第26話 海風の届く場所
馬車を手配する前に、話すべき人がいた。
書斎の扉をノックした。返事はない。もう一度叩いた。
「……誰だ」
ヴィクトルの声だった。掠れている。疲れた声。
「ロゼッタです」
長い沈黙の後、扉が開いた。
書斎は変わっていた。変わっていないのは万年筆だけだ。あの万年筆。私が何百通と手紙を書いたもの。机の上に転がっている。インクが乾いたまま。
書類が散乱している。署名のない報告書。封を切っていない手紙。棚から引き出された帳簿が床に積まれていて、何かを探した形跡がある。探して、見つけられなかったのだろう。
ヴィクトルは机の前に立っていた。椅子には座っていない。
「ヘレーナ様を、港町に連れて行きます」
単刀直入に言った。回りくどい言い方をする必要はない。もうこの人との間に、社交辞令は要らない。
ヴィクトルの目が動いた。初めて、私をまっすぐ見た。一年半ぶりに。
「何を」
「お義母様は病んでいます。ここでは看護できる人がいない。使用人は三人。まともな食事も出せていない。花瓶の水すら替えられていない」
「それは、今、手配を」
「遅いんですよ」
声が硬くなった。
いつもそう。いつもいつも。紅茶の淹れ方が分からなくなってから慌てた。定期市が崩壊してから焦った。使用人が辞めてから困った。全部、失ってから気づく。十年間ずっとそうだった。私がいた時も。私がいなくなってからも。何も変わっていない。
(遅い。遅い。遅い。何もかもが遅い。十年遅い)
顎の付け根が痛んだ。奥歯を噛みしめていた。自分で驚くほどの力だった。公爵夫人の笑顔を貼り付けていた頃は、こんな噛み方はしなかった。今の私は噛みしめる。港町で覚えた、自分の感情を飲み込まない体の使い方。
「お義母様のことも、同じでしょう。倒れてから初めて気づいた。隣にいたのに。あなたの母親なのに」
ヴィクトルの顔から血の気が引いた。反論しようとして、口が開いて、閉じた。言葉が見つからないのではない。反論できる言葉がないのだ。
「お義母様の世話は、私が引き受けます」
ヴィクトルの目が見開かれた。驚き。困惑。そして羞恥。離縁した元嫁に、実の母の世話を引き受けると言われる屈辱。
手首の海色の糸に力が宿る。この糸がくれた勇気で、言う。
「あなたにはできないでしょう」
怒りではなかった。蔑みでもなかった。ただの、事実だった。
ヴィクトルが拳を握りしめた。机の角を白くなるまで掴んでいる。
「……好きにしろ」
絞り出すような声だった。背を向けた。窓の方を見ている。その背中が、一年半前より小さく見えた。
ふと、机の端に目が留まった。引き出しの隅に、紙が一枚。折り目がくたびれた、見覚えのある便箋。
『長い間お世話になりました。お体にお気をつけて。 ロゼッタ』
一年半、あの場所に置いてあるのだ。読み返したのだろう。何度も。折り目が擦り切れるほど。
何も言わずに、部屋を出た。
それが、ヴィクトル・ランベールとの、最後の会話になった。
◇
馬車にヘレーナ様を乗せた。カイルが手を貸した。ヘレーナ様はカイルの腕に掴まりながら、じろりと彼を見上げた。
「あなたが、船乗りさん」
「ああ」
「ロゼッタの」
「……ああ」
カイルの耳が赤くなった。ヘレーナ様の唇の端が微かに上がった。弱々しいけれど、笑った。この人が笑うのを見たのは、十年間で初めてかもしれない。皮肉ではない笑み。
馬車が走り出した。王都の石畳を離れ、街道に出る。門が遠ざかっていく。あの金の獅子の紋章が、小さくなっていく。丘陵を越え、穀倉地帯を抜け、五日間の旅。
ヘレーナ様は馬車の窓から外を見ていた。黙って。時々、目を閉じて眠り、目を開けてまた外を見る。農地が広がり、森が過ぎ、やがて空気が変わった。
塩の匂い。
「……これが」
ヘレーナ様が呟いた。窓から入ってきた風に、白髪が揺れた。
「海の、匂い」
五十五年間、一度も嗅いだことのなかった匂い。内陸の伯爵家で生まれ、王都の公爵邸で三十五年を過ごした女が、初めて海を知った瞬間だった。
丘を越えた。眼下に、海が広がっていた。夕日が海面を橙色に染めている。水平線が、どこまでも真っ直ぐに伸びている。
ヘレーナ様の目が、見開かれた。
「……広いのね」
声が震えていた。四十年間、鋏を仕舞い込んで、窓の向こうに庭園しかなかった人が、初めて果てのない景色を見ている。
◇
仕立て屋の前に、メイベルが立っていた。
馬車が止まる。カイルが手を貸して、ヘレーナ様が降りた。港町の石畳に、細い靴が触れた。海風がヘレーナ様の髪を揺らした。潮の匂い。カモメの声。パン屋から焼きたてのパンの匂いが流れてくる。
「ヘレーナ様」
二十年仕えた主人の名を、メイベルが呼んだ。声が震えていた。
「メイベル。久しぶりね」
「お茶を、お淹れします」
メイベルの声が詰まった。二十年間、この人の前では泣かないと決めていた人が、今にも崩れそうになっている。
仕立て屋の中に通した。祖母の仕立て台。カイルが作った看板の船の絵。棚に並んだ糸巻き。壁にかかった刺繍のサンプル。
ヘレーナ様が店内を見回した。目が仕立て台に止まった。分厚い樫の天板。何十年もの使用で角が丸くなった、あの台。指先が天板に触れかけて、止まった。昨日、病室で鋏に手を伸ばしかけて止まった時と同じ仕草。でも、今度は目が違った。恐れではなく、確かめるような目だった。
メイベルが紅茶を持ってきた。カップをテーブルに置いた。湯気が立ち上る。港町の茶葉。素朴だけれど、メイベルの二十年の腕が淹れた紅茶。
ヘレーナ様がカップに口をつけた。一口。目を閉じた。
「……一番美味しかったわ」
小さな声。独り言のような。
「あなたの紅茶が、一番美味しかった。メイベル」
メイベルの目から涙がこぼれた。二十年間堪えていたものが、たった一言で決壊した。エプロンの端を握りしめて、声を殺して泣いている。
カイルが仕立て屋の入口に凭れていた。腕を組んで、海の方を見ている。
「……増えたな」
ぼそりと呟いた。ヘレーナ様のことか、泣いている人の数のことか。多分、両方。
私は笑った。泣きながら。
海風が開け放った窓から入ってきた。仕立て台の上の布が、ふわりと揺れた。ヘレーナ様の白髪も揺れた。
海風の届く場所に、この人は、ようやく辿り着いた。




