第14話 鏡
仕立て屋の扉が開いた。潮風と一緒に、見知らぬ香水の匂いが入ってきた。
振り返ると、女性が立っていた。淡い金髪を丁寧にまとめ、旅装を纏っているが、背筋の伸ばし方が普通ではない。侯爵家の教育が身体に染みついている。隙のない佇まい。でも、目の下に薄い隈がある。
「ロゼッタ様、ですね」
「……あなたがエリーゼ様?」
新しい公爵夫人が、港町まで来た。
店内に招き入れた。メイベルがお茶を淹れてくれた。エリーゼはカップを受け取り、一口飲んで、ほんのわずかに目を見開いた。
「……美味しい。この紅茶」
「メイベルが淹れたの。公爵家で二十年、紅茶を淹れ続けた人ですから」
「ああ……あの紅茶は、この方が」
エリーゼの声が少し震えた。公爵家で「ロゼッタ様の紅茶」と呼ばれていたものの正体が、ここにいる。
沈黙が流れた。カモメが鳴いている。窓から海が見える。エリーゼは海を見つめて、それから私を見た。
「お手紙を断られたのは承知しています。それでも参りました。無礼を承知で」
「なぜ?」
「あなたに会わなければ、私はあの屋敷で壊れます」
声は静かだった。感情的ではなく、事実を述べるように。侯爵令嬢の矜持が、崩れることを許さない。でもその奥に、確かな切迫がある。
「帳簿は読めます。社交術もあります。使用人の管理も、形の上では回せています。でも、あの屋敷の空気が、私を飲み込むんです」
(……分かる)
分かってしまう。あの屋敷の空気。感謝されない。当然と見なされる。どれだけ完璧にこなしても、褒められるのは「家」であって「個人」ではない。存在を認められないまま、歯車として回り続ける重さ。
「旦那様……ヴィクトル殿は、どうしていますか」
聞くべきではないと思いながら、聞いてしまった。
「軍務と外交は変わらずなさっています。でも、内政については、私がどれだけ報告しても、目を通すだけで何も仰いません。署名だけして、書斎に戻られる。夕食もほとんどご一緒しません。屋敷にいても、どこか遠い場所を見ていらっしゃるような」
(変わっていない。何も)
十年前と同じだ。署名だけして、報告書の中身を見ない。その報告書を誰が書いたかも気にしない。夕食を共にしないのも同じ。私の時は、愛人の元に行っていたけれど、今は違うのだろうか。
「マリアンヌ様のことは、ご存知ですか」
「ええ。お子のことも。ルシアンという男の子が生まれたと。マリアンヌ様は実家のセレスト伯爵家に戻っていらっしゃるそうですが、認知の問題は、まだ宙に浮いたままです」
エリーゼが唇を引き結んだ。
「正直に申し上げます。あの方にとって私は、ロゼッタ様の代わりであると同時に、マリアンヌ様の代わりでもあるのです。実務を回す道具と、傍にいる飾り。その両方を求められている」
道具と飾り。その言葉に、古い痛みが蘇った。
「エリーゼ様」
「はい」
「一つだけ聞いてもいいですか」
「何でも」
「あなたは、あの結婚を望んだの?」
エリーゼの手が、カップの取っ手を握りしめた。
「……いいえ。父の命令です。グレイヴァル家の三女に選択権はありません。長女は外交官の元に、次女は学者の元に嫁ぎました。残った私が、最も厄介な縁談を引き受けた」
(私と同じだ)
鳩尾の奥がずしりと重くなった。予想していたけれど、直接聞くと言葉の温度が違う。
「政略で嫁がされ、愛されず、実務で存在を証明するしかない。……エリーゼ様、それは私が十年間やっていたことです」
「知っています。帳簿を読めば分かります。あなたの十年間が、全部、あの数字の中に入っている」
エリーゼの目が潤んだ。でも涙は落とさなかった。侯爵令嬢は、人前で泣かない。
(この人は、十年前の私だ)
政略で嫁がされた。実務だけが存在意義。夫は心を閉ざしている。歯車として回り続ける毎日。違うのは、エリーゼにはまだ時間があるということだ。十年も耐えていない。まだ間に合う。
「……お手紙では断りました。でも」
言葉を選んだ。慎重に。
「公爵家を立て直すためではなく、エリーゼ様自身のために話をするなら、少しだけ、お伝えできることがあるかもしれません」
エリーゼの目が見開かれた。
「あなたが知るべきなのは、あの家の運営方法ではありません。あの家から出る方法です」
自分でも驚いた。こんなことを言うつもりはなかった。でも口から出た言葉は──嘘ではなかった。
エリーゼが息を呑んだ。
「出る……?」
「すぐにとは言いません。でも、あなたが自分の力で食べていける手段を持つこと。あの家以外に居場所を作ること。それが分かっていれば、歯車として回り続ける重さが少しだけ軽くなる。……少なくとも、私はそうだった」
仕立ての腕。祖母が残してくれた技術。あれがなかったら、私は今もあの屋敷にいただろう。帳簿を書き、招待状を差配し、白い糸を隠しながら。
◇
エリーゼが帰った後、仕立て屋の外にカイルが立っていた。
「……いたの?」
「たまたま」
嘘だ。この人の「たまたま」は全部嘘だ。
「あの人、泣きそうだったな」
「泣いてなかったよ」
「泣いてないから、泣きそうだって言ってる」
(……カイルは、人を見ている)
言葉が少ない分、目で見ている。エリーゼの隈も、握りしめた指も、落ちなかった涙も、全部見ていたのだろう。
「あの人は、大丈夫だと思うかしら?」
カイルに聞いた。カイルは少し考えて、言った。
「分からねえ。でも、お前に会いに来た時点で、あの人は自分で動いてる。お前が動き出したのは、十年後だっただろ」
ぐさり、と刺さった。でも、本当のことだ。私は十年間、一人で耐え続けた。誰にも相談せず、誰にも助けを求めず。それが「強さ」だと思っていた。でも本当の強さは、助けを求められることなのかもしれない。エリーゼは、それを一ヶ月でやった。
「ロゼ。お前が助けたいなら、助ければいい。俺はお前がやりたいことを止めたりしない」
カイルが背中を向けた。いつもの大股の歩き方で、坂道を下っていく。
手首の海色の糸に指で触れた。
(十年前の私に、誰かが手を差し伸べてくれていたら)
昨夜考えたことが、また頭をよぎった。
──答えは、もう出ている気がした。
明日、エリーゼに手紙を書こう。断りの手紙ではなく、今度は──招待状を。




