第25話 二つの鋏
ヘレーナ様の荷物の中に、布に包まれたものがあった。
翌朝、ヘレーナ様が目を覚ます前に、病室の隅に置かれた小さな革鞄を見た。蓋が少しだけ開いていて、中から油紙に包まれた細長いものが覗いている。
油紙の端を捲った。
裁ち鋏だった。
古い。けれど手入れされている。刃に錆はなく、持ち手の金属が鈍く光っている。祖母の鋏と同じくらいの大きさ。でも意匠が違う。持ち手に細い花の彫刻が入っている。百合の花。職人の手仕事だ。注文品。誰かがこの鋏を、特別に作らせた。
掌に乗せた。ずしりと重い。使い手を待っている道具の、静かな重み。祖母の鋏を初めて手にした時と同じ感触がした。
「勝手に見たのね」
振り返った。ヘレーナ様が目を開けていた。枕の上で、こちらを見ている。怒りを覚悟したが、目は穏やかだった。昨日泣いた後の、力の抜けた目。
「すみません。気になって」
「いいわ。いずれ見せるつもりだった」
ヘレーナ様が身体を起こした。昨日よりも動きがしっかりしている。枕に背をもたせて、私の手の中の鋏を見つめた。
「母のものよ。嫁入りの時に持たせてくれた。ヴァレンシュタイン伯爵家の女は代々、裁ち鋏を持って嫁に出る。伯爵家はもともと、織物商から成り上がった家だから」
知らなかった。ヴァレンシュタイン伯爵家が、元は織物の家だったなんて。
「母は刺繍が上手だった。私も、母に教わった。百合の花を繍い取るのが得意だったのよ。白糸で、白い絹地に。白い百合を」
白い百合。あの花瓶の百合。母の庭の花であり、母から受け継いだ刺繍の意匠でもあった。
「嫁いだ後は?」
「禁じられた」
乾いた音を立てて落ちた一言だった。
「先代に。『公爵夫人が針仕事とは、下女の真似事か』と。最初の月に言われた。二度と口にしなかった。鋏は箪笥の奥に仕舞った。それきり」
まぶたの内側が熱くなった。同じ言葉。同じ仕打ち。祖母マーガレットは駆け落ちして仕立て屋を開いた。ヘレーナ様は鋏を仕舞い込んだ。私は義母に禁じられた。三人の女が、同じ才能を持ち、同じように封じられた。
違うのは、祖母は逃げた。ヘレーナ様は逃げられなかった。私は十年かかって逃げた。
「四十年よ」
ヘレーナ様が呟いた。
「四十年間、一度も鋏を開かなかった。油紙に包んで、手入れだけはしていた。刃が錆びないように。いつかまた使う日が来ると信じていたのかもしれないし、ただの執着だったのかもしれない。自分でも、分からない」
四十年。私の十年の、四倍。
鋏を手の中で確かめた。刃を開いてみる。滑らかに動く。四十年間使われていないのに、まるで昨日まで使っていたかのように。油紙と手入れが、この鋏を生かし続けていた。
ヘレーナ様の手が、その鋏の方に伸びかけて、止まった。触れたいのに、触れることを自分に許していない。四十年の禁止が、身体に染みついている。
「ヘレーナ様」
「何」
「海を、見たことはありますか」
唐突な質問だったと思う。でも口から出てしまった。
ヘレーナ様は面食らった顔をした。あの冷たい義母の表情ではない。単純に驚いた、人間の顔。
「……ないわ。伯爵家は内陸で、公爵邸も王都にあった。海は、見たことがない」
「おばあちゃんの仕立て屋は、港町にあるんです。窓から海が見えます。朝は潮の匂いで目が覚めて、夕方はカモメが最後の一声を上げて塒に帰る。仕立て台は窓際にあって、縫い物をしながら水平線が見えるんです」
自分でも不思議だった。この人に港町の話をしている。十年間、一度も心を開けなかった人に。でも鋏の話を聞いた後では、この話をしなければいけない気がした。
「潮風は布に塩を含ませるから、仕立てには厳しい環境なんです。でもおばあちゃんはそこで何百着も縫った。塩に負けない丈夫な縫い方を工夫して」
ヘレーナ様の目が、少しだけ大きくなった。
「海を、見たかったわね。一度くらい」
小さな声だった。義母の声ではなかった。四十年前に鋏を仕舞い込んだ、若い女の声だった。
◇
廊下に出た。
階段を下りながら、考えた。三世代の女。祖母マーガレット、ヘレーナ、そして私。裁ち鋏を持って嫁に出て、針仕事を封じられて、それぞれ違う道を選んだ。祖母は身分を捨てて海辺の町で仕立て屋を開いた。ヘレーナ様は二十年間、鋏を油紙に包んで、手入れだけ続けた。私は十年後に去った。祖母が用意してくれた逃げ道を使って。
三人とも、布と糸に手を伸ばした女だった。三人とも、「それは恥だ」と言われた。三人とも、鋏を仕舞い込んだ。違うのは、蓋を開けたかどうかだけ。
祖母の鋏は、港町の潮風の中で何百着もの服を裁いた。ヘレーナ様の鋏は、油紙の中で四十年間眠っていた。私の鋏は、十年間の空白を経て、もう一度光を受けている。三つの鋏。三つの人生。
(でも、ヘレーナ様にも、まだ時間がある)
四十年間手入れされた鋏。触れたくて、触れられなかった鋏。
玄関ホールに降りた時、ベティが駆け寄ってきた。
「ロゼッタ様、お客様が。いえ、お使いの方が」
玄関の外に、見覚えのある男が立っていた。日に焼けた肌。海風で乱れた黒髪。
カイル。
埃まみれの外套。馬の匂い。この人は船の上が一番似合うのに、馬を飛ばしてきたのだ。港町から王都まで五日。片道五日を、ただ迎えに来るためだけに。
「……なんで」
「迎えに来た」
短い。五日の道のりを来たくせに、この一言。
「迎えって、まだ帰るとは」
「帰るんだろ」
分かっている。この人は分かっている。
「離れの掃除、してある」
「……え?」
「仕立て屋の裏の離れ。エリオットに頼んで、使えるようにした。客用の部屋。あんたが誰か連れて帰るかもしれないと思って」
膝の裏が痺れた。立っていられなくなりそうだった。
この人は、私がヘレーナ様を連れて帰ることを、見越していた。出発する前から。「行きたいなら行け」と言った時から。
(……ばか。何でも見通すくせに、何も言わない)
涙が出そうになった。堪えた。まだ泣くところじゃない。手首の海色の糸が、王都の冷たい空気の中で、港町の色を保っている。
「ありがとう、カイル」
「別に」
耳が赤い。夕日のせいではない。王都に夕日はまだ早い。
「……帰ろう。もう一人、連れて」
カイルが頷いた。それだけで十分だった。




