第35話 ヴィクトルの影
商人のトマスが久しぶりに仕立て屋を訪れた。革細工の卸をしているあの温厚な男。港町に仕立て屋が開いた頃からの馴染みで、南方の上質な革と私の刺繍を組み合わせた商品をいくつも手がけていた。最初に「ロゼッタ様の目利きは信頼しております」と言ってくれた人。
「ロゼッタ様、お体の調子はいかがですか。港町の皆さんからお聞きしましたよ。実はうちの女房からも伝言でして、上質の革で赤ちゃんの靴を作りたいと申しておりました。まだ気が早いですが」
港町の人は気が早い。生まれる前から靴の話をしている。でもその気の早さが温かい。
「ありがとうございます。順調です。もう六ヶ月になりました」
トマスは笑顔を作った。でも目の奥が少し曇っていた。世間話を二言三言交わした後、声を落とした。声のトーンが変わる瞬間が分かった。商人が本題に入る時の、あの微妙な空気の変化。公爵家にいた頃に何百回と見た。
「王都の話なのですが。ランベール公爵家が公爵位を返上されるかもしれないと」
(……やっぱり)
予感はあった。メイベルの手紙にあった通り、監査官の管理下で財政は立て直せず社交界からも孤立。エリーゼも去った。南方航路の利権も失った。あの屋敷の歯車はとうに止まっていた。止まるべくして止まった。私が抜けた穴。エリーゼが塞ぎきれなかった穴。そもそも一人の人間に依存していた仕組みそのものが壊れていた。
「税収は往時の三分の一以下だそうです。監査官が実質的に領地を運営していますが再建の目処は立たず。南方航路の仲介権も失い商人たちは軒並み取引を引き上げた。王宮では公爵位の返上か領地の分割統合かが議論されていると」
トマスの声は事務的だった。商人の顔で話している。でもこの人もかつてはランベール領の定期市で商売をしていた。あの市の全盛期を知っている。百を超える店が並び、場所割りは私が組み、仕入れルートは私が確保していた。その市の崩壊も見てきた人だ。
「ヴィクトル殿は」
「書斎にお籠もりだそうです。人にお会いにならない。使用人はベティさんたち三人だけ。食事もろくに摂っておられないと。あの書き置きを……奥様の書き置きをまだ机に置いておられるそうです」
書斎の引き出しの隅に。あの場所に。一年半前に私が置いた場所から動いていないのか、それとも何度も取り出して読み返して同じ場所に戻しているのか。折り目が擦り切れるほど読んだという話だったから、後者だろう。
あの書き置き『長い間お世話になりました。お体にお気をつけて。ロゼッタ』。折り目が擦り切れるほど読み返された一行半の別れ。まだ机にあるのか。もう二年近く経つのに。
トマスの話を聞きながら、私は奇妙な静けさの中にいた。怒りでも悲しみでもない。あの屋敷に対する感情はもう何層もの時間の下に埋まっている。掘り返す気もない。ただ、事実として受け止めた。あの歯車は止まった。それだけだ。
公爵位の返上。あの金の獅子の紋章が消える。十年間、その紋章の下で帳簿を書き招待状を差配し報告書を署名欄だけ空けて提出した。あの紋章は私の名前ではなかった。ランベール公爵の名前だった。その名前がなくなろうとしている。
感慨はあるのか。正直に言えば、少しだけある。十年の時間がそこにあったから。でもそれは過去に対する感慨であって、現在の損失ではない。今の私にはハーヴェンの名がある。仕立て屋の看板がある。カイルの船の絵がある。
トマスにお茶を出して世間話をして見送った後、メイベルが紅茶を淹れてくれた。静かな顔だった。二十年間あの屋敷にいた人がその末路を聞いている。カップを唇に近づけて、そのまま下ろした。飲めなかったのだ。メイベルにとってもあの屋敷は人生の大半を過ごした場所だ。
ヘレーナさんは仕立て台の端に座ったまま目を伏せていた。産着の刺繍が途中で止まっている。針を持つ手が膝の上に落ちていた。百合の鋏が仕立て台の上で動かずに光っている。この人はいつも感情を見せない。冷たい目と端的な言葉で感情を覆い隠す。でも手は嘘をつかない。針が止まった。それがこの人の動揺の全てだ。
誰も何も言わなかった。しばらくの間、仕立て屋の中には波の音とカモメの声だけが流れていた。
自分の息子の末路。二十年間身を削って立て直した屋敷が息子の代で崩壊していく。先代の放蕩で傾いた家をヘレーナさんが一人で建て直し、それを息子がまた傾けた。
「ヘレーナさん」
「……何」
「あなたの二十年は無駄じゃないですよ」
ヘレーナさんの目が少しだけ開いた。
「あなたが私に叩き込んだ帳簿の読み方、商人との交渉術、社交の差配。全部、私の中にある。私がエリーゼに渡した。エリーゼは王都で本屋を開いた。帳簿を読む力で自分の商売を回している。あの屋敷は崩れても、あなたが育てたものは人を通じてここに生きています。この仕立て屋の経理をメイベルが回せるのも、メイベルがあなたの下で二十年間帳簿を見守ったからです」
メイベルが静かに頷いた。ヘレーナさんの指が膝の上で震えていた。産着を握りしめている。
「……そんな風に言ってくれるとは思わなかったわ。あなたに一番恨まれていると思っていた」
「恨んでいました。十年間のこと、今でも全部覚えています。朝の小言も、感謝のなかった日々も、針仕事を禁じられたことも。でも、恨みと事実は別です。あなたが私に教えたことは事実として残っている。恨みは時間が薄めてくれるけれど、事実は薄まりません」
メイベルの口癖を借りた。ヘレーナさんの唇の端が微かに上がった。
「あなた、メイベルに似てきたわね」
「それは褒め言葉として受け取ります」
窓の外でカモメが鳴いた。夕日が仕立て台を照らしている。三つの鋏が橙色に光っていた。
あの屋敷のことはもう振り返らない。あの男のことも。でもあの屋敷で育ったものがここで生きている。それだけは確かだった。
カイルが夕方、港から戻った。いつもの大股の歩き方。日に焼けた腕。
「トマスが来てたって聞いたけど」
「うん。公爵家の話」
「ああ」
それ以上聞かなかった。私が話したい時だけ聞く人。今日は話したくない。カイルはそれを空気で読み取って、黙って窓枠の建てつけを確認し始めた。先週から少し軋んでいたのを覚えていたのだ。言葉の代わりに窓を直す。いつものやり方だ。
お腹の子が動いた。この子はあの屋敷とは関係ない。この子はこの港町の子だ。海の子。潮風の中で育つ子。公爵家の金の獅子ではなく、港の看板の船の絵の下で笑う子になる。
倉庫の灯りが今夜も揺れていた。木を削る音。あの屋敷が崩れていく間もこの港町の日常は続く。パンが焼かれ魚が獲れ服が仕立てられる。




