばれた。「さん」がない。ヘレーナさんが本気の時だけ「さん」が落ちる。病室で「話がある」と言った時と同じだ。


「これを」


 包みを仕立て台の上に置いた。


 布を開いた。


 裁ち鋏だった。


 小さい。大人の手には収まらない。子供の掌に合わせた小さな鋏。刃は鋭く持ち手は丁寧に磨かれている。新品の銀色の光。港町の鍛冶の仕事だ。刃の角度が正確で、開閉が滑らか。上質な鋏だった。


 持ち手に模様が彫られていた。


 波。そして百合。


 波はロゼッタの紋様。裾に走らせる海の曲線。あの刺繍のうねり。百合はヘレーナさんの紋様。白い絹に繍う花。光に透かして初めて見える花。二つの模様が一つの持ち手に交わっている。海と花。港町とかつての公爵邸。私とこの人の歴史が小さな鋏の中で溶け合っている。


「ヘレーナさん、これ……」


「港町の鍛冶に頼んだの。一月かかった。あなたが出産で寝ている間に仕上がった。彫刻の下絵は私が描いたわ。百合は得意だけれど波はあなたの刺繍を見て真似た。上手くいったかどうか分からないけれど」


 手紙が添えてあった。ヘレーナさんの端正な筆跡。書簡の束と同じ揺るぎのない文字。


『この子が大きくなったら渡してちょうだい。


 使うも使わないもこの子が決めること。鋏を持つかどうかは誰かに決められるものではないから。


 私はそれを四十年かけて学んだの。


 この鋏には波と百合を彫らせた。あなたの海と私の花。二つの女の歴史がこの刃に入っている。でもこの子は波でも百合でもない何かを自分で選ぶかもしれない。それでいい。それが一番いい。


 お祖母様のマーガレットは鋏で逃げる自由を切り開いた。

 私は四十年間鋏を油紙に包んで眠らせた。

 あなたは十年の空白を越えて鋏を取り戻した。


 この子の鋏には最初から「選ぶ自由」を入れた。封じられることも隠されることもないように。


 ヘレーナ』


 鋏を手のひらに乗せた。小さくて軽くて、でもずしりと重い。四十年分と十年分と、そして未来の重さ。三世代の女の歴史がこの小さな刃に凝縮されている。


 視界が滲んだ。鋏の刃の上に、小さな水滴が落ちた。


「ヘレーナさん」


「泣くんじゃないわよ。刃が錆びるでしょう」


 笑った。泣きながら。いつもこうだ。この仕立て屋では泣くことと笑うことの境目がない。


 仕立て台の上に四つの鋏を並べた。


 祖母マーガレットの鋏。逃げる自由を切り開いた刃。持ち手が磨り減って指の形に馴染んでいる。何百着もの服を裁いた。


 ヘレーナさんの百合の鋏。四十年の沈黙から目覚めた刃。持ち手の百合の彫刻が陽だまりの中で光っている。油紙の中で眠り続けて錆びなかった。手入れだけが続いた四十年。


 私の鋏。十年の空白を越えて光を受けた刃。毎日使っている。この一年半分の仕事の記憶が刻まれている。


 そしてリゼの鋏。波と百合が交わる持ち手。最初から「選ぶ自由」が刻まれた刃。まだ誰にも使われていない新しい銀色。


 四つの鋏。四つの人生。四人の女。


 窓から海風が吹き込んだ。仕立て台の上の布がふわりと揺れた。四つの鋏が光を受けて銀色に閃いた。


 揺りかごの中でリゼが目を覚ました。小さな声を上げた。手を伸ばしている。何かを掴もうとしているような放そうとしているような。まだ何も握れない小さな手。この手が鋏を握る日が来るかもしれない。来ないかもしれない。船の舵輪を握るかもしれない。本の頁をめくるかもしれない。何を選んでもいい。


 選ぶのはこの子だ。


 カイルが仕立て屋の戸を開けた。


「よう」


「おかえり」


 いつもの挨拶。いつもの短い会話。カイルが仕立て台の四つの鋏を見た。何も聞かなかった。ただ小さな仕立て台の方に目をやって少しだけ頷いた。あの台の上にいつか四つ目の鋏が置かれるかもしれない。


 海風が看板の船の絵を揺らしている。二十年前に私が描いた船。カイルが覚えていてくれた船。リゼの仕立て台の脚にも同じ船が彫ってある。三つの船。三つの場所。全部同じ形。


 潮の匂いがする。カモメが鳴いている。どこかの家からパンの焼ける匂いがする。リゼが小さな声を上げた。メイベルが階段を上がってくる足音がする。ヘレーナさんの百合の鋏が陽だまりの中で光っている。


 全部、私の日常だ。自分で選んだ自分の日常。そしてこの子の始まりの朝。


 仕立て台に向かった。今日の仕事が待っている。


 隣の椅子にカイルのマントが掛かっている。昨日もここにあった。明日もここにある。明後日も。その先も。


 カイルが窓際に凭れた。腕を組んで海の方を見ている。あの日、港で初めて再会した時と同じ姿勢。あの時マントをかけてくれた。「海風は冷たい」とだけ言って。今はマントの代わりに揺りかごと仕立て台をくれた。言葉の代わりに木を削った。全部同じだ。この人の愛情の形は最初から変わっていない。


 リゼの揺りかごの隣にカイルが作った小さな仕立て台がある。台の上にはまだ何も置いていない。いつかここに四つ目の鋏が並ぶかもしれない。




 針を持つ手は、もう震えていない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
リゼ、利き腕右だといいなぁ 裁ち鋏は普通の鋏と違って、逆手じゃ全然切れないから⋯
ヘレーナさん元気なら帰ればいいのに。居座るのかな。 良くも悪くも与えられた場所から動かない人なのかな。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ