第13話 子爵令嬢
港町の仕立て屋に、見慣れない封蝋の手紙が届いた。
グレイヴァル侯爵家の紋章。鷲と月桂樹を象った銀色の封蝋。開封する前から差出人は分かった。
『ロゼッタ・ハーヴェン様。突然のお手紙をお許しください。私はエリーゼ・フォン・グレイヴァル、現在のランベール公爵夫人です。あなたが十年間でなさったことを、教えていただけないでしょうか。帳簿は拝見しました。しかし帳簿に書かれていないことが、あまりに多いのです。使用人たちは「ロゼッタ様ならこうされた」と口を揃えますが、それでは私はいつまでもあなたの影を追うだけです。あなた自身の言葉で、教えていただきたいのです。 エリーゼ・ランベール』
手紙を読み終えて、テーブルに置いた。
(……正直な人だ)
新しい公爵夫人が、前任者に教えを請う。普通なら恥ずかしくてできないだろう。プライドが許さないはずだ。それをやるということは、エリーゼという人は、よほど追い詰められているか、よほど真面目か。あるいはその両方か。
でも。
「……ごめんなさい」
返事を書いた。丁寧に、でも明確に。
『お手紙ありがとうございます。お気持ちは理解いたしますが、お力になることはできません。公爵家のことは、もう私の仕事ではありません。エリーゼ様ご自身の方法で、道を切り開いてください。 ロゼッタ・ハーヴェン』
封をして、郵便に渡した。
(これでいい)
これで、あの屋敷との縁は切れている。切れているはずだ。
◇
夕方、カイルが航海から戻った。
仕立て屋で夕食を共にした。メイベルが作った魚のシチューを三人で食べる。メイベルの料理は公爵家仕込みで、港町の素朴な食材が驚くほど美味しくなる。カイルは無言で三杯おかわりした。
メイベルが片づけに立った後、二人きりになった。
「カイル」
「ん」
「……私のおばあちゃんのこと、知ってる?」
「マーガレットばあさんだろ。仕立て屋のばあさん。子供の頃、ボタンを付け直してもらった」
「うん。……おばあちゃんはね、元々お貴族様だったの」
カイルの手が止まった。パンを千切りかけた姿勢のまま、こちらを見る。
「旧ラーセン子爵家の令嬢だった。でも、平民の仕立て職人と恋に落ちて、駆け落ちしてベリッサに来たの。爵位を捨てて。家を捨てて。子爵家はその後、跡継ぎ問題で断絶したって聞いた。だから私は──没落貴族の孫なの」
言葉にするのは初めてだった。港町では誰にも話していなかった。祖母が「黙っていなさい」と言ったからだ。
でも祖母は「忘れなさい」と言いながら、私に貴族の教育を施していた。帳簿の読み方、社交の基礎、食卓作法、手紙の書き方。「いつか必要になるから」と。子供の頃はその矛盾が分からなかった。今なら分かる。祖母は最初から、私が貴族社会に戻る日を怖れながら、備えていたのだ。
「子爵家の孫が、なぜ公爵に嫁いだか。……おばあちゃんが港町で作った南方商人との人脈を、ランベール家が欲しがったの。先代の公爵、ヴィクトルの父親が放漫経営で南方交易路の利権を失って、財政が傾いた。お義母様のヘレーナが立て直しに奔走する中で、おばあちゃんの人脈に目をつけた。そして取引を持ちかけた」
カイルは黙って聞いていた。パンを千切ることもやめて、ただ聞いていた。
「おばあちゃんは、孫の私を貴族社会に戻したかったんだと思う。自分が捨てた世界に、私を送り返したかった。だから承知した。私も……おばあちゃんの願いだと思って、頷いた」
(十八歳の私は、何も分かっていなかった)
南方航路の人脈と引き換えの政略婚。旦那様は最初から、私ではなく「航路」と結婚していた。でもそのことに気づいたのは、ずっと後のことだ。
「旦那様は──ヴィクトルは、没落貴族の孫との結婚を屈辱だと思っていた。だから最初から心を閉ざしていた。子供も望まなかった。私の血を、ランベール家に入れたくなかったんだと思う」
声が少し震えた。でも泣かなかった。もう泣く段階は過ぎた。
「……仕立ての腕は、嫁いでからは使えなかった。お義母様に『公爵夫人が針仕事とは恥だ』と禁じられたの。だから帳簿と社交に回った。生地の目利きや衣装選びには活かせたけれど、自分で縫うことは、十年間、一度も許されなかった」
十年。鋏も針も持てなかった十年。
カイルが、ゆっくりと手を伸ばした。テーブルの上の私の手に、大きな手が重なった。乾いて、硬くて、温かい手。
「……聞けてよかった」
短い。いつも通り、短い。でもその一言に、全部入っていた。責めない。哀れまない。ただ「聞けてよかった」と言う。
「カイル……怒ってない? 私、ずっと黙ってて」
「怒るわけねえだろ」
鼻を鳴らした。
「お前がいつ話すか、待ってただけだ」
(……知ってたのかな)
子爵家のことは知らなかったかもしれない。でも、私が公爵家に嫁いだのが政略だったこと、旦那様に愛されていなかったこと。それは、港町の誰もが薄々気づいていたのかもしれない。カイルも。
待っていた。聞かずに、急かさずに、十年。いや、二十年。この人はずっとそうだ。私のペースで、私の言葉で、私が話すまで待つ。薪を置くように。窓を直すように。黙って、隣にいる。
手の上の温もりが沁みた。ぐっと指に力が入った。握り返した。
「……ありがとう」
「別に」
テーブルの上に、エリーゼへの返事の下書きが残っていた。カイルの目がそれを捉えたが、何も言わなかった。
◇
その夜、布団に入ってから考えた。
エリーゼの手紙。あの文面には嘘がなかった。「いつまでもあなたの影を追うだけ」。その焦燥が、文字から滲んでいた。
(……あの人は今、私が十年前にいた場所にいる)
政略で嫁がされ、実務で存在を証明するしかない場所。感謝されず、当然と見なされ、でも歯車を止めるわけにはいかない場所。
断った。正しい判断だと思う。あの家のことは、もう私の仕事ではない。
でも、もし十年前の自分に、誰かが手を差し伸べてくれていたら。あの屋敷の中に、たった一人でも「あなたはここにいなくていい」と言ってくれる人がいたら。私はもっと早く、自分の足で歩き出せていたかもしれない。
(考えすぎだ。寝よう)
目を閉じた。手首の海色の糸が、月明かりに淡く光っていた。潮騒が遠くで鳴っている。




