ヘルパー、富田喜久子の場合
『ヘルパー、富田喜久子の場合』
1、
『サトエリちゃん。ちょっといい??』
あたしが呼び止めたのは佐藤絵里子。通称サトエリちゃん。
モデルの佐藤江梨子と同姓同名なのでついたあだ名だ。
彼女はあたしの職場の同僚。そして職場では一番仲の良い友人でもある。歳はあたしの方が2、3上ぐらいだろうか・・・。年齢の話はお互いしたくない歳なので二人で呑みに行ったりしても話さない。
あたしと彼女はある意味、対岸にいるような存在なのかもしれない。
というのは彼女はまだ独身だけど、あたしには旦那も2人の子供もいる。
彼女はこの業界に入り、ケアマネージャーの資格をとったけど、あたしはとらなかった。
仕事でもプライベートでも公私共にあたしとサトエリちゃんは対極にいる。
『ギク・・・。』
サトエリちゃんはあたしに呼び止められてバツが悪そうな顔をした。
恐らく今から話す話に予想がついているからだろう。
『辺見さんのお宅なんだけど・・・。』
『その話・・・聞きたくないなあ。』
サトエリちゃんは渋い顔をしながら言った。
ケアマネージャーとはつぐづく大変な仕事である。
知らない人間はケアマネージャーは介護保険においてリーダー的存在であり、ケアマネージャーに相談さえすればなんでも解決できると思っているからだ。それは介護保険の中枢で働いているあたしたちヘルパーも例外ではない。
しかし、実際は周りが思うほどケアマネージャーは万能なわけではない。
あたしはたまたまサトエリちゃんと仲がいいのでいろんな愚痴を聞かされる。それでなんとなく分かるのだ。
業務内容を知ってしまうとケアマネージャーがやりたい・・・などと口が裂けてもあたしは言えない。
ケアマネージャーには様々な問題が持ち込まれる。
例えば、だれだれさんのお宅は家族での言い争いがひどい、なんとかならないのか・・・とか、だれだれさんは独居は厳しいのではないか、なんとか考えてくれ・・・とか・・・。
いずれの問題もケアマネージャー一人の手に負えるところではない。
持ち込まれた問題をサトエリちゃんはどうやって処理しているかは知らないが、あたしがケアマネジャーなら病気になってしまうだろう。
そんなことがある程度分かってはいるものの、あたしは訪問介護事業所のサービス提供責任者としてヘルパーから上がってきた報告をケアマネージャーに上げなければならない。
サービス提供責任者とは、訪問介護事業所のヘルパーのボスみたいなもので、ケアマネージャーからの依頼を受けて利用者に家に訪問し、ケアプランに記載されている内容をさらに細分化してサービスに落とし込む人間のことである。
ときにサービス提供責任者はケアマネージャーとヘルパーの架け橋にもなるし、ヘルパーが適切なサービスを提供できるようヘルパーを指導することもある。
『辺見さんのお宅の食器・・・ヘルパーが来るまで一切洗ってないらしいのよ。』
『はあ~。やっぱりそうか・・・。ちなみにポータブルトイレはどう?』
『ダメ。多分、ヘルパーが片付ける以外は何もしてない。』
『はあああああ。もう。はっきり言ってネグレストに近いわよね。』
ネグレスト。
簡単に言えば介護放棄のこと。
介護が必要な人に必要な介護をしない、与えないこと。
直接的な暴力、暴言ではないにしても十分な虐待の一つである。
『あたし、一緒に言いに行こうか?』
あたしはサービス提供責任者の仕事は問題点をケアマネージャーにあげておしまいではないと思っている。たまにそのようなサービス提供責任者を見かけることも多いが、それはどうかと思う。
問題提起したなら、提起した人間はそれがどんな問題であっても解決の糸口が見えるまではできる限り協力を惜しまないべきだとあたしは思っている。
『う~ん。そうだね・・・。あたしももう幾度となく言ってるんだけどねえ・・・。』
『そうよね。行ってくれてるヘルパーさんもその場で康彦さんには言ってるみたいなんだけど・・・最近は2階の自分の部屋にこもりっきりで出てこないみたいなの。』
『あの人自身も病気よね。』
『・・・ね・・・。』
『とりあえず、あたし、電話してアポとっとくよ。きっこちゃんはいつ空いてる?』
喜久子・・・略してきっこ。
この呼び方は誰からもされている。
旦那もそう呼ぶもんだから2人の娘まで『きっこちゃん』と呼ぶようになってしまった。
呼びやすい愛称なのかもしれない。
『いつでもいいよ。サトエリちゃんにあわせるから。』
あたしたちが訪問することによって、事態が少しでも解決に向かうならあたしはいくらでも労力を惜しまないつもりだ。
2、
『こんにちは。』
声をかけて家に入った瞬間、鼻につく匂いがした。
埃っぽい匂いに混じって、強烈な匂いがすることにはあたしもサトエリちゃんも・・・そしてある程度の経験を積んだ介護職ならみんな慣れているが、最初の頃はこの匂いに慣れるのに困ったのを覚えている。
この匂い・・・。
つまり便の匂いだ。
そして・・・案の定、康彦はいなかった。
いや・・・正確にはいるのだが、2階の自室にこもって『仕事』しているのだろう。
彼の仕事は自称デザイナー。
一度、見せてもらったが、それはデザインと呼ぶには程遠く、流行りのアニメのキャラクターに似た女の子の絵に体にピッタリの服を着させて、ポージングさせているものだった。こんな服・・・誰が着るんだろう・・・と思ったのを覚えている。
訪問しても返事がないときは家の鍵は開けてあるので入って、サービスをしてもいい、と言われていたのでチャイムを鳴らして返事がなければ勝手に入ることが多い。
ある日、風邪を引いて仕事が行けなくなったヘルパーの代わりにあたしがサービスに入ったとき、やはり玄関のチャイムを鳴らしてもなんの返事もなかったのでいつものように部屋に入って初子さんに挨拶してサービスを始めたのだが、2階の部屋から女性の喘ぎ声が聞こえてきたのだ。
あの時は本当に肝を冷やした・・・。
あたしは2階に声をかける勇気はなかったのでそのまま聞こえないふりをして仕事を続けて、時間が来た時点で帰った。
それにしても・・・。
実際にその場に遭遇するとホントに嫌な気持ちになる。
そう思うのは人それぞれなのかもしれないけど・・・あたしはこのことは誰にも言っていない。
サトエリちゃんなら平気かもしれないけど・・・性格的に・・・。
介護の仕事は利用者だけでなく、家族のさまざまな面に遭遇することがあるが、『性』という基本的に秘められた部分に遭遇することは基本的にない。
そういうものを間接的にとはいえ知ってしまったあたしのショックは大きかった。
今日もあたしは家に入った瞬間、便の匂いよりもあの時のことを思い出した。
サトエリちゃんはずかずか入って行って2階に声をかけている。
それを見て身体が少し固まっている自分をあたしは感じた。
『こんにちは。初子さん。』
サトエリちゃんが2階に声をかけているのを聴きながら、あたしは初子さんのベッドに近づいて挨拶した。
初子さんはあたしを見たが何も言わなかった。
そしてすぐに視線をそらして天井をじっと見つめた。
あたしは背筋に冷たいものが走った。
なるべく考えたくない考えが頭に浮かんだ。
その考えを振り払うように、あたしは『ポータブルトイレ、掃除しておきますね。』と言ってトイレの掃除をすることにした。
あたしはトイレの掃除をしたら初子さんはあたしに声をかけてきた。
『喉が渇きました。』
ベッドサイドに飲み物は置いてあるし、ベッドは電動型のベッドなのでボタン一つで背を上げることができるから、のどが渇いても誰もいなければ自分で飲んでいるはずなのだが、最近では初子さんは人に頼ることばかり考えているようだ。
『どうぞ。』
あたしは吸い飲みを初子さんに渡した。
初子さんは一口、二口、飲んで吸い飲みをあたしに返してきた。
『寝ます・・・。』
今日は午前中にヘルパーが入ったはずなので、初子さんは清潔な服装をしている。
ところがサービス時間に入ると初子さんの服装はひどい状態のときが多い・・・というかひどくないときの方が少ない。とにかく背中まで尿で濡れていることは少なくない。
訪問介護のヘルパーはサービスに入るとすぐに初子さんを着替えさせながら清拭して、ポータブルトイレの掃除をする。
おそらく・・・。
康彦さんは何もやっていないのだろう。
決めつけで物は言えないのであたしはそのことを誰にも話してはいないが、現場のヘルパーたちはそう思っている人が少なくないようだ。
やはり・・・何とかしないといけない。
あたしも腹を括る時期がきたのかもしれない。
3、
結局・・・康彦さんは体調がすぐれないということで部屋から出てこなかった。
あたしがポータブルトイレの片付けとヘルパーがやり残した掃除の部分を掃除している間に、サトエリちゃんは部屋の前でがんばっていたようだった。
『結局さ、何言っても『はあ。すみません。』ばかりなのよ!!』
サトエリちゃんは興奮すると危険な運転になるので帰りはあたしがハンドルを握ることにした。
『そうなんだ。煮え切らないもんね。あの人。』
『そうなのよ。てゆうかあたしらが来るまでエロ動画見てたことは知ってるんだから。あの変態男め!』
『え・・・。』
『あれ?きっこちゃん知らなかったの?』
あたしはあっという間に顔が真っ赤になるのを感じた。
そもそもあたしはその手の話があまり好きではない。
この業界は女性の方が多いのだが、何気にこの手の下ネタを平気で言える子が多い。
『え・・・いや・・・ん・・・まあ・・・うん・・・。知ってた・・・。』
あたしは動揺を隠すように前を見て運転した。
あたしがあんなに嫌だと感じたこともサトエリちゃんは何も感じていなかったようだった。
『きっこちゃんはこういう話、苦手だからなあ。』
『ん・・・うん・・・。』
『でもまあ・・・その話は置いておいてもさ。あいつ、なんとかしないとねえ。』
『そうだね。あれだけなんにもしないとなるとねえ。』
『しかしなんでなんもやらんかねえ。』
サトエリちゃんは助手席で背伸びしながら言った。
信号待ちであたしはサトエリちゃんを見た。
・・・。
サトエリちゃん・・・。
また太ったでしょ。
『ちょ・・・ちょっと・・・。あまりお腹見ないでよ!!』
あたしの視線に気づいたのか、サトエリちゃんはファイルでお腹を隠して言った。
『あ・・・断っておきますが、あたしは別に妊娠を疑ってるわけではありませんからね。』
あたしはさっきの仕返しとばかりに軽く冗談を言った。
『そ・・・そんなに・・・太ってる??』
まあ・・・。
モデルの佐藤江梨子に比べたら・・・ねえ。




