最終話
校舎内に入って、教室への道を進む。少し重い足取りだったけれど、まあ、告白をされて、それを断るというのはなんとも心苦しくて、どうしたものだろうか、と思ってしまう。
好きだと、そんなもったいない感情を私に示してくれたというのに、残酷にもそれをつっぱねなければならないなんて。なんだか申し訳なくて、けれど申し訳ないと思う事自体がもう、失礼であるんだと更に考えてしまって。
ああ。なんだか憂鬱だ。
ため息をひとつ落とした、そのときだった。
ぐい、と腕を引かれて、けれど驚きに声を上げるよりもはやく、手の平によって声を封じられてしまった。
どこぞの空き教室に引っ張り込まれて、その犯人がわからずに恐怖が一瞬走ったが、温もりを感じた途端に安心する。
においをかいだら、それが誰だかすぐに理解した。
ごとん、とごみ箱を落としたのは、抱きしめられているからだ。なんでこんなことになっているのかわからずに、それでも抵抗はしない。
「……昴君?」
疑問符を浮かべつつも、彼の名前を呼ぶ。正面から抱きしめられていた腕が少しゆるんだから、私は懐から顔をあげて彼を見上げる。
う。
見なければ良かった。
昴君の綺麗な顔は、笑っているけれど、その瞳はまったく笑っていなくて、背中にはっきりと冷気を背負っているのがわかる。
怒ってますね。
見ているのが怖くて、反射的に俯くと、冷たい表情と同じような低い声が耳に届いた。
「千絵子」
おう、しかもいつものようにワンクッション置かずに呼び捨てですか。どうしました、昴君。
かたまって返事が出来ずにいると、昴君は私の顎に手をかける。くい、と上向かされた顔は、いやでも昴君とばっちり目が合ってしまう。
怖くて目を逸らそうとすると、逸らすな、と低い声で命令される。
「…………どちらさま?」
驚きと共に出た言葉に、昴君は目を眇めれば、へえ、と声をあげる。笑うその表情も、なんだかとんでもなく悪役みたい。
「目の前にいる俺が誰だかもわからないのに、抱きしめられて抵抗もしないんだ?」
いけない子だね、と言うその顔が実に酷薄であり、私は背筋がぞぞぞ、と寒くなる。
慌てて前言を撤回しようと首を振った。
「いやいやいや、単なる比喩というか!だって、そんなに怒ってる昴君初めて見たっていうかなんていうか!」
「……嫌いになった?」
ふ、と急になくなった圧迫感。先程とは打って変わってなんとも弱気な表情を見せる彼は、一体いくつの顔を持っているんだろう。
きっと、どれもすごく綺麗なのだろう。
「な、何言ってるんだね!そんなわけないでしょ」
「……ほんと?」
「ならないよ」
苦笑する私を、力強く抱きしめる昴君。それで結局、この状況はなんでなのでしょう。
私が疑問に思って質問すると、昴君はああ、とまた低い声を上げた。ああ、怒りが再燃してしまいましたか。
「告白されたんだって?」
「え、ついさっきだよ!?なんで知ってるの!?」
「……教室でなぐさめられてる遠野君みたから」
ああ、なるほど。
ってでも、どうして私はこんな風に昴君に抱きしめられているのだろう。
「あの、ちゃんと断った、よ?」
「……うん、わかってるんだけど」
「昴君……?」
「全部、俺のものにしたい。ずっとずっと、俺しか見れなくなればいいのに」
苦しそうに呟いたその言葉は、あまりにも意外で、目を見開いてかたまっていると、昴君はふ、と自嘲するように微笑んだ。
「俺の愛はめんどくさいんだよ」
そう言って、私に目が眩むような接吻をした昴君は、やっぱり綺麗だった。
「あはははは!」
「笑い事じゃないぞ、やなぎん」
「ご、ごめん……ぶくくっ」
ため息を吐いた私の向かいに座っているのは、高柳奏、少し前まで恋人となった佐藤昴君の想い人だと勘違いしていた相手だ。いや、今もまだ疑っていないでもないが。
正直、戸惑いのが勝っている、のだろう。
朝からずっと、昴君の愛情に戸惑い続けてるのかもしれない。手を繋いで登校して、教室着いたら着いたで……
ああ、思い出したくありません!
悶絶して机に突っ伏した私を、やなぎんが労わるように頭を優しく叩いてくれた。
「あんなに溺愛されてるとは思ってなかった?ご愁傷様」
「……やなぎんは、知ってたの?」
「うん」
即答で爽やかに微笑まれてしまい、私はうう、と呻き声をあげた。
ああ、思い出したくないのになんか頭に流れてくる、今日一日の昴君と私。というか、朝の膝の上事件にしたって私はそれをまるまる容認したのではないのだけれど。ああ、でも押されて流されたら結局ゆるしたのと同じですね、ごめんなさい。
今は今で、生徒会に用事だという昴君を待つ為に教室にいたけれど、昴君がひとりでは心配だというのでやなぎんが付き添ってくれている。
そんな必要はないというのに、昴君はやなぎんに何か耳打ちすると、やなぎんが納得したようにうなずいたのだ。一体全体なんだというのか。
「にしても好奇心でこっちの教室に寄って正解だったなー」
「やなぎん、朝は見た瞬間指さして笑ってたもんね……」
「いやー、あんなに上機嫌な昴は初めて見たかもしれないよ」
やっぱりあれは上機嫌だったのか。私はそう、とため息を吐きつつ頬杖を付く。
「でも、ずいぶん良い牽制になったみたいだね」
「牽制?」
「いや、こっちの話」
やなぎんの言葉の意味を理解できずに首を傾げる。
そういえば、女子が悲鳴を上げていたな。やっぱりそうなるよな、昴君の恋人がいつの間にやら私になっていたんじゃ。放課後になってすっかり応援ムードになっていたのにも更に驚いたけれど。
一体、井上詩織に何を頼んだんだろう昴君は。恐ろしくて想像もしたくない。
女子だけではなく男子も何人か泣きそうな顔をしていたから、昴君て女子だけじゃなく男子にも人気があるんだなあ、と驚いたものだったけれど。まあ、あれだけ綺麗なひとなんだから、当然といえば当然か。
「野田っち、色々と理解してないでしょ」
「む。糖分が足りないかね」
「……糖分を補給したところでどうにもならないと思うなあ」
「…………そうかね」
呆れたような、不出来な妹を見るかのような優しい瞳に、私はしかし不快になるでもなく、ひどく甘えたい気分になった。なんでだか、やなぎんはどこかまーくんと似たような雰囲気を持っているところがある。もちろん全部が全部ではないから、甘えるに至らないのだけれど、ふいにとても安心しそうになる瞬間があるのだ。いやまあ、安心してもいいんだろうけど、いつだったかあまりにも警戒を持たなすぎるのはよくないと言われたことがあったので、最後の一本くらいはぴん、と張りつめておこうかな、くらいには思っているのだ。
「でも、これで信じれた?昴の好きなひとが君って事」
「ていうか、昴君、無理してないんだよね?」
「あまりの変化に信じる信じない通り越して驚いちゃったか」
その言葉に私がうなずくと、やなぎんは苦笑する。
「ま、俺にしたら今まで抑制してたぶん爆発しちゃってるだけだろうけどね」
「……抑制」
「ずっとふりをしていたわけでしょ。俺の事があきらめられない昴を」
「え、知って?」
やなぎんの発言に驚いて目を見開くと、やなぎんがうなずく。私と昴君が仲違いする少し前に、事実を知らされたらしい。てことは、最初は彼も昴君が企てていたことを知らなかったのか。
なんとなく、それに安堵の息を吐いた。ふたりして画策したわけではない、ということを知って、私は確かに良かった、と思えた。あくまでも昴君がひとりでたくらんだことならば、許せない人間がこれ以上増えることもない。
いやまあ、昴君のことはもう色々と許してるんだけど。ただ、いまいちどう彼と接したらいいのか困っているだけなのだ。
「俺と昴はさあ、本当にそういう関係じゃなかったし、昴もやっぱり同性が好きな人間てわけではなかったけど。むしろ嫌悪してたんだ」
「……嫌悪?」
意味を噛み砕くにももう少し話を訊かないことにはどうしようもない。私は繰り返してその言葉を呟けば、やなぎんは特にそれに反応することなく続きを話しはじめた。
「昴ってけっこう中性的な容姿をしてるでしょ。だから、女の子だけじゃなくて男からもけっこう好かれることがまあまああったんだ。本当にそういう意味で」
「ああ……綺麗だものなあ、昴君」
私が呟くと、やなぎんはくすり、と笑った。はて、今面白いことを言ったろうか。疑問符の浮かぶ顔で彼を見やると、やなぎんはなんでもない、と首を振った。
「でね。女の子よりも力が強いから、変な話、無理やり襲われたら抵抗もなかなか難しいでしょ。昴ってさあ、小さい頃に変質者にさらわれそうになったこととかあったから、それから腕っぷしを強くする為に無駄に喧嘩してみたりとかしてたんだよね」
「えっ」
「俺が、空手みたいなのは習わないのって訊いたら、それだと不用意に人を傷つけないようにって癖ができるから咄嗟の時に容赦しない術を身に付けたいんだって笑ってたよ、怖い顔して」
「…………」
昴君、幼少期に色々と辛い目に遭ったんだな。やなぎんは、冗談めかした口調で言っていたけれど、彼が恋愛において酷く臆病になったのが、なんだかわかる気がした。
いや、直接本人からそう訊いたわけではなかったけれど、きっとそうなのだろう。昴君は、自分が人に好かれるのをわかっていて、しかし本当の意味で相手が自分を好いてくれるとは思っていない。だからこそ、まわりに不信感を抱くんだろう。
私を、身体から取り込もうとしたのも、そういう背景があったからなのかもしれず、それでも最後の一線を越えなかったのは、昔強いられたことを私にしようとは思わなかったからなのだろう。
やっぱり、優しい。昴君は、とっても綺麗で、同じように、とっても優しい。
「まあ、だからさ。そんな忌避する対象のようなものを使ってまで、野田っちを手に入れたかったってこと」
「え、あ、ああ……」
そんなところに終着するとは思ってもおらず、私が驚いて妙にあっさりとした声をあげると、ああって、とやなぎんが笑う。
いやだって。
そんな風に結論付けられるとなんかなあ。恥ずかしいというかなんというか。
「……なんか、顔が熱い気がする」
「うん、気のせいじゃないよ。今、真っ赤だもん」
くすくすと笑うやなぎんの言葉に更に私は頬に熱が集中するのを感じる。多分、首まで真っ赤なんじゃないだろうか。うわあ、なんかますます恥ずかしいな。
羞恥心に身悶えて、そんな私をやなぎんが笑っている。しかしふ、と真面目顔になったので、どうしたのだろうか、と私がやなぎんを見ると、彼は悪戯っぽく微笑んだ。
「ついでに教えてあげよっか」
「え?」
「さっき、俺に昴がなんて言ったか」
ああ。先程の耳打ちか。確かにけっこう気になっていたけれど。
私は、はやる好奇心をおさえられずに身体を前のめりに倒すと、やなぎんが耳元に唇を寄せてきた。
そのときだった。
「千絵子さん、ごめんね、待った?」
「! 昴君」
先程までうわさしていた相手を確認して、私は教室出入り口に立つ昴君へと顔を向ける。そんな私を視認した彼が何を思ったのかはわからないが、昴君が微笑んでいた顔をみるみる不機嫌に歪ませると、何を思ったのか彼がずんずんとこちらに大股で歩いてくる。
わけがわからずに彼を見つめていると、昴君は私をすり抜け真正面に座っていたやなぎんへと顔を向ければ、彼の頭頂部を思い切り殴りつけた。
ごつ、と鈍い音がして、それと同時に悲痛な叫び声が教室に響き渡る。
「や、やなぎん!」
「千絵子、こいつと何してた?」
殴られて悶絶している彼に心配顔を向けていると、油断していた私に昴君が声をかける。咄嗟に対応できず、へ!?とひっくり返った声をあげてしまった。
「そんな真っ赤な顔して。何を言われた?」
「いやいやいや!」
ぶんぶんと首を振って私が何を否定したいのかわからないけれどとにかく否定の言葉を繰り返すと、昴君が不機嫌顔をそのままに、私をぐい、と引っ張った。
「必要以上に近付くなって言っただろ」
「やなぎんは昴君の友達で、あかりのことが」
「それでも!」
あまりの物言いになんだか反抗したくなって、私はむ、と顔を顰める。
「……昴君のやきもちやき!」
私の言葉が予想外だったのだろう。昴君は数秒目を見開いてかたまっていたけれど、やがてにっこりと微笑んだ。
あれ、なにかまずいこと言いました?
「やっとわかってくれた?」
「え!ええーと……ですね」
「嫉妬深い俺の心をもちろん納得させてくれる言い訳は用意してるんだよね?」
「だから別に、やなぎんとはなんでもなくて」
「わかってるよ。でもそういう問題じゃないんだ」
「じゃあどういう問題なの!」
「帰ってじっくり教えてあげるよ」
にっこりと微笑む昴君に、私は引きずられる。
いやああ、と声を上げたけれど、無情にもやなぎんはお達者で、と手を振るだけだった。裏切り者め!
引きずられながら、私はどうしたものかと考えあぐねていたけれど、やがて観念すれば私は声をあげる。
「昴君!」
私の呼びかけにぴた、と足を止めたのを確認して、私はふう、と息を吐き出す。
「……さっき赤くなっちゃってたのはね、昴君がどのくらい私のこと好きなのかってやなぎんが教えてくれたからなんだよ」
覚悟を決めて話した真実を、しかし彼は何も言わずに背を向けたままだった。何か言っておくれよ、お願いだから。
多少涙目になりそうだった私は、目が潤み始める前に勢い良く振り向いた昴君の顔を見て、目を丸くした。
「……っそういうのは、本人に直接訊きなさい!」
「! は、はいっ」
よろしい。
言った昴君の顔は、すごく赤い。うわあ、こんな風に単純に照れてる昴君、初めて見た。
さっきの話。昴君がなんでやなぎんを傍に置いたのか。
『昴はね、これ以上ひとりにすると野田っちがまた誰かに告白されるんじゃないかって心配してたんだよ』
その言葉を訊いて、私はもちろん照れ臭さから顔を赤くしてしまったし、そんな絶妙なタイミングで昴君がやってきた時は少し狼狽してしまったけれど。
隣を歩く昴君を見る。彼も、いまだに顔が赤い。よく見たら、耳元まで赤いかもしれない。自然と、私の顔もゆるんでしまう。
もしも、だけれど。
もしも今、あなたに求められてしまったら。私は否やと言えるだろうか。
反語。
なんつって。
ここまでおつきあいくださり、ありがとうございました!