表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
十年尽くした妻が消えた朝、公爵家は紅茶の淹れ方すら分からなかった  作者: 九葉(くずは)
第3章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

26/40

第26話 海風の届く場所

 馬車を手配する前に、話すべき人がいた。


 書斎の扉をノックした。返事はない。もう一度叩いた。


「……誰だ」


 ヴィクトルの声だった。掠れている。疲れた声。


「ロゼッタです」


 長い沈黙の後、扉が開いた。


 書斎は変わっていた。変わっていないのは万年筆だけだ。あの万年筆。私が何百通と手紙を書いたもの。机の上に転がっている。インクが乾いたまま。


 書類が散乱している。署名のない報告書。封を切っていない手紙。棚から引き出された帳簿が床に積まれていて、何かを探した形跡がある。探して、見つけられなかったのだろう。


 ヴィクトルは机の前に立っていた。椅子には座っていない。


「ヘレーナ様を、港町に連れて行きます」


 単刀直入に言った。回りくどい言い方をする必要はない。もうこの人との間に、社交辞令は要らない。


 ヴィクトルの目が動いた。初めて、私をまっすぐ見た。一年半ぶりに。


「何を」


「お義母様は病んでいます。ここでは看護できる人がいない。使用人は三人。まともな食事も出せていない。花瓶の水すら替えられていない」


「それは、今、手配を」


「遅いんですよ」


 声が硬くなった。


 いつもそう。いつもいつも。紅茶の淹れ方が分からなくなってから慌てた。定期市が崩壊してから焦った。使用人が辞めてから困った。全部、失ってから気づく。十年間ずっとそうだった。私がいた時も。私がいなくなってからも。何も変わっていない。


(遅い。遅い。遅い。何もかもが遅い。十年遅い)


 顎の付け根が痛んだ。奥歯を噛みしめていた。自分で驚くほどの力だった。公爵夫人の笑顔を貼り付けていた頃は、こんな噛み方はしなかった。今の私は噛みしめる。港町で覚えた、自分の感情を飲み込まない体の使い方。


「お義母様のことも、同じでしょう。倒れてから初めて気づいた。隣にいたのに。あなたの母親なのに」


 ヴィクトルの顔から血の気が引いた。反論しようとして、口が開いて、閉じた。言葉が見つからないのではない。反論できる言葉がないのだ。


「お義母様の世話は、私が引き受けます」


 ヴィクトルの目が見開かれた。驚き。困惑。そして羞恥。離縁した元嫁に、実の母の世話を引き受けると言われる屈辱。


 手首の海色の糸に力が宿る。この糸がくれた勇気で、言う。


「あなたにはできないでしょう」


 怒りではなかった。蔑みでもなかった。ただの、事実だった。


 ヴィクトルが拳を握りしめた。机の角を白くなるまで掴んでいる。


「……好きにしろ」


 絞り出すような声だった。背を向けた。窓の方を見ている。その背中が、一年半前より小さく見えた。


 ふと、机の端に目が留まった。引き出しの隅に、紙が一枚。折り目がくたびれた、見覚えのある便箋。


 『長い間お世話になりました。お体にお気をつけて。 ロゼッタ』


 一年半、あの場所に置いてあるのだ。読み返したのだろう。何度も。折り目が擦り切れるほど。


 何も言わずに、部屋を出た。


 それが、ヴィクトル・ランベールとの、最後の会話になった。


 ◇


 馬車にヘレーナ様を乗せた。カイルが手を貸した。ヘレーナ様はカイルの腕に掴まりながら、じろりと彼を見上げた。


「あなたが、船乗りさん」


「ああ」


「ロゼッタの」


「……ああ」


 カイルの耳が赤くなった。ヘレーナ様の唇の端が微かに上がった。弱々しいけれど、笑った。この人が笑うのを見たのは、十年間で初めてかもしれない。皮肉ではない笑み。


 馬車が走り出した。王都の石畳を離れ、街道に出る。門が遠ざかっていく。あの金の獅子の紋章が、小さくなっていく。丘陵を越え、穀倉地帯を抜け、五日間の旅。


 ヘレーナ様は馬車の窓から外を見ていた。黙って。時々、目を閉じて眠り、目を開けてまた外を見る。農地が広がり、森が過ぎ、やがて空気が変わった。


 塩の匂い。


「……これが」


 ヘレーナ様が呟いた。窓から入ってきた風に、白髪が揺れた。


「海の、匂い」


 五十五年間、一度も嗅いだことのなかった匂い。内陸の伯爵家で生まれ、王都の公爵邸で三十五年を過ごした女が、初めて海を知った瞬間だった。


 丘を越えた。眼下に、海が広がっていた。夕日が海面を橙色に染めている。水平線が、どこまでも真っ直ぐに伸びている。


 ヘレーナ様の目が、見開かれた。


「……広いのね」


 声が震えていた。四十年間、鋏を仕舞い込んで、窓の向こうに庭園しかなかった人が、初めて果てのない景色を見ている。


 ◇


 仕立て屋の前に、メイベルが立っていた。


 馬車が止まる。カイルが手を貸して、ヘレーナ様が降りた。港町の石畳に、細い靴が触れた。海風がヘレーナ様の髪を揺らした。潮の匂い。カモメの声。パン屋から焼きたてのパンの匂いが流れてくる。


「ヘレーナ様」


 二十年仕えた主人の名を、メイベルが呼んだ。声が震えていた。


「メイベル。久しぶりね」


「お茶を、お淹れします」


 メイベルの声が詰まった。二十年間、この人の前では泣かないと決めていた人が、今にも崩れそうになっている。


 仕立て屋の中に通した。祖母の仕立て台。カイルが作った看板の船の絵。棚に並んだ糸巻き。壁にかかった刺繍のサンプル。


 ヘレーナ様が店内を見回した。目が仕立て台に止まった。分厚い樫の天板。何十年もの使用で角が丸くなった、あの台。指先が天板に触れかけて、止まった。昨日、病室で鋏に手を伸ばしかけて止まった時と同じ仕草。でも、今度は目が違った。恐れではなく、確かめるような目だった。


 メイベルが紅茶を持ってきた。カップをテーブルに置いた。湯気が立ち上る。港町の茶葉。素朴だけれど、メイベルの二十年の腕が淹れた紅茶。


 ヘレーナ様がカップに口をつけた。一口。目を閉じた。


「……一番美味しかったわ」


 小さな声。独り言のような。


「あなたの紅茶が、一番美味しかった。メイベル」


 メイベルの目から涙がこぼれた。二十年間堪えていたものが、たった一言で決壊した。エプロンの端を握りしめて、声を殺して泣いている。


 カイルが仕立て屋の入口に凭れていた。腕を組んで、海の方を見ている。


「……増えたな」


 ぼそりと呟いた。ヘレーナ様のことか、泣いている人の数のことか。多分、両方。


 私は笑った。泣きながら。


 海風が開け放った窓から入ってきた。仕立て台の上の布が、ふわりと揺れた。ヘレーナ様の白髪も揺れた。


 海風の届く場所に、この人は、ようやく辿り着いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
馬鹿息子は最後まで馬鹿息子だったか
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ