第24話 褪せない花
ヘレーナ様の手首に、痕があった。
午後の光がカーテンの隙間から差し込んで、寝台を斜めに照らしていた。ヘレーナ様が水を飲もうとして、寝間着の袖が捲れた。その一瞬。
左手首に、薄い線が走っている。日焼けのムラのような、かすかな痕。
私は、その痕を知っている。自分の手首にも、あった。結い糸を十年間巻き続けた痕。白い糸が褪せきった後に残る、皮膚の色の違い。公爵家を出る前、長袖で隠し続けたあの痕と同じものが、ヘレーナ様の手首にある。
「見えたのね」
ヘレーナ様が声を出した。私の目線に気づいていた。
「隠すつもりはないわ。もう隠すものもない」
袖口を自分で捲り上げた。痩せた手首。骨と皮の手首に、薄い痕が一周している。
「先代との結い糸は、三年で白くなった。あなたより早いのよ」
三年。私は五年かかった。褪せるのに時間が「かかった」のではない。三年で冷え切った関係が、糸に映しだされただけ。
「解いたのは」
「先代が亡くなった後よ。生きている間は解けなかった。解く手段がなかったから」
功労離縁。あの制度は、祖母がヘレーナ様に条件として突きつけたもの。ヘレーナ様自身には、その制度が使えなかった。
「あなたのお祖母様は、聡い方だった」
ヘレーナ様の声が低くなった。
「功労離縁の条件を出してきた時、私は驚いた。あの制度を知っている人間は少ない。ましてや嫁入りの条件に入れるなど、聞いたことがない。でも、分かった。あの方は、自分の孫が私と同じ目に遭うことを恐れていたのね」
祖母は、ヘレーナ様を見抜いていた。手紙のやり取りだけで。この人が逃げられずにいることを。
「条件を呑んだのは、なぜ」
「必要だったから。南方航路の再開には、あなたのお祖母様の人脈が不可欠だった。どんな条件でも呑む必要があった。それが一つ」
一つ。ということは。
「もう一つは?」
ヘレーナ様が目を伏せた。長い睫毛が頬に影を落としている。蝋燭の灯りが揺れて、影も揺れた。
「……羨ましかったのよ」
聞こえた。確かに聞こえた。でも、意味が追いつかなかった。
「あの条件を出せるということは、逃げる自由があるということ。あの方は、孫娘に逃げる権利を持たせた。私が持てなかったものを」
ヘレーナ様の声が震えた。初めてだった。この人の声が震えるのを聞いたのは。十年間、朝も昼も夜も、一度も。
「条件を呑んだ時、不思議な気持ちだった。もしこの子が本当に逃げたら、私は嫉妬するだろうと思った。自分が逃げられなかった場所から、この子が出ていくのを見届けることになるのだから」
この人が。嫉妬。こんなに人間くさい感情を。
「でも同時に、どこかで望んでいた。逃げてほしいと」
「私にできなかったことを、あなたがやってくれたら、二十年間の我慢にも、意味があったと思えるかもしれないと。おかしいでしょう。矛盾しているわ。嫉妬しながら、望んでいたの」
「だから厳しくした。逃げる力をつけさせるために。帳簿を覚えさせ、社交を叩き込み、商人との交渉術を教えた。全て、あなたが一人で生きていけるように。そのつもりだった」
声が途切れた。喉を押さえた。咳が出たのではない。言葉が詰まったのだ。
「でも、やり方が分からなかった。人を育てるやり方なんて、知らなかった。私自身が、褒められたことがなかったから。感謝されたことがなかったから。冷たくすることしか知らなかったのよ」
「そして、あなたは出て行った。書き置き一枚で。あの朝」
ヘレーナ様の目が開いた。灰色の瞳に、光が滲んでいた。
「私は怒ったのではないの。……羨ましかったのよ」
涙が一粒、ヘレーナ様の頬を伝った。枕に落ちた。小さな染み。
私の目からも、涙が出ていた。いつからだろう。気づかなかった。もう溢れていた。
許せない。許すもんか。十年間、この人に苦しめられた。感謝もされず、当然と見なされ、道具のように使い潰された。お前が言うな。お前が泣くな。泣いていいのは私のほうだ。二十年? 知るか。あんたの二十年で私の十年が消えるとでも?
唇の内側を噛んでいた。血の味がする。こんな噛み方、公爵家にいた頃はしなかった。あの頃は笑顔を崩さないように歯を食いしばっていた。今は逆だ。泣き顔を崩さないように、唇を噛んでいる。
でも分かる。分かってしまう。
なんで分かるんだよ。分かりたくなかった。この人が泣くのなんか見たくなかった。「嫁として当然」と言っていた口で「羨ましかった」なんて。「私が教えたはず」と言っていた口で「やり方を知らなかった」なんて。ずるい。今更すぎる。
この人もまた、同じ鳥籠の中にいた。私より二十年早く入って、二十年長く閉じ込められて、逃げ道を誰にも用意してもらえなかった。だから嫁には厳しくした。鳥籠の中で生き延びられるように。でもそのやり方は、新しい鳥籠を作ることと同じだった。
許せない。でも、分かってしまう。この二つが同時にあるのが、こんなに苦しいなんて知らなかった。
声が出なかった。泣いているから。二人とも。薄暗い病室で、元義母と元嫁が、黙って泣いている。言葉にしたら壊れてしまう何かを、二人とも抱えていた。
ヘレーナ様の手が、掛け布の上で震えていた。骨の浮いた手。この手が帳簿を書き、使用人を指揮し、屋敷を回していた。二十年間。誰にも感謝されずに。針仕事に使うはずだった手を、帳簿に回された手。同じことが、二世代にわたって繰り返されていた。
涙を袖で拭った。公爵夫人はハンカチで涙を拭くものだ、とヘレーナ様に教わった。もうハンカチなんか使わない。港町の女は袖で泣く。
手首の海色の糸に触れた。濡れた指先で。カイルの糸。帰る場所の証。この糸がなかったら、今ここで崩れていた。
「ヘレーナ様」
「……何」
「鋏を、持っているの?」
ヘレーナ様の手が、掛け布の下で動いた。
「……なぜそれを」
「昨日、荷物の中に布に包まれたものが見えた。あの形は裁ち鋏だと思った。仕立てをやっていれば、布越しでも鋏の形は分かる」
ヘレーナ様は答えなかった。ただ、目を閉じた。涙の痕が頬に光っている。唇が微かに動いたが、声にはならなかった。
白い百合が、枕元でゆっくりと揺れていた。母の庭の花。二十年間の孤独の傍にあった花。




