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十年尽くした妻が消えた朝、公爵家は紅茶の淹れ方すら分からなかった  作者: 九葉(くずは)
第2章

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第12話 影

 ランベール公爵邸に、新しい女主人が来た。


 エリーゼ・フォン・グレイヴァルは、馬車を降りた瞬間から周囲を観察していた。門扉の蝶番が錆びている。庭園の薔薇が手入れされておらず、枝が伸び放題になっている。玄関ホールの花瓶は空で、花どころか水すら入っていない。壁のタペストリーが傾いていて、誰も直していない。


(……聞いていたより、ずっとひどい)


 父が言っていた。「名門ランベール家も今は苦境だ。お前が立て直せ」と。苦境どころではなかった。これは廃墟の一歩手前だ。


 使用人は半分に減っていた。残った者たちの顔には疲弊の色が濃く、制服の袖口がほつれている者もいる。廊下の絨毯に埃が積もっている箇所があり、窓が曇っている。かつて王国随一と言われた公爵邸が、たった半年でここまで荒れるものだろうか。


「エリーゼ嬢。いや、ランベール公爵夫人」


 ヴィクトルが出迎えた。整った顔立ち。金髪は整えられている。だが目の下の隈は深く、以前の精悍さは薄れていた。社交界で「華のある公爵」と呼ばれた男の面影が、どこか翳っている。


「お待ちしておりました、旦那様」


 膝を折り、完璧な礼をした。父に教えられた通りの角度で、スカートの裾を正確に揃えて。グレイヴァル侯爵家の娘は、礼儀で隙を見せない。それが家訓であり、唯一の武器だった。


(この結婚は、私が望んだものではない)


 父の命令だった「ランベール公爵家との縁は、我が家の王宮での発言力を強化する。お前が立て直せ」。断る選択肢は提示されなかった。侯爵家の三女に、選択権などない。長女は外交官に嫁ぎ、次女は学者と結婚した。残った三女が、最も厄介な縁談を引き受ける。それが家の論理だった。


 ◇


 公爵邸の執務室に通された。机の上に書類が山積みになっている。ヴィクトルが「前の妻が管理していた」と言った帳簿類。


 エリーゼは一冊手に取り、頁をめくった。


(……これは)


 緻密だった。数字の一つひとつが正確で、注釈が丁寧に付けられている。商人ごとの取引条件、季節変動の傾向、来年度の予測値。ただの記録ではない。この帳簿を書いた人間は、領地経済の全体像を完全に把握していた。余白に走り書きで「トマス殿は秋に値引きを求める傾向あり。先手を打って夏に契約更新を」とある。実務経験と洞察力の両方がなければ書けない注釈だ。


「前の奥様は、優秀な方だったのですね」


「……まあな」


 ヴィクトルの声が硬くなった。エリーゼはそれ以上聞かなかった。聞かなくても分かる。この帳簿を書いた人間の代わりは、簡単には務まらない。


 ◇


 一週間が経った。


 エリーゼは朝から晩まで働いた。帳簿を読み解き、使用人の配置を立て直し、台所の管理体制を再構築した。侯爵家で学んだ知識は役に立った。基礎はある。応用もできる。


 だが壁があった。見えない壁。


「エリーゼ様、この商人への支払い条件なのですが……」


「はい。帳簿には三ヶ月後払いと記載されていますが」


「それが、ロゼッタ様の時は口約束で翌月払いに変更されておりまして。その方が商人も安心して良い品を優先的に回してくれたのです。帳簿には書かれていない取り決めが、かなりの数……」


(帳簿に書かれていない取り決め)


 つまり、前の公爵夫人の頭の中にだけあった暗黙のルールが、公爵領の隅々に染み込んでいるのだ。帳簿は読めても、帳簿に書かれていないものは読めない。そしてそれは膨大にある。


 台所でも同じだった。厨房の新しい料理人に指示を出すと「ロゼッタ様は朝食のパンの発注を三日前になさっていました。焼きたてが届くように」と返ってくる。花の手配を始めると、「ロゼッタ様は季節ごとにお花を変えていらっしゃいました。春は白百合、夏は向日葵」と教えられる。


 一つ一つは小さなことだ。でもその小さなことが百も二百もあって、全部が「ロゼッタ様」の名前と結びついている。


 使用人たちは親切だった。エリーゼの質問には丁寧に答えてくれる。悪意はない。でも、何かあるたびに口にする言葉がある。


「ロゼッタ様はこうなさっていました」


「ロゼッタ様なら、こうされたと思います」


「ロゼッタ様の時は、このやり方で……」


 最初は参考にしていた。だが一日に十回も聞くと、肩の芯に鈍い重さが溜まる。この屋敷の隅々に「ロゼッタ様」の影が染みついていて、エリーゼがどこに立っても、その影の上に立つことになる。


(私は「ロゼッタ様の代わり」として来たのだろうか)


 答えは分かっている。そうだ。父にとっても、ヴィクトルにとっても、使用人たちにとっても。エリーゼは「ロゼッタの穴を埋める部品」として求められている。


 ◇


 夜。書庫で一人、帳簿を読んでいた。


 蝋燭の灯りが揺れる。古い書棚から資料を引き出そうとした時、棚の奥に挟まっていた封筒が滑り落ちてきた。


 色褪せた封筒。封蝋が割れかけている。宛名は「ヘレーナ・ランベール様」。差出人は──。


「マーガレット・ハーヴェン」


 ロゼッタの祖母の名前だ。


 封筒を手に取った。日付は十二年前。ロゼッタが嫁入りする一年前のものだった。封蝋は割れているが、中の便箋はまだ読める状態に見える。


 手紙を開こうとして、手が止まった。これは私宛ではない。他人の手紙を読むのは礼儀に反する。グレイヴァル家の三女は、礼儀で隙を見せない。


 でも。


(この手紙に、答えがあるかもしれない)


 なぜロゼッタがこの家に来たのか。なぜ十年間耐えたのか。なぜ去ったのか。その全ての始まりが、この封筒の中に。


 エリーゼは手紙を棚に戻した。まだ読めない。まだその覚悟がない。


 代わりに、帳簿をもう一冊開いた。三年前の定期市の記録だった。余白に「カイルの船が上質な南方の絹を運んでくれた。来期の衣装に使えるかもしれない」と書いてある。


 カイル。ロゼッタの帳簿には何度かこの名前が出てくる。南方交易路の船長。公爵領の商取引に深く関わっていた人物。


 でもそれだけではない気がした。帳簿の数字を読み解くのは得意だ。でも、数字の隙間に隠された感情を読み解くのは、まだエリーゼには難しかった。


 蝋燭の火が揺れた。窓の外に月が出ていた。王都の空は、きっと港町より狭い。ロゼッタが見ている海は、もっと広いのだろう。


(ロゼッタ様。あなたは、ここから出られた)


 私は──まだ、ここにいる。

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― 新着の感想 ―
もうこの牢獄は潰れた方がいいと思う
属人化の権化みたいな職場に、その当人がいなくてろくな引継ぎもなく後任に入るとか地獄ですな。
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