第10話 海風の朝
仕立て屋の朝は、海風から始まる。
窓を開けると、潮の匂いが部屋を満たした。カモメが桟橋の杭で朝日を浴びている。漁師たちが出航の準備をする声が、穏やかに響いている。
この朝が好きだ。
公爵家の朝は、いつも薄暗い廊下から始まった。義母の小言を聞きながら、誰よりも早く起きて、誰にも気づかれない仕事をする朝。ここでは、潮風が目覚まし代わりで、最初に聞こえるのは波の音だ。
(半年、か)
あの屋敷を出てから、半年が経った。
仕立て屋は王宮御用達になった。年末の夜会でクラーラのドレスが話題になってから、王都の貴婦人たちからの注文が相次いでいる。隣町にも支店を出さないかという話が来ていて、嬉しい悲鳴だ。
でも、急いで大きくするつもりはない。祖母が一人で回していたように、私も自分の手が届く範囲でやっていきたい。一着一着、心を込めて。
仕立て台の上には、今日仕上げる注文品が二着。港町のパン屋の娘の婚礼衣装と、酒場の女将の新しいエプロン。女将は「どうせ汚れるんだから適当でいいよ」と言ったが、私は全力で縫うつもりだった。汚れるものだからこそ、丈夫に、美しく。
朝食の支度をしていると、郵便配達が手紙を持ってきた。
メイベルからだった。
『ロゼッタ様。お元気でいらっしゃいますか。こちらのご報告です。
公爵家は先月より、王宮から派遣された監査官の管理下に入りました。領地の税収は往時の半分以下に落ち込み、改善の見通しは立っておりません。ヴィクトル様は公爵位を維持されていますが、実質的な裁量権は監査官に移っています。
ヘレーナ太夫人は体調を崩され、社交界からほぼ引退なさいました。
マリアンヌ様はヴィクトル様のもとを離れ、実家のセレスト伯爵家に戻られたそうです。
私は来月で公爵家を離れます。港町で仕立て屋のお手伝いが必要でしたら、いつでもお声がけください。
どうかお元気で。変わらずお幸せでいらっしゃることを、心からお祈りしております。 メイベル』
手紙を読み終えて、静かに折り畳んだ。
(……そう)
公爵家の末路。かつて私が回していた歯車は、完全に止まったらしい。
復讐したかったわけじゃない。ざまぁと思うつもりもない。ただ──あの屋敷で十年間やってきたことが、「当たり前」ではなかったという証明にはなった。
手紙を引き出しにしまった。今度は、返事を書こう。メイベルに、港町においでと。ここには海風と、穏やかな日々と、世界一のパン屋がある。
◇
昼下がり、港に帆影が見えた。
北風号だ。
カイルの船が帰ってきた。二週間の南方航路。今回は長かった。でも、前のように毎日港に通ったりはしていない。
(……嘘。三回は行った)
まぁ、毎日よりはましだ。
窓から見ていると、カイルが甲板から降りてくるのが見えた。いつもの大股の歩き方。日に焼けた肌。海風で乱れた黒髪。
カイルが港から坂道を上ってくる。仕立て屋に向かっている。足取りがいつもより少し速いような気がするのは、気のせいだろうか。
扉が開いた。
「よう」
「おかえり」
いつもの挨拶。いつもの短い会話。でも、カイルが入口で立ち止まったまま動かなかった。いつもならすぐに窓枠を直したり、薪を確認したり、何か「用事」を見つけて動き始めるのに。
「……カイル? どうかした?」
「ロゼ」
ロゼ。あの夜会の帰り道で初めて呼ばれた愛称。あれ以来、二人きりの時だけ、時々こう呼ぶようになった。
「何?」
カイルが口を開いた。閉じた。また開いた。
言葉が出てこない。この人はいつもそうだ。大事なことほど言葉にならない。不器用な口が、何かを形にしようとしてもがいている。
待った。急かさなかった。この人のペースで。この人の言葉で。
「十年──」
かすれた声だった。
「十年、ずっと、」
また止まった。拳を握りしめている。海風にさらされて赤くなった手。看板を彫り、薪を割り、窓を直し、布を運んできた手。
「お前がいない海は、全部嵐だった」
短い。けれど、重い。十年間の沈黙が、たった一言に凝縮されていた。
お前がいない海は、全部嵐だった。
つまり──十年間、ずっと。あの焼き菓子の日から、ずっと。
涙が出た。止められなかった。堪えるつもりもなかった。
公爵家では泣かなかった。馬車の中でも泣かなかった。港で嵐を待った夜も、白い糸を見せた日も、夜会の大広間でも、一度も泣かなかった。
なのに今、カイルのたった一言で、全部崩れた。
「……ばかだね」
丁寧語が消えていた。涙を拭いながら、笑いながら、鼻をすすりながら。公爵夫人の言葉遣いなんて、もうどこにもなかった。
「ばか。なんで十年も黙ってたの。言ってよ、もっと早く」
カイルは何も言わなかった。言葉の代わりに、ポケットから小さなものを取り出した。
糸だった。
海の色の糸。深い青と緑が溶け合った、南方の海そのものの色。あの翡翠色の刺繍糸と同じ染め師が染めたのだろう。細くて、しなやかで、光を含んで輝いている。
カイルが私の左手首を取った。結い糸が解かれた後の、薄い痕が残る手首。
そこに、新しい糸を結んだ。
不器用な手つきだった。船のロープは完璧に結べるくせに、こんな細い糸にはてこずっている。何度もやり直して、ようやく小さな結び目ができた。
「……下手くそ」
「うるさい」
初めて聞いた。カイルの照れた声。
手首の新しい糸を見た。海の色。白い糸が巻かれていた場所に、海の色が巻かれている。
(……きれい)
涙でぼやけた視界の中で、その糸だけが鮮やかに見えた。
窓の外で、カモメが鳴いた。仕立て屋の看板が、海風に揺れている。カイルが彫った小さな船の絵。
あれは偶然じゃなかった。二十年前の夏、私が描いた船を、カイルはずっと覚えていた。
「……うん」
顔を上げた。涙だらけの、ぐしゃぐしゃの顔で。
「うん」
それが、私の答えだった。
十年間、凍っていた心が、ようやく溶けた朝。
窓を開けた。海風が入ってくる。潮の匂い。カモメの声。祖母の仕立て台の上に朝日が落ちている。
手首の海色の糸が、光を受けて輝いた。
(いい朝ですね)
隣に、カイルがいた。ぶっきらぼうで、寡黙で、大事なことを全部行動で示す、不器用な人。
この人の隣で、この町で、この仕立て屋で。
私の新しい人生は、もう、始まっている。
仕立て台に向かった。今日の仕事が待っている。パン屋の娘の婚礼衣装。新しい人生を始める人のための、一着。
針を持つ手は、もう震えていなかった。
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