第31話 マーガレットの手紙
祖母の遺品箱を、もう一度開けた。
ヘレーナさんとの書簡を見つけた時、全部読んだつもりだった。手紙の束を丁寧に紐で括り直して箱に戻した。それで終わりだと思っていた。でも箱の底板が少しだけ浮いているのに気づいたのは今朝が初めてだった。指先で底板を押すとかたりと音がした。木と木がずれる小さな音。
二重底。祖母らしい仕掛けだ。帳簿の数字を隠す時もこういう仕掛けを使う人だった。客に見せる帳簿と本当の帳簿を分けて管理していた。子爵令嬢の血がこんなところに出る。
底板を外すと薄い便箋が一枚だけ入っていた。折り目が深い。何度も開いて閉じた痕がある。紙が指の脂で少し透けている。封はされていなかった。出されなかった手紙。書いて、読み返して、出さずに仕舞い込んだ手紙。誰かに渡すつもりで書いたのに、最後の瞬間に引き出しに戻した。そういう手紙の折り目は独特だ。迷いの回数が刻まれている。
宛先はロゼッタ・ハーヴェン。私宛てだった。
祖母の丸みのある筆跡。帳簿と同じ字。帳面だけれど温かい。インクが一箇所滲んでいる。涙の痕だろう。
『ロゼッタへ。
あなたがこれを読む頃、私はもういないでしょう。それとも読まないかもしれない。この底板に気づかなければこの手紙は誰にも読まれずに朽ちる。それでもいいと思っている。読まれなくても書いておきたかった。この手が動くうちに。
あなたの母のことを書きます。
リゼット。それがあの子の名前。私とエドワードの間に生まれた一人娘。身体が弱い子だった。走ると息が切れて冬になると寝込んだ。港町の子供たちが海で泳いでいる時もリゼットは窓際に座って端切れで小さな刺繍を繍っていた。白い布に白い糸で花を入れて、光に透かして「見えるでしょ」と笑った。私の大きな鋏は持てなかったけれど、細い針ならいつまでも動かしていた。指先だけは誰よりも強い子だったのよ。
リゼットはあなたを産んで三日後に逝った。身体がもたなかった。産婆は危険だと止めた。でもあの子は「産む」と言って聞かなかった。頑固な子だった。あなたに、そっくり。
あの子は泣かなかった。あなたを抱いて窓の外を見て最後にこう言ったの。
「この子に海を見せてね」
それだけ。あの子は港町の仕立て屋で育ったのに身体が弱くて海辺まで歩くのがやっとだった。窓から見える海があの子の全てだった。それでも海を見ていた。毎日毎日。
ロゼッタ。あなたの名前は私がつけた。でも「ロゼ」と最初に呼んだのはリゼットだった。あの子が「ロゼ」と呼んで小さな手を握って眠るように逝った。
あなたにこの手紙を出さなかったのは──あなたが自分の足で立つまで待ちたかったから。母を知らない寂しさを背負いながらでも自分で立てる子に育ってほしかった。甘えさせてやれなくてごめんね。鋏の使い方は教えた。でも母の話は教えられなかった。あなたが聞く前に立てるように。
もしあなたがこれを読んでいるなら、きっともう大丈夫なのでしょう。
海を見ていますか。リゼットが見たかった海を。
おばあちゃんより』
読み終えるまでに便箋が二箇所濡れた。一箇所は祖母の古い涙の痕。もう一箇所は私が今落とした涙。二つの涙が同じ紙の上で重なった。
(リゼット)
初めて母の名前をはっきり知った。リゼット。身体が弱くて手先は器用で白い刺繍が好きだった。窓から海を見ていた人。頑固で危険を承知で私を産んだ人。
「この子に海を見せてね」
見せているよ、お母さん。毎日窓から。あなたが歩けなかった海辺に私は住んでいる。
(白い布に白い糸で花を繍う。ヘレーナさんと同じだ)
母も白い刺繍が好きだった。血のつながらない二人が同じ技法を好んだ。見えないものを光に透かして見せる。隠された美しさを。偶然だろうか。それとも、布と糸を愛する女はみんな同じ場所に辿り着くのだろうか。
◇
手紙をヘレーナさんに見せた。仕立て台の端に座って長い時間をかけて読んだ。時々目を閉じ、また開いて、次の行に進む。便箋を持つ指先が微かに震えていた。あの冷たい義母の表情ではない。手紙の向こうに、自分と同じ境遇の女を見ている顔だった。
「マーガレット殿はこの手紙を出さなかった。あなたが自分の足で立つまで待つつもりだったのね」
「おばあちゃんはいつもそうだった。黙って待つ人だった」
「……待てる人は強い人よ。私にはできなかった。待つ代わりに、厳しくすることしかできなかった」
ヘレーナさんが便箋を丁寧に折り返して私に差し出した。あの冷たい義母の声ではない。もっと生身の声だった。
「あの子、リゼットは、白い刺繍が好きだったのね。私と同じ」
「はい。光に透かして見せるのが好きだったようです」
「見えないところに美しいものを仕込む。……そういう女は、認められなくても針を止めない。あなたもそうでしょう。十年間、帳簿に隠れて誰にも見えない仕事を続けた。お祖母様も港町で何百着も縫い続けた。リゼットも、病の身体で最後まで針を持っていた」
(四人……いや、三人の女が、同じことをしていた。見えない場所で、見えない仕事を、黙って)
ヘレーナさんが窓の方を見た。午後の海が光っている。
「私も同じだったわ。二十年間、帳簿を書いて、定期市を回して、先代の尻拭いをして。全部、『公爵夫人として当然』の裏に隠れていた。誰にも見えなかった。見せなかった」
声が低くなった。でも泣いてはいない。もう泣く段階は過ぎている。事実を確認している。自分の人生を、遠い場所から見つめ直すような目。
「でもね、ロゼッタ。見えなかったものは消えたわけじゃないの。あなたの中に残っている。私が教えたことも、お祖母様が仕込んだことも、リゼットの指先の器用さも。全部受け継がれている」
窓の外に海が広がっている。リゼットが見たかった海。祖母が守った海。私が選んだ海。お腹の中で小さな命が動いた。まだ微かだけれど確かに。初めて感じた胎動は泡が弾けるような小さな振動だった。
(この子にも海を見せよう。リゼットが見たかった海を。毎日。窓から)
便箋を祖母の鋏の隣に置いた。鋏と手紙。どちらも祖母が遺してくれたもの。刃と言葉。どちらも私を守ってくれた。そしてこの子にも、いつか渡す日が来るのだろう。




