第15話 契約
祖母の遺品箱は、仕立て屋の屋根裏にあった。
メイベルが「整理を手伝いましょうか」と言ってくれたが、断った。これは一人で開けなければならない。埃を被った木箱。蓋を開けると、古い布のサンプルと、糸巻きと、手紙の束が入っていた。
手紙の束。紐で括られた十数通。差出人は、ヘレーナ・ランベール。
(お義母様と、おばあちゃんが……手紙をやり取りしていた?)
一番古い手紙の日付は十三年前。私が十五歳の時。嫁入りの三年も前から、交渉は始まっていたのだ。
手紙を時系列に並べた。読み始めた。
最初の手紙は丁寧だった。ヘレーナの筆跡は端正で、社交辞令に満ちている。「ハーヴェン家の南方交易の御縁について、お話を伺いたく」。祖母の返信も同様に礼儀正しい。「恐れ入りますが、当家の交易路はあくまで個人の信頼に基づくもので、譲渡は難しゅうございます」。
だが三通目から、ヘレーナの筆致が変わった。社交辞令が消え、率直な筆致になっている。インクの滲みが一箇所ある。書き直さなかった──あるいは書き直す余裕がなかったということだ。
『マーガレット殿。率直に申します。ランベール家は先代の放漫経営で南方交易路の利権を失い、財政が傾いております。先代公爵が他界し、息子ヴィクトルが継いだものの、彼はまだ若く、軍務と外交の才はあれど内政の経験が足りません。私一人では領地の建て直しに限界がございます。あなた様の南方商人との御縁は、我が家の立て直しに不可欠です。つきましては、お孫様のロゼッタ嬢を、我が息子ヴィクトルの妻としてお迎えしたく存じます。旧ラーセン子爵家の御血筋であれば、公爵家の嫁として形式上の不足はございません。交易路の仲介と、お孫様の貴族社会への復帰──双方にとって益のある話かと存じます』
(……取引だった。最初から)
耳の後ろが冷たくなった。じわり、と。血が引いていくのが分かった。
交易路と引き換えの孫娘。ヘレーナは最初から、私を「人」としてではなく「取引の品」として見ていた。旧子爵家の血筋は、公爵家の嫁として世間の目に耐えうるための最低条件に過ぎなかった。
取引。取引だ。全部取引だった。結婚も、十年も、あの冷たい寝台も。
でもこの手紙には、もう一つ重要な情報があった。「内政の経験が足りません」「私一人では限界がございます」。つまりヘレーナは、自分が領地を回してきたことを認めている。そして後継者を求めていた。嫁ではなく、後継者を。
(お義母様は、私を「嫁」としてではなく「自分の後任」として求めていたのか)
それなら、嫁入り後に私を徹底的に教育し、全権を委任したことに辻褄が合う。ヘレーナは私に自分の全てを叩き込んだ。帳簿の読み方、商人との交渉術、社交の差配、使用人の管理。「嫁として当然」と言いながら──実際には、後継者育成をしていたのだ。
問題は、その事実を本人が認めなかったことだ。「私が教えたおかげ」「嫁として当然」。感謝ではなく支配の言葉で覆い隠した。
祖母の返信を読んだ。丸みのある筆跡。仕立て屋の帳簿と同じ字だ。帳面だけれど温かい。
『ヘレーナ殿。お申し出の件、承知いたしました。ただし、条件がございます。ロゼッタには帳簿と社交の基礎を教えてあります。あの子の能力を、正当に評価していただけますよう。また──あの子が不幸になった時には、あの子自身の判断で身を引く自由を認めてください。功労離縁の古法が適用されるよう、婚姻の記録に十年の期限を明記してください。それが、この取引の最後の条件です』
手紙を持つ手が震えた。
(おばあちゃん──)
祖母は分かっていた。孫娘が幸せになれない可能性を。だから「逃げる自由」を条件に入れた。功労離縁の制度を、祖母は知っていたのかもしれない。旧子爵家の令嬢として、古い法律の知識があったのかもしれない。
ヘレーナの返信は短かった。
『承知しました。全ての条件を受け入れます』
──それだけ。そして次の手紙は、婚約の正式な取り交わしについてだった。
◇
手紙を読み終えて、しばらく動けなかった。
屋根裏の小窓から海が見える。夕日が海面を橙色に染めている。
(十年間、知らなかった)
知らなかった。祖母とヘレーナの間にこんなやり取りがあったことを。祖母が「逃げる自由」を条件に入れてくれていたことを。あの結婚が、最初から最後まで「取引」だったことを。
ヴィクトルが私を愛さなかったのは、私個人の問題ではなかった。最初から、あの結婚に「愛」が入る余地はなかった。交易路の対価として届けられた人間を、誰が愛するだろうか。
(でも、おばあちゃんは、私を守ろうとしてくれていた)
「不幸になった時には、自分の判断で身を引く自由を」。この一文が、十年後の私を救った。功労離縁という形で。
涙が頬を伝った。今度は、悲しみの涙ではなかった。
祖母に守られていたことを知った涙。十年間、一人だと思っていた闘いの裏に、祖母の祈りがあったことを知った涙。あの書き置き一枚で屋敷を出られたのは、私が強かったからではない。祖母が、逃げ道を用意してくれていたからだ。
「……ありがとう、おばあちゃん」
呟いた。屋根裏に、潮風が吹き込んだ。
◇
階下に降りると、カイルがいた。仕立て台の前に座って、黙って待っていた。
私の目が赤いのを見て、一瞬身体が強張った。でも何も聞かなかった。代わりに、テーブルの上に焼き菓子の包みを置いた。
「パン屋で買ってきた。マルタの旦那が焼いた新作だと」
「……ありがとう」
隣に座った。焼き菓子を一つ手に取った。素朴な甘さが口に広がる。
「カイル。……全部、分かった。私がなぜあの家に嫁いだのか。おばあちゃんが何をしてくれたのか」
「ああ」
「話す。全部。……でも今は、このお菓子を食べ終わってから」
カイルが頷いた。二人で黙って焼き菓子を食べた。
窓の外で夕日が沈んでいく。海が赤から紫に変わっていく。
二十年前の夏、泣いていたカイルの隣に座って焼き菓子を置いた日と、少しだけ、似ていると思った。今度は私が泣いている側で、カイルが隣にいる。
あの日、カイルは何も言わなかった。ただ菓子を食べて、鼻を啜って、そして少しだけ笑った。
今、私も同じことをしている。泣いて、菓子を食べて、隣の温もりに救われている。
(おばあちゃん。あなたが守ってくれた自由で、私はここにいるよ)
焼き菓子は、あの日と同じくらい甘かった。




