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十年尽くした妻が消えた朝、公爵家は紅茶の淹れ方すら分からなかった  作者: 九葉(くずは)
第1章

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第3話 紅茶の淹れ方

 祖母の鋏は、十年経っても刃がしっかりしていた。


 油紙に包まれたまま道具箱の底に眠っていた裁ち鋏を取り出し、刃を開いてみる。錆はない。祖母が最後に手入れした時のまま、銀色に光っている。


(おばあちゃん、ちゃんと手入れしていたんだね)


 仕立て屋の掃除を始めて三日目。カイルが手伝いに来てくれたおかげで、大きな家具の移動は終わった。今日は道具の点検だ。


 糸巻きを棚から下ろし、一つずつ状態を確認する。絹糸はいくつか駄目になっていたが、木綿糸はまだ使える。針は祖母のものがそのまま残っていて、磨けば十分使えそうだった。


 窓を開け放つと、潮風が入ってくる。裁ち鋏を砥石で研ぎながら、穏やかな朝を過ごしていた。


 ──と、玄関の戸が開いた。


「よう」


 カイルだった。無言で入ってきて、私のそばに布の包みを置く。


「これ、余り物だ。航海の荷で端数が出た。使えるなら使え」


 包みを開いた。


「……っ」


 息を呑んだ。


 光沢のある深い藍色の反物。手触りは滑らかで、織り目が細かい。指先に吸いつくような質感。これは、南方の絹だ。しかも、かなり上質な。


「カイル、これ……とても良い布ですね。余り物には見えないけれど」


「余り物だ」


 カイルは壁にもたれて腕を組んだ。目を合わせない。


(……この人、嘘が下手すぎる)


 南方の絹は高い。航海先で買い付けて、商人に卸せば相当な値がつく。それを「余り物」と言い張るこの人は、昔から変わっていない。子供の頃、港で拾ったきれいな貝殻を「そのへんに落ちてた」と言って私にくれたのと同じ顔をしている。


 でも、ここで問い詰めたらカイルは黙って帰ってしまうだろう。


「……ありがとう。大切に使わせてもらいます」


「ああ」


 それだけ言って、カイルは窓枠の建てつけを直し始めた。頼んでいないのに。


 私は反物を広げ、指先で質を確かめた。この布なら──町の人たちの晴れ着に使える。いい仕事ができる。


 指先がじわりと温かくなった。布を通して、何かが伝わってくるような。


 ◇


 同じ頃。王都のランベール公爵邸では、


 朝食の時間だった。


 ヘレーナは食堂の椅子に座り、眉間に深い皺を刻んでいた。テーブルには焼きすぎたトースト、ぬるいスープ、そして、紅茶のカップが空のまま置かれている。


「……紅茶はまだなの」


 使用人の娘が青い顔で小走りにやってきた。


「お、お義母様、あの、茶葉がどちらの棚に……奥様がいつも管理なさっていたので、どれがお客様用で、どれが普段用か……」


「それくらい、私が教えたはずでしょう」


 ヘレーナの声は静かだったが、食堂の空気が凍った。使用人の娘は唇を噛んで俯く。


 ──教えたはず。


 本当にそうだろうか。ヘレーナ自身、茶葉の銘柄を最後に確認したのはいつだったか。思い出せない。ロゼッタが毎朝、何の苦もなく完璧な紅茶を出していた。温度も、蒸らし時間も、来客の好みに合わせた茶葉の選択も、全てロゼッタが、。


 だが、それを口にするつもりはなかった。


「早く淹れなさい。お客様がいらっしゃる前に」


 使用人の娘が慌てて厨房に走った。十分後に出てきた紅茶は、ロゼッタが淹れていたものとはまるで別物だった。渋くて、温度が高すぎて、香りが飛んでいる。


 ヘレーナはカップに口をつけ──そっと置いた。


 何も言わなかった。言えなかった。


 その日の朝食会で、訪問していた子爵夫人が小さく呟いた。


「以前いただいた紅茶は絶品でしたのに。ロゼッタ様がお淹れになっていたんですの?」


 ヘレーナの指が、テーブルクロスの端を握りしめた。


 ◇


 ヴィクトルは書斎にいた。


 机の上に、書き置きがある。五日前から同じ場所に置かれたまま、一度も片づけていない。


『長い間お世話になりました。お体にお気をつけて。 ロゼッタ』


 たったそれだけの書き置き。


 最初は怒りが湧いた。次に困惑。そして今は、よく分からない感情が、胃の底に溜まっている。


 隣の領地報告書に目をやる。署名欄だけが空白。ロゼッタが書いた、いつも通りの緻密な報告書。税収の推移を示す数字が整然と並び、改善策が簡潔にまとめられている。


(……たかが紅茶だろう)


 朝食会の混乱は聞いていた。たかが紅茶だ。使用人に教えれば済む話だ。


 だが、紅茶の銘柄を、私は知らない。


 ロゼッタが毎朝淹れていた紅茶。来客の好みに合わせた茶葉の選択。その全てが、ロゼッタの頭の中にだけあった。


 ヴィクトルは書き置きをもう一度見た。


 短い。あまりにも短い。十年連れ添った妻の最後の言葉が、これだけ。


(……なぜ、もっと書かなかったんだ)


 それが怒りなのか後悔なのか、ヴィクトルにはまだ分からなかった。


 ◇


 夕方になっていた。西日が窓から斜めに差し込んでいる。仕立て屋の棚を整理していると、港の商人が訪ねてきた。隣町との交易を仲介している男で、名前はトマスという。


「ロゼッタ様、お帰りだと聞いて! 以前、公爵領の定期市でお世話になった者です」


「……トマスさん。覚えていますよ。革細工の卸をなさっていた」


「ええ、ええ! あの定期市は本当に素晴らしかった。ロゼッタ様が差配してくださっていた頃は」


 トマスは顔を曇らせた。


「実は、今の公爵領の定期市が大変なことになっておりまして。先月の市は出店者が半分以下に。仕入れの段取りも、場所割りも、何もかもが回っていないと聞きました」


(……そう)


 予想はしていた。定期市の運営は、私が一人で回していたから。商人たちの出店調整、仕入れルートの確保、場所割りと当日の動線管理。全て私の頭の中にあった。


 でも、もう、あの場所のことを考える必要はない。


「大変ですね。……でも、私はもうあちらとは関係がありませんので」


 笑って受け流した。トマスは残念そうに頷いたが、最後に言った。


「もしここで仕立て屋を始められるなら、ぜひうちの革と布の組み合わせで。ロゼッタ様の目利きは信頼しております」


 その「信頼」という言葉が、思ったより深く響いた。


 トマスが去った後、窓の外を見た。カイルが直してくれた窓枠は、開け閉めが嘘のようにスムーズになっていた。


(……大丈夫。やっていける)


 祖母の鋏を手に取る。刃が夕日を反射して光った。


 十年間、帳簿と招待状に使っていた手を、もう一度──布と針に戻す時が来た。


 窓の外で、カモメが一声鳴いた。明日は、この鋏で最初の一刀を入れよう。

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― 新着の感想 ―
他の方も書かれていますが、使用人がお義母様、はありえないでしょう。愛人がもうすでに後妻に入ったのかと思いましたwww しかしこの家の使用人、質悪すぎでは?紅茶位まともに入れようよ…茶葉はどれがいつ出す…
使用人が屋敷の大奥様を「お義母様」というのは違和感あるな〜。自分が知らないだけで大奥様の意味もあるのかな?
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