第4話 定期市の朝
朝、玄関を開けると、薪が積まれていた。昨日もだった。一昨日もだった。
きれいに割られた薪が、扉の脇に几帳面に積み上げられている。朝露で少しだけ湿っているから、夜明け前に置いていったのだろう。積み方に癖がある。大きい薪が下、小さい薪が上。火をつけやすい順番になっている。
(……カイル)
姿は見えない。とっくに港にいるはずだ。出航の準備があるのに、わざわざ夜明け前にここまで来て、薪を置いて、黙って帰っていく。直接渡せばいいのに、そうしないところがあの人らしいというか何というか。
ため息が出た。呆れたため息ではなく──なんだろう、胸の奥がくすぐったいような、困ったような。
「……ありがとう、届いてますよ」
誰もいない朝の空気に向かって、小さく呟いた。返事があるはずもない。でも、薪を一本手に取ると、まだほんのりと誰かの体温が残っているような気がした。
(気のせいだってば)
◇
仕立て屋の開店準備は着々と進んでいた。
エリオット町長の口利きで壁の漆喰を直してもらい、窓ガラスを入れ替えた。棚を磨き、祖母の道具を並べ直し、カイルがくれた南方の藍の反物を一番目立つ場所に飾った。
そして今日が、開店の日だった。
扉を開け放つ。潮風が店内を抜けていく。まだ看板はないけれど、エリオットが町中に声をかけてくれたらしい。
最初の客は、漁師の妻のマルタだった。
「ロゼッタちゃん! あんたのおばあちゃんには何着も作ってもらったよ。帰ってきたんだねえ」
マルタは日焼けした顔をくしゃくしゃにして、腕に抱えた作業着を差し出した。
「これ、うちの人の。肘のとこが破れちゃって。繕ってもらえるかい?」
「もちろんです」
作業着を受け取る。丈夫な木綿の生地。破れの周辺を確認し、補強の当て布のサイズを見積もる。手が勝手に動く。十年のブランクが嘘のように、指先が覚えていた。
マルタに続いて、パン屋の奥さん、船大工の娘、港の酒場の女将と、次々に客が来た。修繕がほとんどだったが、中にはエプロンの仕立て直しや子供服の注文もあった。
昼過ぎには小さな店が人でいっぱいになっていた。皆、世間話をしながら順番を待っている。港町の噂、天気の話、魚の値段。公爵家の屋敷では聞いたことのない、生活の温度がある会話。
「あんた、腕がいいねえ。おばあちゃん譲りだ」
船大工の娘に言われて、手が止まった。
「……ありがとう、ございます」
声が少し裏返った。褒められ慣れていない。十年間、公爵家では何をしても「当然」で片づけられていた。社交界の夜会を完璧に仕切っても、領地の税収を二割増やしても、誰も何も言わなかった。
ここでは、普通に褒めてくれる。それがこんなに戸惑うものだとは知らなかった。
(……ああ、これだ)
針を動かしながら、目が少し熱くなった。誰かの服を直して、その人が笑ってくれる。それだけのことが、こんなに嬉しい。
これが、私が、したかったこと。
夕方近くには、お茶を差し入れてくれる客までいた。パン屋の奥さんが焼きたてのクルミパンを「開店祝いよ」と置いていき、酒場の女将が「うちの常連にも宣伝しとくからね」と笑った。
公爵家では、こんな風に人と関わることはなかった。全ては格式と体面と義務の中にあった。ここにあるのは、ただの暮らしだ。
◇
同じ日の昼。王都から東に馬車で半日ほどの、ランベール公爵領の定期市では、大混乱が起きていた。
市場の広場に、商人の姿がまばらだった。いつもなら百を超える出店が並ぶはずの通りに、三十ほどしか幕屋が立っていない。空いた区画に風が吹き抜けて、砂埃が舞い上がった。
「おい、今月の場所割りは誰が決めたんだ。うちの区画は去年と違うぞ」
「知らんよ。ロゼッタ様がいなくなってから、何もかもが滅茶苦茶だ」
商人たちの苛立ちが、広場の空気をとげとげしくしていた。
ヴィクトルの部下──領地管理官のベネットが汗だくで走り回っている。
「あ、あの、出店料の計算が……ロゼッタ様は帳簿で管理されていたのですが、その帳簿の見方が……」
「分からんのか!」
「は、はい……ロゼッタ様は全て暗記なさっていて、帳簿は記録用だと……運用は全てロゼッタ様のお口添えで回っておりまして……」
商人の一人が、吐き捨てるように言った。
「俺たちは公爵家と取引していたんじゃない。ロゼッタ様と取引していたんだ。あの方がいないなら、来年はこの市に出す義理はないな」
その言葉は、その日のうちに公爵家の執務室に届いた。
ヴィクトルは初めて、報告書を自分で読まなければならなかった。ロゼッタが書いた過去の定期市の記録を引っ張り出し、数字を追おうとする。だが、数字の意味が分からない。
なぜこの商人にこの区画を割り当てたのか。なぜこの出店料なのか。隣接する二つの革工房をわざと離れた区画に配置している理由は何か。全てに理由があるはずだが、その理由を知っているのはロゼッタだけだった。
帳簿は残っている。だが「帳簿の読み方」を知る人間が、もういない。
「……ロゼッタの居場所を確認しろ」
部下に命じた。「連れ戻せ」とは言わなかった。プライドが、その一言を許さなかった。
(あいつは、どこに行ったんだ)
書き置きには行き先が書かれていなかった。一行半の別れの言葉。十年の結婚の結末が、これだけ。
ヴィクトルはそれを、今更のように不思議に思った。
◇
港町では、夕方になっていた。
最後の客を見送り、仕立て屋の扉を閉める。カウンターの上には、修繕を終えた服が三着と、新しい注文の覚え書きが並んでいた。
(今日だけで、七件も)
初日としては上々だ。もちろん公爵領の定期市の規模とは比べものにならない。でも、ここには、「ありがとう」がある。「素敵」がある。「また来るね」がある。
窓の外を見た。カイルの船が港に戻ってくるのが見えた。夕日を背にした帆のシルエット。北風号という名前は、この距離では読めない。でもあの帆の形は、もう覚えてしまった。
(……明日も薪、置いてあるのかな)
その予感が、なぜか少し嬉しかった。
祖母の鋏を布で磨きながら、思った。十年間、公爵家で回し続けた歯車を、もう回す必要はない。でも止まった歯車は、きっと今頃軋んでいるだろう。
(それは、私のせいじゃない)
もう一度、心の中で繰り返した。今度は、少しだけ迷いなく言えた。




