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十年尽くした妻が消えた朝、公爵家は紅茶の淹れ方すら分からなかった  作者: 九葉(くずは)
第2章

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第16話 教えること

 エリーゼが二度目に港町に来たのは、手紙を送ってから五日後だった。


 今度は旅装ではなく、質素な平織りのドレスを着ていた。髪もまとめ方が緩い。初めて来た時の「侯爵令嬢の鎧」を脱いできた、という印象だった。


「お招きいただけるとは思いませんでした」


「招いたのは公爵家のためではないわ。あなたのために」


 エリーゼが瞬きをした。「あなたのために」という言葉に、馴染みがないのだ。きっと今まで、全てが「家のため」「父のため」「旦那様のため」だった。


 仕立て屋の二階。メイベルが淹れた紅茶と、マルタが差し入れてくれた焼き菓子がテーブルに並んでいる。


「最初にはっきり言っておきます。私はもうあの家の人間ではないし、あの家を立て直す気もない。でも、あなた自身が、自分の足で立てるようになるための話なら、できることがある」


 エリーゼが背筋を正した。聞く姿勢が完璧だ。侯爵家の教育は伊達ではない。


 でもそれが、少し、痛々しかった。


 ◇


 教え始めた。ただし、帳簿の読み方ではなく。


「エリーゼ様。一つ聞いていい? あなたの得意なことは何?」


「……得意なこと、ですか」


「帳簿が読める、社交術がある。それは分かってる。でもそれは侯爵家の教育で身につけたもの。あなた自身が、好きでやっていることは?」


 エリーゼが黙った。長い沈黙だった。眉間に皺が寄り、唇が動きかけて止まる。


「……読書です」


 小さな声だった。


「本を読むことが、好きでした。子供の頃は、父の書庫に入り浸って。歴史書も、紀行文も、詩集も。でも嫁いでからは、読む暇がなくて」


(本が好きな人なんだ)


 私は仕立てが好きだった。針と糸で何かを作ることが。エリーゼは本が好き。それは家の教育で与えられたものではなく、彼女自身の芯にあるもの。


「それは武器になる。公爵家を出た後の、あなたの武器に」


「出た後……?」


「あの家にいる間は、帳簿と社交を回す必要がある。それは教えます。でも同時に、あの家の外で生きていける力を、育てておくべきだと思う」


 私が伝えたのは、公爵領の運営マニュアルではなかった。


 商人との交渉で最も大事なこと。「相手の名前を覚えて、前回の取引内容を一行でも引用する」。定期市の差配で失敗しないコツ。「場所割りは隣接する同業者を離すこと。競合を近くに置くと客が比較して片方が潰れる」。使用人の管理で絶対にやってはいけないこと。「誰かの前で別の使用人を叱ること。必ず個別に」。


 どれも帳簿には書いていないノウハウだった。十年間で体に染みついたもの。


 エリーゼは一言も聞き漏らすまいと、持ってきた手帳に書きつけていた。ペンの速さが尋常ではない。この人は本当に頭がいい。


 午前中いっぱい話し続けた。社交シーズンの招待状の格付けルール。これは暗黙の序列があって、一度でも間違えると取り返しがつかない。客間の花の選び方。季節ごとに変えるのは当然だが、来客の出身地の花を一輪混ぜると好印象になる。領地の税収報告書の書き方。数字を並べるだけでなく、前年比と改善施策をセットで記す。王は「問題を報告する領主」より「問題と解決策を報告する領主」を信頼する。


 昼食を挟んで、午後は具体的な質問に答えた。エリーゼが箇条書きにしてきた疑問リストは、三頁に及んでいた。一つずつ、丁寧に。


「ロゼッタさん」


「ん?」


「あなたは、これを全部一人で覚えたのですか」


「そうね。お義母様に教わったことと、自分で失敗して覚えたことと、半々くらい」


「十年間、一人で」


「一人で」


 エリーゼのペンが止まった。手帳を見つめて、ぽつりと言った。


「……すごい方だと思います。でも、すごいだけではなくて、とても、寂しかっただろうと」


 不意打ちだった。


(この人は、)


 帳簿を読んで「優秀な方」と言った人は他にもいた。でも帳簿を読んで「寂しかっただろう」と言った人は、エリーゼが初めてだ。


「……ちょっと、目にゴミが入った」


 慌てて顔を背けた。泣いてない。泣いてないってば。


 ◇


 午後、カイルが航海から戻った。


 仕立て屋に顔を出すと、エリーゼがまだいた。カイルは「よう」とだけ言い、いつものように窓際に凭れた。


「カイルさん、ですね。ロゼッタさんの」


「ああ」


 それだけ。エリーゼは少し面食らったようだったが、すぐに微笑んだ。


「南方航路の船長だと伺いました。最近、航路のほうで何か変わったことは?」


 カイルが珍しく表情を動かした。


「……変な噂は聞いた。南方の港で、ランベール家の名前で交易の問い合わせがあったと。だが、今のランベール家には南方交易の実働部隊はいない。誰かが勝手に名前を使ってる」


(南方航路で、ランベール家の名前──?)


 嫌な予感がした。ヘレーナの手紙を読んだ後だからかもしれない。南方交易路の利権。あれは元々、祖母の人脈を通じて再開されたものだ。私がいなくなった今、あの利権は誰のものなのか。


「カイル、もう少し詳しく聞かせて」


「港に戻ったら、知り合いの商人に当たってみる」


 カイルが出て行った後、エリーゼが静かに言った。


「ロゼッタさん。南方航路の利権のこと──公爵家の書庫で、古い登記書類を見たことがあります。あの航路の仲介権は、元々ハーヴェン家の名前で登録されていました」


 背中に冷たいものが走った。


「ハーヴェン家──つまり、私の祖母の名前で?」


「はい。離縁が成立した今、あの仲介権は法的には、ハーヴェン家に帰属する可能性がある、と思います」


 窓の外で、カモメが鳴いた。夕日が海を橙色に染めている。


(航路の権利がおばあちゃんの名前で、)


 ヴィクトルは私ではなく「航路」と結婚していた。その航路が、離縁によって私の側に戻ってくるとしたら。


 皮肉だった。あまりにも。


 エリーゼが帰り際、玄関で足を止めた。


「今日、教えていただいたこと──公爵家のためではなく、自分のために使います。いつか必要になった時のために」


「うん。……それでいいの」


 エリーゼの馬車が坂道を下っていくのを見送った。メイベルが隣に立って、静かに言った。


「あの方は、ロゼッタさんとは違う道を歩かれるでしょうね」


「違う道?」


「ロゼッタさんは十年耐えた。あの方は、もっと早く、ご自分で答えを出される気がします」


 そうかもしれない。エリーゼには、私にはなかったものがある。相談できる相手がいること。私が十年かけて一人で学んだことを、今日一日で手に入れたこと。


(それでいい。同じ道を歩く必要はない)


 窓の外に、カイルの船が見えた。帆を下ろして停泊している。明日、南方航路の話を聞かなければ。

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