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十年尽くした妻が消えた朝、公爵家は紅茶の淹れ方すら分からなかった  作者: 九葉(くずは)
第1章

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第1話 もう、終わりにします

 今朝も、旦那様は隣の部屋にはいらっしゃらなかった。


 枕に顔をうずめる。冷たい。もう何年も、この枕は冷たいままだ。寝台の右半分は皺ひとつなく、人の重みを知らない布がぴんと張っている。


 ……分かっている。分かっていて、毎朝確かめる私も大概だと思う。


 身体を起こす。窓の外はまだ暗い。東の空の端がほんのわずかに紫がかっていて、もうすぐ鳥が鳴き始める時間だ。使用人たちが起き出す前に、今日の段取りを確認しなければ。


 来週の領地視察の書類。義母の薬の手配。来客用の茶葉の在庫確認。社交シーズンに向けた招待状の下書き。


 全部、私の仕事だ。


 十年。十八で嫁いでから、十年。三千六百五十日の朝を、この冷たい寝台で迎えた。


(よく続いたものだわ)


 鏡の前に立つ。二十八歳の顔は、十八の頃よりずいぶん頬がこけた。眠れない夜が続くと、目の下に影が落ちる。旦那様は気づかない。気づいていたとしても、何も言わないだろう。


 だって旦那様は、私の顔を見ない。


 髪を整え、ドレスに袖を通す。長袖。いつも長袖だ。真夏でも薄手の長袖を選んできた。


 手首に巻かれた色糸に、指先が触れた。


 結い糸の契り。この世界では、結婚の儀で夫婦が互いの手首に色糸を結び合う。絆が健全なら鮮やかな色を保ち、壊れると、褪せる。


 私の糸は、とうに白かった。


 いつからだったか。三年目か、五年目か。正確には覚えていない。覚えていないくらい、ゆっくりと色が抜けていった。朝起きるたびに少しずつ薄くなって、ある朝ふと見たら、もう白い糸でしかなかった。


 それでも解かなかった。長袖で隠して、笑って、「お義母様、今日のお花はどれにいたしましょう」と聞いた。


 十年間、ずっとそうしてきた。


 ◇


 廊下に出ると、義母の声が響いていた。


「あなた、今朝の花はまだ替えていないの? 客間の百合はもう三日目でしょう」


 使用人に向けた声ではない。壁越しに、私に聞こえるように言っている。いつものこと。


「……今すぐ手配いたします」


(はい、はい。分かっておりますとも)


 十年間、毎朝聞いたこの声。小言というには冷たく、叱責というには日常的すぎる。空気のようなもの。


(空気、か)


 わたくし自身が、この屋敷の空気になっていたのかもしれない。いてもいなくても変わらないもの。でも、なくなったら息ができなくなるもの。


(……そんな風に思うのは、傲慢かしら)


 朝食の準備を確認する。パンの焼き加減、紅茶の銘柄と温度、バターの置き場所、ジャムの種類。旦那様はオレンジマーマレード。義母はブルーベリー。来客があればその方の好みに合わせて。


 全部、私の頭の中にある。紙に書いたことはない。書く必要がなかった。毎日やっていれば身体が覚える。


 それから書斎に入り、領地報告書の最終チェックをする。税収の推移、交易路の状況、定期市の収支。旦那様の署名欄だけ空けて、机に置く。いつもこうだ。私が書き、旦那様が署名する。王に提出される報告書は「ランベール公爵」の名前で届く。


 十年分の報告書を、全部私が書いた。


 誰も知らない。いや、メイベルだけは知っている。でもメイベルは何も言わない。言ったところで何も変わらないと、彼女も分かっているから。


 ◇


 書斎の椅子に座り、便箋を広げた。


 何を書くべきだろう。十年の恨みつらみ? 愛人への怒り? 義母への不満?


 書きたいことなら山ほどある。あるのに。あるのに出てこない。十年分の言葉が喉元まで来て、一つも形にならない。恨んでいないと言えば嘘になる。でも恨みを書いたところで、あの人は読まない。読んだとしても「大げさだ」と言うだけだ。十年かけて、それだけは分かった。


 震えそうになる指を押さえて、万年筆を取った。インクの匂いが鼻をくすぐる。何百通と手紙を書いてきたこの万年筆で、最後の一通を書く。


『長い間お世話になりました。お体にお気をつけて。 ロゼッタ』


 それだけ書いた。


(これでいい)


 これで、十分だ。何枚書いても、旦那様には届かない。だったらせめて、短く。


 便箋を折り、書斎の机の上に置いた。領地報告書の隣に。旦那様が署名しに来た時、嫌でも目に入る場所。


 報告書の隣の書き置き。


(……最後まで、仕事の隣だなんてね)


 ふ、と息が漏れた。笑ったのか泣いたのか、自分でも分からなかった。


 ◇


 玄関ホールは薄暗かった。朝の明かりを灯すのは、いつも私の役目だった。今朝は灯さない。


 メイベルが待っていた。


 五十を過ぎた使用人頭。白髪交じりの髪をきっちりまとめた、この屋敷で唯一私の味方だった人。娘のエマが病に倒れた時、治療費を工面したのは私だった。メイベルはあの日、初めて私の前で泣いた。


「奥様」


 メイベルの目が、また赤い。


「……全部、準備はできています。馬車は裏門に回してございます」


「ありがとう、メイベル」


「奥様」


 声が震えている。こらえようとして、こらえきれない震え。


「どうか……どうかお幸せに。今度こそ」


 今度こそ。その一言が、胸に刺さった。


 抱きしめたかった。でも、そうしたら泣いてしまう。泣いたら、足が止まる。止まったら、また十年が始まる。


「あなたも、お元気で」


 微笑んだ。十年間、この屋敷で身につけた完璧な微笑み。社交界のどんな場でも崩れない、陶器のような笑顔。


 でも今は、ほんの少しだけ、本物が混じっていたと思う。


 ◇


 裏門を出た。


 振り返らなかった。


 振り返ったら、きっとあの屋敷の窓に明かりが灯っていないのを見てしまう。毎朝、私が一番に灯していた明かりが、今朝はない。


(……それに気づく人が、あの屋敷にいるかしら)


 馬車に乗り込む。革張りの座席が軋んだ。小さな旅行鞄ひとつ。十年住んだ屋敷から持ち出したものは、着替えと、祖母の形見の指貫と、十年分の帳簿の写しだけ。


 御者に行き先を告げた。


「……ベリッサまで、お願いします」


 港町。祖母が暮らした町。子供の頃、夏になると遊びに行った海辺の町。潮の匂いと、カモメの声と、祖母の仕立て台の木の温もり。


 馬車が動き出す。車輪が石畳を叩く音が、だんだん遠くなっていく。公爵家の門が、屋敷の影が、知らない愛人の馬車が停まっていた車寄せが、全部後ろに流れていく。


 窓から空を見上げた。


 朝焼けだった。紫と橙が混ざり合う、広い広い空。


(もう、終わりにします)


 十年間、ずっと下を向いて歩いていた。帳簿と、招待状と、報告書と、義母の顔色ばかり見て。


 空が、こんなに広かったんですね。


 手首の白い糸が、朝日に透けた。もう隠さなくていい。もう長袖を選ばなくていい。


 涙は、流さなかった。


 流す涙は、とっくに枯れていたから。

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