第40話 四つ目の鋏
産後一月。
仕立て屋の窓を開けた。海風が入ってくる。潮の匂い。カモメの声。メイベルが一階で朝食を作っている音。ヘレーナさんが離れで刺繍をしている気配。この家の朝には四つの命の気配がある。五つ目が揺りかごの中で眠っている。
揺りかごの中でリゼが眠っている。カイルが作った揺りかご。木の香りがする。小さな手が掛け布の上に出ていて握ったり開いたりしている。夢の中で何かを掴んでいるのだろうか。それとも放しているのだろうか。
仕立て台に向かった。一ヶ月ぶりに針を持つ。指先が布に触れた瞬間、身体が思い出した。この感触。布の織り目が指先に語りかける。何を縫うべきか布が教えてくれる。一ヶ月の空白はあったけれど、十年の空白に比べれば何でもない。
注文は溜まっていた。メイベルが一ヶ月分の受注を帳簿で丁寧に管理してくれていた。隣町の農家の嫁入り衣装、港町の漁師の妻の晴れ着、王都の貴婦人のショール。全部私の手で。私の名前で。
針を持つ手は、もう震えていなかった。
◇
昼過ぎ、ヘレーナさんが仕立て屋に来た。
手に小さな包みを持っていた。布に包まれた細長いもの。その形を見た瞬間、身体が反応した。仕立てをやっている人間なら布越しでも分かる。鋏の形だ。刃の長さ、持ち手の角度、重さの配分。間違いない。
「ロゼッタ」
名前を呼ばれた。「さん」がない。ヘレーナさんが本気の時だけ「さん」が落ちる。病室で「話がある」と言った時と同じだ。
「これを」
包みを仕立て台の上に置いた。
布を開いた。
裁ち鋏だった。
小さい。大人の手には収まらない。子供の掌に合わせた小さな鋏。刃は鋭く持ち手は丁寧に磨かれている。新品の銀色の光。港町の鍛冶の仕事だ。刃の角度が正確で、開閉が滑らか。上質な鋏だった。
持ち手に模様が彫られていた。
波。そして百合。
波はロゼッタの紋様。裾に走らせる海の曲線。あの刺繍のうねり。百合はヘレーナさんの紋様。白い絹に繍う花。光に透かして初めて見える花。二つの模様が一つの持ち手に交わっている。海と花。港町とかつての公爵邸。私とこの人の歴史が小さな鋏の中で溶け合っている。
「ヘレーナさん、これ……」
「港町の鍛冶に頼んだの。一月かかった。あなたが出産で寝ている間に仕上がった。彫刻の下絵は私が描いたわ。百合は得意だけれど波はあなたの刺繍を見て真似た。上手くいったかどうか分からないけれど」
手紙が添えてあった。ヘレーナさんの端正な筆跡。書簡の束と同じ揺るぎのない文字。
『この子が大きくなったら渡してちょうだい。
使うも使わないもこの子が決めること。鋏を持つかどうかは誰かに決められるものではないから。
私はそれを四十年かけて学んだの。
この鋏には波と百合を彫らせた。あなたの海と私の花。二つの女の歴史がこの刃に入っている。でもこの子は波でも百合でもない何かを自分で選ぶかもしれない。それでいい。それが一番いい。
お祖母様のマーガレットは鋏で逃げる自由を切り開いた。
私は四十年間鋏を油紙に包んで眠らせた。
あなたは十年の空白を越えて鋏を取り戻した。
この子の鋏には最初から「選ぶ自由」を入れた。封じられることも隠されることもないように。
ヘレーナ』
鋏を手のひらに乗せた。小さくて軽くて、でもずしりと重い。四十年分と十年分と、そして未来の重さ。三世代の女の歴史がこの小さな刃に凝縮されている。
視界が滲んだ。鋏の刃の上に、小さな水滴が落ちた。
「ヘレーナさん」
「泣くんじゃないわよ。刃が錆びるでしょう」
笑った。泣きながら。いつもこうだ。この仕立て屋では泣くことと笑うことの境目がない。
仕立て台の上に四つの鋏を並べた。
祖母マーガレットの鋏。逃げる自由を切り開いた刃。持ち手が磨り減って指の形に馴染んでいる。何百着もの服を裁いた。
ヘレーナさんの百合の鋏。四十年の沈黙から目覚めた刃。持ち手の百合の彫刻が陽だまりの中で光っている。油紙の中で眠り続けて錆びなかった。手入れだけが続いた四十年。
私の鋏。十年の空白を越えて光を受けた刃。毎日使っている。この一年半分の仕事の記憶が刻まれている。
そしてリゼの鋏。波と百合が交わる持ち手。最初から「選ぶ自由」が刻まれた刃。まだ誰にも使われていない新しい銀色。
四つの鋏。四つの人生。四人の女。
窓から海風が吹き込んだ。仕立て台の上の布がふわりと揺れた。四つの鋏が光を受けて銀色に閃いた。
揺りかごの中でリゼが目を覚ました。小さな声を上げた。手を伸ばしている。何かを掴もうとしているような放そうとしているような。まだ何も握れない小さな手。この手が鋏を握る日が来るかもしれない。来ないかもしれない。船の舵輪を握るかもしれない。本の頁をめくるかもしれない。何を選んでもいい。
選ぶのはこの子だ。
カイルが仕立て屋の戸を開けた。
「よう」
「おかえり」
いつもの挨拶。いつもの短い会話。カイルが仕立て台の四つの鋏を見た。何も聞かなかった。ただ小さな仕立て台の方に目をやって少しだけ頷いた。あの台の上にいつか四つ目の鋏が置かれるかもしれない。
海風が看板の船の絵を揺らしている。二十年前に私が描いた船。カイルが覚えていてくれた船。リゼの仕立て台の脚にも同じ船が彫ってある。三つの船。三つの場所。全部同じ形。
潮の匂いがする。カモメが鳴いている。どこかの家からパンの焼ける匂いがする。リゼが小さな声を上げた。メイベルが階段を上がってくる足音がする。ヘレーナさんの百合の鋏が陽だまりの中で光っている。
全部、私の日常だ。自分で選んだ自分の日常。そしてこの子の始まりの朝。
仕立て台に向かった。今日の仕事が待っている。
隣の椅子にカイルのマントが掛かっている。昨日もここにあった。明日もここにある。明後日も。その先も。
カイルが窓際に凭れた。腕を組んで海の方を見ている。あの日、港で初めて再会した時と同じ姿勢。あの時マントをかけてくれた。「海風は冷たい」とだけ言って。今はマントの代わりに揺りかごと仕立て台をくれた。言葉の代わりに木を削った。全部同じだ。この人の愛情の形は最初から変わっていない。
リゼの揺りかごの隣にカイルが作った小さな仕立て台がある。台の上にはまだ何も置いていない。いつかここに四つ目の鋏が並ぶかもしれない。
針を持つ手は、もう震えていない。




