第2話 おかえり
潮の匂いがした。十年ぶりの、故郷の匂い。
馬車を降りた瞬間、海風が頬を叩いた。湿り気を含んだ、塩辛い風。髪が乱れるのも構わず、大きく息を吸い込んだ。
(……ああ、この匂いだ)
五日間の馬車旅は長かった。王都を出て、穀倉地帯を抜け、丘陵を越え、ようやく海が見えた時、自分でも驚くほど身体が前のめりになった。
ベリッサの港町は、記憶の中とほとんど変わっていなかった。白い石壁の家々が丘に沿って並び、路地には洗濯物が風に揺れ、どこかの家から焼きたてのパンの匂いが漂っている。猫が石畳の上で丸くなって、私の足音にも薄目を開けるだけだった。
坂道を上る。足が覚えている。十年経っても、身体が覚えている道。
角を曲がると、あった。
祖母の仕立て屋。
「……」
立ち尽くした。
看板は外れかけ、窓ガラスは曇り、壁の漆喰はところどころ剥がれている。蔦が絡みついて、扉は錆びた蝶番がきしんでいた。
廃屋だった。当たり前だ。祖母が亡くなって十二年。誰も住んでいない家がきれいなままでいるはずがない。
(……ここで、やっていけるの?)
不安が、みぞおちの辺りに重く沈んだ。公爵家の屋敷は使用人が何十人もいて、どの部屋も磨き上げられていた。ここには、私一人しかいない。
でも扉を押した。錆びた蝶番が悲鳴を上げた。埃が舞い上がり、目を細める。
薄暗い店内。蜘蛛の巣が窓の角に張っている。棚には埃を被った糸巻きが並び、壁には褪せた布のサンプルが掛かったままだった。カウンターの上に、祖母が使っていたピンクッションが転がっている。針が三本、刺さったまま。十二年前の時間がそこで止まっていた。
そして、奥に、それはあった。
祖母の仕立て台。
分厚い樫の天板。何十年もの使用で角が丸くなり、染みだらけで、あちこちに針の痕がある。台の脚には、幼い私が彫刻刀で彫った下手な花の模様が残っていた。
手を置いた。木の温もりが指先に伝わる。冷え切った廃屋の中で、この台だけが温かいような気がした。
(おばあちゃん)
この台の上で、祖母は何百着もの服を仕立てた。漁師の作業着から、町長夫人のドレスまで。子供の頃の私は、この台の足元にしゃがんで、落ちた布切れで人形の服を作っていた。祖母がときどき覗き込んで、「ロゼッタは筋がいいねえ」と笑ってくれた。
あの頃は、褒められるのが嬉しかった。
指先が震えた。でも、さっきとは違う震え方だった。
(ここから、始められる)
◇
仕立て屋を出て、港の方へ歩いた。
夕方近くになっていた。漁船が何隻か停泊し、漁師たちが網を繕っている。カモメが低く飛び、桟橋の杭に止まっては鳴いた。波が杭を叩く規則正しい音。公爵家では聞いたことのない、穏やかな不規則さ。
水平線を見た。
(……広い)
公爵家の窓から見えたのは、手入れの行き届いた庭園だけだった。整えられた薔薇の垣根と、四角く刈り込まれた植え込み。全部、誰かが形を決めた景色。
ここには、果てのない海がある。
「──ロゼッタ?」
声がした。低く、短い声。
振り返る。
桟橋の端に、男が立っていた。日に焼けた肌。海風で乱れた黒髪。袖をまくった腕は逞しく、手にはロープの束を持っている。
──カイル。
幼馴染の名前が、十年の空白を飛び越えて口から出た。
「カイル……?」
彼は一瞬固まった。ロープを持つ手が止まり、こちらを見る目が、何か、ひどく複雑なものを湛えていた。
驚き。それと、もう一つ。名前をつけられない何か。
次の瞬間、カイルは無言で歩いてきた。大股の、船乗りの歩き方。
そして、自分の肩にかけていたマントを外した。
ふわり。
私の肩に、厚い布の重みが乗った。海と、潮と、少しだけ木の匂いがする。温かい。さっきまで彼の体温を吸っていた布。
「……海風は冷たい」
それだけ言って、カイルは目を逸らした。耳の先が少しだけ赤いのは、夕日のせいだろう。
(……え?)
何が起きたのか、一瞬分からなかった。肩にかかったマントは大きくて、私の体をすっぽり包んでいた。確かに、馬車から降りてずっと、海風に吹かれて体が冷えていたのだ。自分では気づいていなかった。
「カイル、あの……」
「おかえり」
短かった。ぶっきらぼうで、無愛想で、目も合わせない。
でも、その一言が。
(……あ)
十年間、公爵家で一度も言われなかった言葉だった。あの屋敷には「お帰りなさいませ」と言う使用人はいた。でもそれは礼儀で、仕事で、形式だった。
「おかえり」。ただそれだけの、温かい言葉。
唇が震えた。泣くまいと思った。馬車の中で枯れたはずの涙が、なぜか今になって喉の奥に込み上げてくる。
「……ただいま」
かろうじてそれだけ返した。声が掠れていたと思う。カイルは聞こえたのか聞こえなかったのか、ただ小さく頷いた。
◇
カイルは変わっていた。
子供の頃は痩せっぽちで、いつも港の端で一人で網を繕っていた男の子だった。母親を八歳で亡くして、叔父のエリオットに引き取られて。あまり笑わない、静かな子だった。あの日──泣いていた彼の隣に、私は何も言わず座って、祖母と作った焼き菓子を置いた。
今は、港町一の船長になっていた。
エリオット叔父さんがそう教えてくれた。夕方、仕立て屋の前に来てくれたのだ。
「ロゼッタちゃんかい! まあ大きくなって。いや、大人になって、か。ばあさんにそっくりだ」
町長になったエリオットは、恰幅がよくなっていたけれど、目の奥の温かさは変わっていなかった。
「この店を、また開けるつもりかい?」
「……はい。もし、できるなら」
「もちろんだ。建物はうちで管理していたからね、ばあさんとの約束だ。修繕は必要だが、構造はしっかりしている。港町に仕立て屋ができたら、みんな喜ぶよ。今は隣町まで行かないとまともな仕立てができないんだ」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
エリオットが帰った後、一人で仕立て屋の床を掃いた。埃が舞う。蜘蛛の巣を払い、窓を開ける。潮風が吹き込んで、十二年分の空気が入れ替わっていく。
窓の外に、港が見えた。夕日がカモメの翼を金色に染めている。
その時、玄関の影が動いた。
「……明日、ここの掃除、手伝う」
カイルだった。いつの間にか来ていて、いつの間にか去ろうとしている。
「カイル!」
呼び止めると、振り返った。逆光で表情が見えない。
「……ありがとう」
「別に」
短い。本当に短い。
足音が遠ざかっていく。私は窓辺に手をついたまま、その背中を見送った。
(変わらないな、あの人)
寡黙で、ぶっきらぼうで、大事なことを全部言葉にしない。子供の頃からそうだった。
でも、あの子が港町一の船長になっていたことだけは、なぜかちょっと嬉しかった。
窓の外で、夕日が水平線に沈んでいく。明日は、この店の掃除から始めよう。祖母の仕立て台を、もう一度磨くところから。
手首の白い糸に目をやった。まだ解いていない。
でも、もう隠してはいなかった。




